第70回から75回のブログで、邪馬台国がヤマト国に連続しないことを確認しました。よって纒向集落はヤマト国(ヤマト王権の初期状態)の前段階のクニの姿と位置づけられそうです。
考古遺跡・遺物の存在から、(仮に崇神が3世紀末に実在したとすれば)崇神以前のムラやクニの姿をおぼろげながらもイメージすることは可能と思われます。
ではヤマト国は、いったいどのようにしてつくられたのでしょうか。
纒向誕生に関する諸説
3世紀初めまでは無主の地だった(?)纒向に、突如として280メートル近い巨大な箸墓古墳(前方後円墳)が出現したのは驚異であるとされています。
あまりにも桁外れの出来事なので、次のようにいろいろな説が登場します。これら諸説については、今までのブログでも言及してきました。
代表的な説は、政治連合説(第18回ブログ)や邪馬台国東遷説(第70回ブログ)。倭国大乱後の平和都市説や祭祀都市説、見えざる鉄器説なども……。
そして、3世紀半ばの箸墓古墳の出現をもって「古墳時代の始まり」とするのは今や考古学界における有力説となっています。
しかし、どの説も外的要因がドラマチックすぎて、纒向が誕生した説明としては今一歩の感が拭えません。直感的に無理筋と感じてしまうのです。
交通インフラが未整備で、情報の授受もままならない大和盆地の中に、遠隔地の政治権力が介在する形で、短期間のうちに新たな大集落が誕生し、しかも巨大古墳が築造されたとはとても考えられません。
古代の歴史の歩みはもっと緩やかだったのではないか……。
筆者は、纒向集落の誕生とヤマト国への発展は、文化・宗教・技術などの外的要因が作用したこともなくはないが、3世紀半ば頃までに大陸文化の影響がほとんど見られないことなどから、一次的には大和盆地内部にその要因を求めるべきと考えます。
それは纒向の特異性です。
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