ヤマト王権誕生に言及する手始めとして、「神武天皇」を取りあげてみます。
神武は『記・紀』では、「神々の世界」と「人の世界」をつなぐ位置に存在する人物です。
大東亜戦争敗戦前には、神武は建国の英雄として崇められていたことは誰しもが知るところですよね。しかし戦後、行き過ぎた皇国史観の揺り戻しで、今や神武の実在を信じる研究者は、ほとんどいなくなったのではないでしょうか。
一方、いまだに神武を登場させる古代史も存在します。
産経新聞社では、『神武天皇はたしかに存在した』という本まで出版しています。タイトルにビックリして読み進めてみると、実在を証明する内容ではなくて、日本各地に伝わる伝承や行事を取りあげ、現代にまで伝わる建国神話を高らかにうたいあげているわけです。
はたして神武天皇は実在したのでしょうか。
筆者は次のように考えています。
75 なぜ『記・紀』は近畿の銅鐸に触れないのか?
邪馬台国については、九州北部から東遷してきて大和の地に定着したとか、最初から大和の地にあったとも言われています。いずれの場合も大和の旧勢力を倒した後は、新たな祭祀を軸に大和政権につながったと。
その根拠としてよく取り上げられるのが、3世紀前半に急に消滅した近畿の銅鐸祭祀です。
銅鐸は、銅剣や銅矛に匹敵する弥生時代の代表的な製作物ですが、『記・紀』などの古文献には全く登場しない謎の青銅器です。なぜでしょうか。
『記・紀』は、新勢力がもとになった7、8世紀の政権によって編纂されたので、旧勢力のシンボルであった銅鐸に触れていないという見方もあります。
今回は、この銅鐸消滅の経緯と『記・紀』の中で何ら触れられていない理由を考えてみます。
74 邪馬台国大和説と銅鏡
考古学界では、三角縁神獣鏡に関する次のような説が根強く語られてきました。
畿内で集中的に出土した三角縁神獣鏡は、卑弥呼が魏から下賜された銅鏡100枚に違いない。したがって邪馬台国は畿内にあったに違いない……と。
しかし近年、三角縁神獣鏡は下賜された銅鏡100枚ではないことがほぼ確実になってきています。
それはヤマト王権によって大和地域で作られ、各地に運ばれたものであることに異論の余地がなくなってきているからです。
代わりに、大和地域で多く出土する画文帯神獣鏡こそが下賜された銅鏡に相当するので、邪馬台国は大和地域に存在したに違いないという議論が始まっています。
今回は、これらの銅鏡をめぐる議論ついてレビューしてみます。
73 『魏志倭人伝』と『記・紀』から読み解く邪馬台国
第71回ブログで言及した「古代シナ人の世界観」からすれば、『魏志倭人伝』に記された邪馬台国までの距離や方角にとらわれることは、全く意味のないことになってしまうのですが……。
そうは言っても、(距離や方角の記事以外で)所在地の推定に有効と思われる部分だけを切り取ってみたらどういうことが言えるのか、今回は違う角度から所在地についてもう少し掘り下げてみます。
72 倭国大乱の実像
「倭国大乱」はどの程度の規模だったのだろうか。これについては諸説あり、見解が分かれています。
九州の吉野ヶ里遺跡をはじめ複数の弥生遺跡からは、矢じりが刺さったままの人骨や首から上が無い人骨の入った甕棺が発掘されており、山陰の青谷上寺地遺跡でも刀傷のある人骨などが発掘されています。
それらの傷がクニ同士の戦闘を示しているのか定かではありませんが、人を殺傷する行為そのものは起きていたことがわかります。
この殺傷痕を根拠に倭国大乱について、九州北部地域内の局地戦闘とする説だけでなく、出雲と畿内のあいだの戦闘、あるいは九州北部から畿内山陰山陽にかけての広域戦闘だったとするなど、いくつかの説があります。
現在の有力説では、瀬戸内海地域の高地性集落遺跡(山頂等に営まれた城塞的な集落の遺跡)も根拠にあげて、九州北部から畿内までを含む西日本広域戦闘だと言うのですが、真相やいかに?
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