理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

81 神武天皇陵と闕史八代の虚実

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 神武が実在した人物でないことは、これまで度々論じてきました。
 しかし、『記・紀』の編纂時点では神武が日本の始祖とされていた、これは疑いようのない事実です。また7世紀後半に、畝傍山の周辺に初代神武の宮がおかれ、陵が築造されていたのは間違いありません。

神武天皇陵・橿原神宮の歴史
 『日本書紀』672年7月の条に次のような記述があります。
 <神に着(かか)りて言はく、「吾は、高市社に居る、名は事代主神なり。又、身狭社(むさのやしろ)に居る、名は生霊神なり」といふ。乃ち顕(あらこと)して曰はく、「神日本磐余彦天皇(かむやまといはれびこのすめらみこと)の陵に、馬及び種種の兵器(つはもの)を奉れ」といふ>。

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80 神武東征(4)先住の神ニギハヤヒ

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大和の先住者は出雲の勢力?
 奈良盆地の東南部に位置する纏向地域では、高度な建物群遺跡が発掘されています。崇神・垂仁・景行という三代の天皇(三輪山三代)の拠点と考えるのが常識的ですが、大型建物の造りは出雲系の特色を残しており、古代出雲と政治的なつながりがあったとする識者も多いようです。

 石上神宮(いそのかみ)境内には出雲建雄神社が鎮座し、初瀬川沿いには桜井市出雲村の名前も残っています。
 こうしたことから、ヤマト王権の前に出雲政権があり「国譲り」が行われたのではないか、あるいは出雲が協力してヤマト王権を誕生させたのではないかともいわれます。

 しかし、当ブログでこれまで何度も繰り返してきましたが、交通インフラが不十分な時期に、遠隔地の地方政権がヤマト王権発祥に関与するとか、政治的な合従連衡をすることはあり得ません。

 現在の大和地域に出雲の地名が存在するのは、両貫制の名残?でしょう。
 

 大和地域における出雲政権絡みの議論についてはこれで切り上げて、今回は先住神だったとも言われるニギハヤヒについて言及します。
 ニギハヤヒは古代史研究者にとって魅力が一杯の謎の存在ですね。
 まず名前がいい。「饒速日命」「邇藝速日命」「櫛玉命」「天照国照彦天火明櫛玉饒速日命」(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)といろいろに表記されるが、どれも勢いが感じられてかっこいい。
 筆者もニギハヤヒについて考えをめぐらすことは最大の楽しみですが、わからないことが多く謎はなかなか解消されません。

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<ニギハヤヒ・ウマシマヂを祀る石切劔箭神社(東大阪市)>


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<石切劔箭神社絵馬殿上部の劔と箭>

 

なぜニギハヤヒは先住神として『記・紀』に登場したのだろうか
 纏向から興ったヤマト国が大和盆地で最大勢力となる前に、大和の地にニギハヤヒを奉じた先住者がいた可能性は高いでしょう。
 『日本書紀』には、日向の地でシオツチノオジが即位前の神武に向かって、
 「東(ひがしのかた)に美(よ)き地(くに)有り。青山四周(よもにめぐ)れり。其の中に亦、天磐船に乗りて飛び降る者有り」、
 「その飛び降るといふ者は、是饒速日と謂ふか。何ぞ就(ゆ)きて都つくらざむ」
とわざわざ言及する場面があります。

 しかし2世紀前半の時期、九州の地からはるか離れた大和の状況がわかるはずがないから、これは後世の創作と考えるべきですが、8世紀初めの『日本書紀』にわざわざ記されたこの言葉は重いですね。
 おそらく『記・紀』の編纂当時、大和にニギハヤヒを奉じた先住者がいたと考えざるを得ない政治的状況があったのでしょう。

 神武東征物語では、神武一行は、河内の日下の蓼津(くさかのたでつ)と大和の鳥見(とみ、外山)の二度にわたり、ニギハヤヒの部下であるナガスネヒコらに抵抗されますが、主戦派を抑えて帰順した融和派ウマシマヂの力で、神武は大和進攻を果たします。
 ウマシマヂは、ニギハヤヒがトミヤスビメ(ナガスネヒコの妹)との間に設けた長子で、物部氏の祖とされています。
 これをもって、ニギハヤヒ政権から神武への国譲りと考える研究者もいますが、これは大和盆地の中のさらに局所的な争いを描いた物語(神話)なので、国譲りの物語にはなり得ません。

