理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

93 那珂八幡古墳

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 2019年2月14日付 西日本新聞朝刊に興味深い記事がありました。以下に抜粋して要約します。
 古墳時代開始期前後(3世紀)に造られたとみられる前方後円墳「那珂八幡古墳」(福岡市博多区)の形状が、九州北部独自のものであることが福岡市の発掘調査で明らかになったようです。
 最古級とされる同古墳の形状が大和地域のものと違うことから、「ヤマト王権に服属した証しとして、地方の勢力が大和の古墳をまねて前方後円墳を築造した」とする古墳時代の構図に一石を投じることになりそう(第62回ブログ)。

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92 古墳設計思想の伝播・不明確な築造時期

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 第84回ブログでは、箸墓古墳の築造時期が、必ずしも通説である3世紀半ば頃とは限らず、4世紀前半までの可能性があることに触れました。
 どちらを採るかで、古代日本における統治のプロセスに天と地ほどの差が生じてしまいます。

 前回(第91回)のブログを記していて、古墳のあやふやな築造時期を根拠にヤマト国・ヤマト王権の版図拡大プロセスを論じる難しさを感じました。大きなストレスですらあります。
 4世紀のヤマト王権の状況を執筆するにあたって、筆者の古墳築造時期への向き合い方を明確にしておかないと、大きな混乱を招くと思ったので、今回のブログで整理してみます。

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91 ヤマト国の伸張(2)大和盆地内の連携

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 「纒向のクニ」を起点に、大和盆地東南部の「おおやまと」全域に勢力を拡大した「ヤマト国」は、3世紀末頃から、盆地北部の有力集団との連携に動き出します。

「ふる」地域集団との同盟関係
 「おおやまと」地域のすぐ北は、石上神宮(いそのかみ)のある「ふる」地域になります。
 大和川支流の布留川下流部(天理市)には、弥生時代の大規模環濠集落「平等坊岩室遺跡」がありました。3世紀には環濠内に方形区画が出現し、「ふる」地域を支配した王の居館があったと想定されています。

 3世紀半ばまでに「平等坊岩室」の環濠は消失し4世紀に集落全体が衰退すると、入れ替わる様に布留川上流部に「布留遺跡」が出現します。
 この遺跡は布留式土器の命名の由来となった遺跡としても有名!

 布留遺跡内には、4世紀半ば過ぎに日本最大の前方後方墳である西山古墳(墳丘長183メートル)が出現します。「ふる」地域を支配した王の古墳と想定されます。
 布留遺跡は、5世紀後半にかけて巨大集落(規模は3㎢)に成長し、大和盆地における有力集団の支配拠点となります。

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90 ヤマト国の伸張(1)纒向のクニからヤマト国へ

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 今回から数回に分けて、纒向に発祥した中小土着勢力による連合体(纒向のクニ)が 大和盆地内で最大勢力の「ヤマト国」になり、その後、周辺へ、そして広域へと影響力を拡大して、ついには「ヤマト王権」にまで成長していくプロセスについて詳述します(第45回ブログで少々言及したが……)。
 これからの数回で取り上げる対象時期は、おおむね3世紀末から4世紀までとなります。

 「古代の技術と交通インフラ」に着目する古代史において、「ヤマト国の伸張」は核心的な部分に当たりますが、考古学界の多数説と大きく異なる内容でもあります。

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89 ヤマト国の発祥(5)優秀な王・厚い豪族層・軍事力の優越

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ヤマト国の本格的勢力拡大は4世紀後半以降
 大和朝廷が、古墳時代の初期(3世紀~4世紀前半)に日本列島の広域を支配していたという通説は成立しないし、大和地域が当初から突出していたわけでもありません。
 河川や山などの障壁を突破できる交通路が貧弱だったため、大和盆地の中で発祥したヤマト国は、軍略に訴えて短期間のうちに、しかも広域に勢力を拡大することは不可能でした。

 近畿中部に位置する大和地域が、近江や丹後などの鉄製品製造の先進地から鉄鋌(てってい)や鉄製品を調達して、大きく飛躍するのは4世紀以降でしょう。これについては、考古遺物の存在から、同盟関係を築いた大和盆地北部の豪族の役割を無視できません。
 日本列島の統一は、製鉄技術の進歩や交通インフラの整備に比例して、7世紀頃にかけてゆっくり進んだというのが古代史の正しい理解です。

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