<丹後国一宮 籠神社の神門>
前回・前々回は代表的な海人族の活躍についてレビューしたので、今回は丹後海部氏について言及することにします。
筆者は、2011年、2013年の2回、海部氏が宮司を務める丹後国一宮「籠神社」に参拝しているので、その旅行記を兼ねて綴ってみます。
<丹後国一宮 籠神社の神門>
前回・前々回は代表的な海人族の活躍についてレビューしたので、今回は丹後海部氏について言及することにします。
筆者は、2011年、2013年の2回、海部氏が宮司を務める丹後国一宮「籠神社」に参拝しているので、その旅行記を兼ねて綴ってみます。
<住吉大社 第二本宮本殿>
前回に続いて、海の民について言及します。
津守氏について
安曇氏や宗像氏は、先進地域であった朝鮮半島から鉄器をはじめとする文物の輸入に深くかかわることでヤマト王権の権力基盤の強化に貢献してきました。
しかし6世紀になると、鉄の国産化が本格化して朝鮮半島との交易の重要性が薄れ、さらに562年、交易拠点だった伽耶が滅亡することで、海部を独占していた安曇氏の凋落が始まります。
これに乗じて海部だった諸氏が台頭した。
名古屋辺りを拠点に尾張氏、丹後には海部(あまべ)氏が、さらに膳(かしわで)氏(のちに高橋氏)が若狭や志摩を支配して王権への水産物供給者の地位を確立、安曇氏から派生した凡海(おおしあま)氏が丹後や周防を拠点に活動するなど、海の民を出自とした豪族が台頭した模様。
弥生時代末期から3世紀頃までの日本海側の交易について概括したので、今回は、第52回・53回ブログで予告した「海の民の活躍」について考えてみます。
チャレンジ精神で交易を担った海民集団
現在の日本は、4つの大きな島を含め合計6852もの島から成りたっています。
これだけ多くの島を抱える国は、インドネシアやフィリピン以外にはない。海の民はこれら多くの島を拠点とした。彼らの活躍なくしては、古代日本の発展はあり得なかったでしょう。
すでに第38回と第53回のブログで言及したように、日本の近海は世界でもっとも厳しい荒海の一つとされます。沿岸に沿って進む「地乗り航法」であればともかく、列島周りの海流は非常に速いので、時速3キロくらいの丸木舟による外洋航海は簡単ではありませんでした。
前回の続きとして、四隅突出型墳丘墓と青谷上寺地遺跡について補足します。
四隅突出型墳丘墓
ヒトデのような格好の四隅突出型墳丘墓ですが、これら出雲の墳丘墓と吉備の楯築墳丘墓は、ほぼ同時期に存在したと推測されています。
そして、西谷3号墳丘墓の埋葬施設が楯築墳丘墓と同じような構造の木槨墓であり、埋葬儀礼に用いた土器の中に吉備の特殊器台・特殊壺や山陰東部や北陸南部からの器台・高杯などが大量に混じっているのです。
西谷3号墓から吉備で作られた特殊器台が発見されているということは、出雲と吉備とのあいだの深いつながりを暗示しています。
<宍道湖北岸の蕎麦畑>
前回の続きですが、古代の出雲と因幡について補足します。
出雲政権はあったのか?
古代史を検討する際に避けて通れないのは、「出雲の隆盛と国譲り」に関する論考です。
まずは、「3~4世紀の大和政権誕生に先立って、西日本全域を支配した出雲政権があった」という説は、明確に否定しましょう。これは『記・紀』の記述がもとになってつくり出されたトンデモ古代史です。