 また、神武東征物語では、大伴氏の祖である道臣命を従えた神武エウカシ、エシキ、ヤソタケルなどを倒す場面も描かれています。
 したがって、神武東征物語は大和政権の先祖と大伴氏・物部氏の先祖が協力して大和朝廷を開いたとする物語が原形であって、これにさまざまな伝承が加わったものと言えそうです。

 事実、物部氏は祭政的な役割を負った軍事的氏族で、大伴氏とともにヤマト王権を支えたとされています。
 6世紀の継体の時期に、大連(おおむらじ)の地位にあった大伴金村と物部麁鹿火(もののべのあらかい)の意向が、この神武東征物語の構想に大きく影響したということでしょう。
 ヤマト王権としても自らの王権神話の中に、物部氏・大伴氏を王権確立の立役者として顕彰する形で取り込んだと言えそうです。


 物部氏の祖先筋は長らく大和の地にあって、ヤマト王権よりも長い歴史を持ち、勢力も拮抗していた可能性があります。
 河内を本貫の地とした物部氏が、3~5世紀の政治の中心地である大和盆地内に設けた拠点が石上(継体・欽明期になると、新たに政治の中心地となる桜井・磐余付近にも進出か?)です。
 つまり物部氏の拠点は河内と大和の双方に存在したのです。

 神話では、ナガスネヒコ(トミビコ)が、大和の鳥見(外山とも?)で神武によって滅ぼされますが、これはウマシマヂを祖とする勢力が河内(本願の地)の他に大和にも拠点があったことを反映したものでしょう。

 このことは、『先代旧事本紀』に、ニギハヤヒが天磐船に乗って河内国河上哮峯(かわかみいかるがのみね)に降臨し、後に大和国鳥見白庭山(とみのしらにわやま)に遷ったと記されていることからも、そういう伝承があったことが読み取れます。

 この河上哮峯は、生駒山系の北端、交野市にある垂直の岸壁にあたるようです。近くには、ニギハヤヒが乗ったという天磐船をご神体とする磐船神社があります。
 過日、初秋の小雨の日に参拝した時、天磐船の威容に圧倒されたのを思い起こします。岩窟めぐりの洞窟は行者の霊場だったようで、古来、巨石信仰の聖地だったのが頷けます。当社には物部一族の肩野物部氏が関係していた模様。
 境内を流れる天野川は淀川に注ぎ、境内前を通る磐船街道は峠越えで大和盆地の生駒市北田原町に続いています。
 東大阪市・八尾市・交野市は物部氏やその支族にゆかりの土地柄で、大阪湾と大和盆地をつなぐ交通の要衝地でした。

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 <巨石が覆いかぶさる磐船神社(交野市私市)>

 また、鳥見白庭山は今の生駒市にあたりますが、『古事記』では、忍坂(土雲八十建)の戦いと磯城(エシキ・オトシキ)の戦いの間に、トミビコとの戦いが挟まれているので、鳥見は桜井市の外山(とび)近くの鳥見山を指しているとも考えられます。

 いずれにしろ、大和川下流の河内と、上流の石上の、その双方に拠点のあった物部氏は、大和川の物流を優先的に利用できたため、大和盆地内でのプレゼンスは飛躍的に高まりました。
 このことは大和盆地で発祥したヤマト国にとって魅力的で、物部氏が王権内で重要な位置を占める大きな誘因(インセンティブ)となったのです。
 これが第78回ブログの最後で予告した答えになります。

 

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<物部氏の拠点(菱田哲郎氏の著作を改変転載)>

 物部氏の本家筋は、587年の丁未(ていび)の乱で蘇我氏に敗北し、『記・紀』編纂時点では没落していますが、部民としての物部は尾張・下総・石見・備前など全国に分布し、また後裔の石上麻呂が708年には左大臣にまで進んでいます。
 九州北部にも物部氏の痕跡がありますが、これはむしろ磐井の乱(527年)の前後に大和から移った一派が定着した可能性の方が高いです。
 この九州物部の存在がニギハヤヒ東遷物語の根拠になったりしますが、これでは時間軸の流れが逆です。
 物部の一族は、したたかに生き抜いたといえますが、平城京へ遷都の際は旧都(藤原京)の留守居役を命じられ、以後は第一線から消えていきます。

 

物部氏の祖先筋はヤマト王権が無視できないほどの勢力を誇った?
 偽書とされる『先代旧事本紀』ですが、そこに描かれたニギハヤヒの東遷物語は神武東征に酷似しています。
 森浩一氏によれば、むしろ神武東征の方がニギハヤヒの東遷をなぞったのではないかといいます。神武東征物語は大雑把な記述が多いが、ニギハヤヒの東遷物語は具体的で細部にも言及していてオリジナルらしさが感じられると……。

