第97回ブログで朝鮮半島の古代史を概括しました。
また、4世紀における日本と百済・伽耶の関係については第111回ブログでやや詳しく言及しました。しかし、それでもまだ足りません。
今後、5、6世紀までの日本の古代史に触れるには、遠交近攻が渦巻く朝鮮半島情勢、特に高句麗との確執、ならびに伽耶諸国の隆盛から衰亡まで、それらを一貫した通史として、さらに詳しく知っておく必要があります。
同時に、日本がどのように絡んでいたのか、出来る限り確認してみます。
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また、4世紀における日本と百済・伽耶の関係については第111回ブログでやや詳しく言及しました。しかし、それでもまだ足りません。
今後、5、6世紀までの日本の古代史に触れるには、遠交近攻が渦巻く朝鮮半島情勢、特に高句麗との確執、ならびに伽耶諸国の隆盛から衰亡まで、それらを一貫した通史として、さらに詳しく知っておく必要があります。
同時に、日本がどのように絡んでいたのか、出来る限り確認してみます。
続きを読む 4世紀と言えば、古代天皇の在位(第19回ブログに準拠)でみれば垂仁から応神までに相当しますよね。
この間、『記・紀』では、景行の西征、ヤマトタケルの征討、朝鮮出兵、応神による政権奪取などが記されていますが、どうして「謎の4世紀」と呼ばれるのでしょうか。
今まで、4世紀の遠征物語は虚構(第98回ブログ)などと述べてきましたが、過去の事象が書かれた文献を調べる時は慎重であるべきとつくづく思います。
過去の人が、さらに過去の事象を記録した文献には、過去の人の歴史感覚や価値観にマッチしたものだけが反映されています。過去の人が記録した文献をいくら懸命に紐解いてみても、さらなる過去の事象が明確になるとは限りません(第3回ブログ)。
理系的視点から古代史をレビューしている筆者が、真っ先に排除すべきと思っているのはトンデモ古代史です。ここでは、今でも多くの人に支持されている事例をいくつか取り上げてみます。
続きを読む神功皇后伝説が生まれたバックグラウンド
第98回ブログでは、神功皇后の三韓征伐を虚構であると断じました。4世紀半ばという時期に着目すれば、まだメジャーになっていない敦賀から出発する不自然さや、準構造船(第54・55回ブログ)が存在しないのに三韓征討の大軍が渡海できてしまう不思議を指摘できます。
さらに長野正孝氏は、10月から翌年2月までの冬季の新羅遠征はまったく不可能と指摘しています。
『日本書紀』によれば、神功は、秋9月10日に舟と兵を集める号令を発し、冬10月3日に対馬の鰐浦から出発し、瞬く間に三韓を従え、12月14日には宇美で応神を産んでいます。これは、今の暦では10月下旬から翌年1月下旬にあたりますから、確かに対馬海峡がもっとも荒れる時期になりますね(第53回ブログ)。
もっとも、当時の交通事情や渡海能力を指摘する以前に、三韓征伐はお伽噺のようなタッチで記されているので、神功の実在や業績そのものに疑問符をつけざるを得ないという根本的な問題があります。
続きを読む前回の続きです。
吉備地域
古代、吉備の穴海が存在した吉備地域は、地政学的に陸上・海上交通の要の位置にありました。このため、紀元前から人が集住し独自の文化を築いてきました。
水田稲作の開始(第60回ブログ)は、九州北部が最も早く紀元前10世紀頃で、瀬戸内海沿岸地域では紀元前8世紀末頃とされているようです。岡山市の旭川右岸に広がる津島遺跡では、弥生時代の集落遺跡と共に水田跡が見つかり、最初期の水田跡ではないかとされています。
早くから稲作がもたらされた吉備地域には、独自の一大文化圏が生まれます。
紀元前後に、特殊器台・特殊壺という吉備特有の土器(第108回ブログ)が出現したことがそのことを物語っています。大和盆地に伝わった後、円筒埴輪と形を変え、近畿一円をはじめとして急速に広がります。紀元前から吉備と大和の間にはそれなりの通交があったのです。
しかし、実際にヤマト王権が吉備地域を重要視するのは、西へのアクセス確保に本腰を入れる5世紀以降のことです。ちょうど吉備氏が瀬戸内海地域の雄として勢力を拡大する時期にあたります。
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