<偕楽園の梅>
吉備地域は、3世紀頃から5世紀にかけて、政治的にも文化的にもヤマト王権(ヤマト国)に対峙する勢力圏を形成していました。もちろん、それ以前からの蓄積があったからです。例えば水田稲作の開始時期です。
岡山市の旭川右岸に広がる津島遺跡の水田遺構は、佐賀県唐津の菜畑、福岡市の那珂・板付などに、さほど遅れない時期に始まっています(第60回・111回ブログ)。また、他の地域を凌ぐような数々の精巧な木製品も出土しています。
その延長線上に、国内最大規模の楯築墳丘墓(足守川流域・双方中円形墳丘墓・全長80メートル)が出現するわけです。
3、4世紀頃の吉備地域には、吉井川、旭川、高梁川、足守川の流域ごとに個別の生産基盤をもつ集落遺跡が存在し、そのそれぞれが、日本海側から文化・技術を吸収し、大和を含む他地域とも通交して、主体的に前方後円墳、前方後方墳、方墳などを採用していたと考えられます。
この状況は、権力者同士の競争原理が働いており、吉備全域を支配し海外とも通交した吉備の王は存在しなかったことを示していると思われます(第111回ブログ)。
その後、4世紀後半に集落遺跡は衰退し人口が減少するが、5世紀になると3基の巨大前方後円墳(造山古墳、作山古墳、両宮山古墳)が出現し、吉備氏が吉備地域の雄として歴史の表舞台に登場したと推測できます。ただし、この吉備氏は単一の「氏」ではなく、幾つかの地域氏族の総体であった可能性が高いと思われます。
第111回ブログで、「3、4世紀までの吉備」には触れているので、今回のブログでは、「その後の吉備」について確認していきます。
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