 同じく森浩一氏の見解ですが、ニギハヤヒを祀る古社は畿内に多く存在するが、神武を祀る古社はないようです。
 神武を祀る橿原神宮は明治以後に造られたもので論外だし、福岡県遠賀郡の神武天皇社も古代には遡らない。
 ニギハヤヒは古社に祀られているだけでなく、9世紀初頭の『新撰姓氏録』にも多出するが、神武を始祖とする氏は見当たらない。

 こうしてみると、神武の実在には疑問符がつくが、ニギハヤヒの方は実在のモデルがあったようにも思えてしまいます。
 もちろん当ブログでは、弥生末期にクニの規模の広域移動は不可能という立場をとるので、ニギハヤヒの東遷物語も史実として認めるわけにはいきません。

 本来、『記・紀』編纂時に没落していた豪族であれば、それを大和の地の先住者として描くと、神代からの一貫した統治を強調したい大和政権の権威を弱めることになるでしょう。
 しかし編纂時には、物部氏の後継氏族である石上氏が台頭していたことや、ニギハヤヒ伝承が畿内の広域に消すことができないほどに拡がっていたとも考えられます。 
 むしろ物部氏の方が、ヤマト王権の祖先筋よりも大和における認知度が高く、ニギハヤヒ神話が畿内一円で広がっていたのではないでしょうか。
 大和政権が物部氏の祖先筋の伝承を取り込んで、自らの権威付けをしたと考える方が、神話の理解としては理屈に合いそうに思います。

 神話を離れて石上神宮がらみの史実を確認してみます。
 物部氏の活動が実態を伴なうのは6世紀代以降です。それまで纒向地域の北方にあたる布留地域に構えた物部氏(の祖先筋)のもとに4、5世紀頃から武器が集積され、それを6世紀の物部氏がみずからの祖先のものとみなし、天武天皇以降に後裔の石上氏が石上神宮の神宝として管理するようになったというのが事実のようです。


f:id:SHIGEKISAITO:20210118143541j:plain <夕暮れ時の石上神宮(奈良県天理市)>

 

ニギハヤヒを信奉する勢力の範囲
 神話上の話なのであまり拘る必要もないのですが、ニギハヤヒの位置づけについて少々確認してみます。単なる興味本位ですが……。

 紀ノ川上流域の土豪である丹敷戸畔(にしきとべ)が誅された時、霊剣「布都魂(ふつのみたま)」を授けた高倉下(たかくらじ)は、アメノホアカリの子のアメノカゴヤマと同一神で、尾張氏の祖とされています。
 このアメノホアカリをニギハヤヒと同一とする説があるので、神々の世界は大混乱する……。

 『先代旧事本紀』ではアメノホアカリとニギハヤヒを同一神とし、その子がウマシマヂとアメノカゴヤマであるとしています。
 そしてウマシマヂの子が物部氏につながり、アメノカゴヤマの子がアメノムラクモに、さらにその子らが尾張氏・津守氏・海部氏につながるわけです。
 ニギハヤヒ一派が大勢力を誇る図式です。

 しかし、ニギハヤヒは天磐船に乗って河内に降臨するのに対し、ニニギは高千穂に降臨するので、両者は別系統の降臨神話に登場する神と考えられます。

 『新撰姓氏録』では、各姓氏は皇別(こうべつ)・諸蕃(しょばん)・神別(しんべつ)と分類され、さらに神別は天神・天孫・地祇に明確に分類されています。
 神別としてのニギハヤヒは天神(高天原出身、皇統ではない)、アメノホアカリは天孫(アマテラスの系統)として両者を別の分類にしているので、ニギハヤヒとアメノホアカリは別神の扱いになります。

 ニギハヤヒについては、アメノホアカリ同一説の他にも、『播磨国風土記』ではオオクニヌシの子とあり、さらにはスサノオの子とする説やオオモノヌシ同一説などがあり、錯綜しています。深入りすればするほど混乱します。

 筆者も、オオモノヌシが大和地方の固有の神であることから、オオモノヌシはニギハヤヒそのものであるかもしれないと長いあいだ思っていました。
 しかし大神神社(おおみわじんじゃ)の祭神名は、正式には「倭大物主櫛甕玉命」(やまとおおものぬしくしみかたま)であるのに対し、ニギハヤヒは「櫛玉命」であって、「甕」(みか)の一字が欠落している。この一字の有無は大きい......。
 オオモノヌシは三輪氏が祀る(ヤマト王権が三輪氏に祀らせた)神、ニギハヤヒは物部氏が祀る神ということで、明確に異なる神と言えます。

