理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

124 「かづらき」地域集団と葛城氏(1)

 第91回~95回のブログでは、「おおやまと」と「さき」の王権や、有力集団である「ふる」地域集団(物部氏の祖か)と「わに」地域集団(和珥氏の祖か)に言及しましたが、大和盆地南西部の勢力(「かづらき」地域集団)には触れずじまいでした。

 今回は、南西部にゆかりの葛城氏・鴨氏、彼らの祖や、彼らにゆかりの遺跡群について確認してみます。

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123 5世紀のヤマト王権のかたちを『記・紀』から推理する(2) 

 前回の続きです。5世紀の大王の政治拠点と陵墓について確認してみます。

5世紀の大王の政治拠点
 筆者は、応神・仁徳の頃までの『記・紀』の記述に疑義を呈してきましたが、仁徳の3人の息子と孫の記事にはある程度の信憑性があると考えられる(前回ブログ)ので、念のため、それぞれの政治拠点を確認してみます。

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122 5世紀のヤマト王権のかたちを『記・紀』から推理する(1)


 <薬香草園>

 神武の伝承は、全体としては後世に造作されたものです。大伴氏や物部氏、倭氏らがみずからの祖先の功績を顕彰するために、神武東征の物語が整えられ、『記・紀』編纂の際に採録されたということは、今までのブログで述べました(第81回ブログなど)。

 闕史八代に続く崇神・垂仁・景行の三輪山三代は、実在が不確かで人物が特定できませんが、同時期の遺跡は纒向ならびにその近辺に確認できます。おおやまと古墳群を構成する各古墳が『記・紀』のどの王を祀ったものなのか詮索することにあまり意味はありません。どうせよく分からないのですから(第83回ブログ)。ヤマト王権発祥の地であったことさえ確認できれば十分でしょう。

 そして、成務、仲哀、神功皇后の代になりますが、彼らの事績は伝説的・寓話的な内容で彩られていて、実在そのものが明確ではありません。
 では、続く応神、仁徳はどうなのでしょうか。

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121 大王墓から5世紀のヤマト王権のかたちを推理する!


 <薬香草園>

 第118回ブログでは、「倭の五王」を『記・紀』の大王に比定することがいかに困難か確認しました。その「五王」による王権は、実は唯一の「王の中の王」ではなく、「複数の王」によって構成されていたのかもしれません。
 今回は第90回・101回ブログで言及した「複数の王が並立したヤマト王権」のその後の考察です。

 まず、大王墓に相応しい巨大古墳の築造時期を整理してみます。

 おおやまと古墳群は、箸墓古墳を除けば、4世紀前半から4世紀半ば過ぎ(第90回ブログ)。

 佐紀古墳群西群は4世紀半ばから4世紀後半(第95回ブログ)。

 佐紀古墳群東群は5世紀中心(第95回ブログ)。

 特に、4世紀半ば過ぎには、おおやまと古墳群の渋谷向山古墳(墳長302メートル)と、佐紀古墳群西群の佐紀陵山古墳(207メートル)がほぼ同時に築造されおり、しかも双方に拠点集落が見られることから、王権に二つの勢力が併存したことは間違いないと筆者は考えました。

 そして巨大古墳の併存は、佐紀古墳群と古市・百舌鳥古墳群の間でも見られると記したので、今回はその確認をしたいと思います。

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120 古市古墳群と百舌鳥古墳群


 <田野倉の棚田>

 河内平野の変遷については、第78回ブログで神武東征を論じる時に言及しました。5世紀頃までの河内には、大阪湾から切り離された河内湖がまだ存在していましたね。

 河内は上町台地を除いては概して低地で、河内湖に向けて、北東から淀川・桂川・鴨川・瀬田川・宇治川・木津川の水が、南から石川・大和川の水がすべて流れ込んでいたため治水が悪く、頻繁に起きる洪水で、低地には人が住むことができませんでした(第102回ブログ)。

 それでも、2、3世紀頃の中河内の微高地には、弥生時代では最大規模の中田遺跡群久宝寺遺跡群が、纒向遺跡を上回る集落規模で存在していました(第82回ブログ)。
 当地は、吉備以東の瀬戸内海、中でも播磨・讃岐、そして山陰との通交にきわめて有利だったからと思われます。

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