 結論的には、天照国照彦天火明櫛玉饒速日命というニギハヤヒの長い神名は血族・氏族の統合を体現するという意味がありそうです。アマテラス・ニニギの系統(天照国照彦天火明)にニギハヤヒ(櫛玉饒速日)という独自の名を連結したいという物部氏の意志が働いたのではないでしょうか。
 あるいは尾張氏・津守氏・海部氏らと物部氏が広域にわたる近親的な国造氏族であることをアッピールする狙いがあったのかも知れません。こうして神武以前にニギハヤヒ王国があったのではないかという楽しい古代史が語られる素地が作られたのでは……。

 当ブログでは、3世紀以前に、広域のクニ連合や国家レベルの征服戦争はなかったという立場なので、ニギハヤヒを軸とする大和と尾張・丹後の連合説には同意しません。
 しかし7世紀頃までにはこれら3~4氏族の政治的連携が進み、『先代旧事本紀』などに反映されたのではないでしょうか。

 ちなみに『先代旧事本紀』を偽書とする研究者は実に多いですね。
 偽書説は、『記・紀』を引用して都合よく再編したとか、「序」があとから追記されたらしいことなどが根拠とされています。

 しかし、後世に付加されたと思われる序文以外は、一概に掃いて捨てるべきでないと思います。
 『記・紀』だけでは得られない情報が『旧事紀』にはたくさんあります。
 まさに『旧事紀』があることで、神としてのニギハヤヒを論じることが可能になるし、また国造が数多く記載されるなど、古代史の謎の手がかりが数多く包含されているわけです。

 奇異で、とても史実と思えない内容も確かに多いが、それは『記・紀』とても同じ。『旧事紀』の内容を頭から無視してしまうのはいかがなものでしょうか。

 


 次回から、2世紀以降の畿内の状況と初期ヤマト王権の成立過程について言及します。


参考文献
『敗者の古代史』森浩一
『ヤマト王権の考古学』坂靖

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

79 神武東征(3)大和への進入ルートについて

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 神武東征物語は虚構とは思うものの、1~2世紀頃に大和へ軍事進攻する場合、どのようなルートが現実的だったのか検討してみます。古代史としてはお遊び程度に過ぎませんが……。

熊野からの大和入りは可能だったのだろうか
 はたして2世紀前半頃に、神武一行が紀伊半島南端部を大迂回して大和に至ることは可能だったのだろうか、まずはこれを検証してみます。

 『日本書紀』によれば、竈山から宇陀の下県に至る途中の地名は、名草邑、佐野、熊野の神邑(みわのむら、天磐盾)、熊野の荒坂の津(丹敷)の順となります。

 これらを現在の地名に比定すると、佐野は新宮市佐野に、神邑の天磐盾は神倉神社のゴトビキ岩に、荒坂の津(丹敷浦)は二木島付近または勝浦の錦浦になるようです。

 しかしこれらの場所が実際に紀伊南端部であったのかの確証はまったくありません。

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78 神武東征(2)九州北部から瀬戸内海東進

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 神武東征はフィクションなので古代史研究の対象外ですが、それでも7、8世紀の政権中央が神武東征の行程をどのように構想していたのか、子細に検討してみればいろいろと面白いことがわかります。

神武東征の出発地は九州北部かも?
 日向から難波までの行程について、主として若井敏明氏の論をもとに検討してみます。
 『古事記』には、
 <日向(ひむか)より発(た)ちて筑紫に幸行(い)でましき。かれ、豊国の宇沙(うさ)に到りましし時、その土人(くにびと)、名は宇沙都比古・宇沙都比売の二人、足一騰宮(あしひとつあがりのみや)を作りて大御饗(おおみあえ)献りき。其地より遷移りまして、筑紫の岡田宮に一年坐しき。またその国より上り幸(い)でまして、阿岐国の多祁里宮に七年坐しき>。

 <吉備の高島宮に八年坐しき。かれ、その国より上り幸でましし時、亀の甲に乗りて釣りしつつ打ち羽ふり来る人、速吸門(はやすいのと)に遭ひき>、とあります。

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77 神武東征(1)日向からの旅立ち

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 邪馬台国の存在は信じても、神武東征を史実とみなす研究者はさすがに少ないようです。
 筆者も神武東征物語や神武天皇の実在をベースとした古代史には与しません(第76回ブログ)。
 それでもこの物語を無碍に扱わずに紐解いてみれば、さまざまな発見があって面白いですよ。今回からしばらくはそういう観点で「古代史の遊び」を楽しんでみたいと思います。

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