理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

149 賀茂別雷神社と賀茂御祖神社


 <瀬見の小川>

 神武東征の場面には八咫烏(やたがらす)が登場します。
 今回は、ヤタガラスにゆかりがあるとされる賀茂大神や賀茂社の創始事情について言及します。

神武東征と八咫烏
 八咫烏(やたがらす)は、神武東征の途中、熊野の地で神の毒気に接して苦戦するが、「布都御魂」(ふつのみたま)のおかげで覚醒し、大和の橿原への進撃を再開します。しかし神武の軍が吉野の山中が険しく道に迷い難渋していたところ、アマテラスが「郷導(くにのみちびき)」として遣わしたヤタガラスが天空より翔び降り、彼らに進むべき道を先導したとされています。

 『古事記』『日本書紀』ともにおおよその筋書は似ていますが、『日本書紀』では兄磯城(えしき)を攻略する際に、ヤタガラスが伝令として貴重な情報をもたらし神武軍の勝利に貢献したと伝えるほか、橿原で神武が即位した後の論功行賞で、ヤタガラスを賞したと伝えます。そしてヤタガラスの子孫が葛野主殿県主(かどののとのもりのあがたぬし)である、としています。
 一方、『古事記』はヤタガラスの後裔氏族については一切触れていません。

 葛野主殿県主が賀茂社のある山背国葛野郡(かどののこおり)を本拠とする豪族とみられることから、ヤタガラスと賀茂社の結びつきが語られる素地となったのでしょう。

 その経緯はどんなものだったのでしょうか。まずは賀茂社を概括してみます。

 

糺の森に佇む王城鎮護の一宮
 「全国一宮巡拝」の神社配列では、必ずその最初に、賀茂社を構成する「賀茂御祖神社」(かもみおや)と「賀茂別雷神社」(かもわけいかづち)が並んでいます。

 奈良に都があった頃、京都は奈良から見て山の後ろ側にあるので、半ば侮蔑の意味を込めて「山背」と呼ばれていました。その山背が後に山城に転じます。

 一宮制が整備された平安時代に、都は京都となり、お膝元の山城国は畿内の中でも特別の位置に昇り詰めていきます。それ以降、山城国にある賀茂社は全国神社の筆頭格の地位にあるというわけです。

 京都の賀茂川と高野川の合流地点はデルタと呼ばれています。
 ここから下流は同じ「かもがわ」でも鴨川と表記します。これに合わせ、「賀茂御祖神社」を下鴨神社とし、「賀茂別雷神社」を上賀茂神社と通称するわけですね。この表記については、江戸時代の中頃から使われるようになったようです。

 王城鎮護の社とされる下鴨神社と上賀茂神社について、以下確認します。

 

賀茂御祖神社(下鴨神社)
 デルタ地帯の先は、紀元前からの鬱蒼とした原生林が残る「糺の森」が続きます。この森の中の参道を700メートル進めば「賀茂御祖神社」の社殿に至ります。

 糺の森には馬場と参道が並行して南北に走り、その間には瀬見の小川が流れている。 糺の森は古木が立ちならび、まことに素晴らしい。境内には平安時代の祭祀遺構やせせらぎも残されています。

 神橋を渡ると右側には「直澄」と呼ばれる手水舎があります。直澄は磐座石とけやきの古木を利用して作られた舟形をしています。

 南口鳥居をくぐると、遥か前方に絢爛豪華な重層楼門が見える。楼門をくぐると正面に舞殿。その背後に中門があり社殿群はその中に展開しています。

 中門をくぐると正面に幣殿、本殿が建つが、その手前に十二支を祀る「えとの守護社(言社)」が陣取っています。言社の7つの社殿は、本殿のまん前という最高の位置に鎮座していることになります。

 正面の一言社にはオオクニタマとウツシクニタマ、右側の二言社にはオオクニヌシとオオモノヌシ、左側の三言社にはオオナムチ、シコオ、ヤチホコを夫々祀る。いずれも干支の名とともにオオクニヌシの様々な名が冠せられているので、言社は出雲社とも呼ばれる。

 しかし「下鴨神社」本体とオオクニヌシや言社との接点は全くない。十二支を守護神とする後世の俗信ですが、先住神を祀ったものではないかという捨てがたい説もあるようです。

 幣殿に上がり左折して西渡廊の先まで進むと、西御料屋から印璽社と西本殿、祝詞舎、東本殿を拝することが出来ます。
 東西の本殿は流造建築の源流と言われ国宝に指定されています。本殿前の青色の狛犬が珍しい。

 祭神は玉依媛命(たまよりひめ)と賀茂建角身命(かもたけつぬみ)であり、東本殿にタマヨリヒメ、西本殿にカモタケツヌミが祀られています。
 タマヨリヒメは神武の母とは同名異神で、カモタケツヌミの子神に当たります。

 本殿の西隣りには、タマヨリヒメとその両親を祀る「三井神社」が鎮座しています。西側の垣の外側には御井、大炊殿、葵の庭(カリンの庭)があるのも数々の由緒が感じられます。
 私事になりますが、筆者が大好きな京都の「柊屋旅館」の名の由来は、下鴨神社の境内にある比良木神社で、邪気を祓う柊の木が自生する当社に先祖は深く帰依し、それになぞらえ屋号を「柊家」としたそうな。

 

賀茂別雷神社(上賀茂神社)
 「上賀茂神社」は、京の都の北側、洛北の地に鎮座する京都最古の神社です。戦前までは官幣大社として「伊勢神宮」に次ぐ社格で全国神社の筆頭に位していました。

 一ノ鳥居からニノ鳥居にかけて広大な芝生が広がり、さらに進めばニノ鳥居の奥に細殿、その右には橋殿、土屋、手前に楽屋が建ち並びます。
 細殿の前には神体山の神山をかたどった一対の立砂があり、神が降りてくる依り代とされています。鬼門・裏鬼門に「清めのお砂」をまくのは、この立砂信仰が起源とされると伝わります。
 細殿の後方には朱色の玉橋と楼門、東西の廻廊が延び、樹叢の緑との対比が実に美しい……。

 その手前には「岩上」がある。葵祭において、皇室からの勅使の祭文を受け、当社宮司が返祝詞をあげる神聖な場所で、古代祭祀が色濃く残る場所だ。
 「岩上」の傍らに鎮座する「片山御子神社」はことさら丁寧に祀られており、先住神を祀ったものという説もあります。

 楼門をくぐると、石段上に中門があり、中門から奥を覗くと、透廊を通して祝詞舎が見える。祝詞舎の先には国宝で流造の権殿と本殿があり東面している。祭神は賀茂別雷大神で、「下鴨神社」の祭神タマヨリヒメの子神とされています。

 

葵祭
 賀茂社を語る時には、祇園祭、時代祭とともに「京都三大祭」と呼ばれる葵祭を避けては通れません。葵祭は石清水祭、春日祭とともに「日本三大勅祭」としても名高いですね。
 葵祭の歴史は古く、『続日本紀』の文武天皇2年ほか数カ所に、この祭りの中で行なわれる競馬(くらべうま)での賑わいと、人馬が数多くあい集まって混乱を極めたことから禁令が出されたという記述がみられます。

 平安時代になると急速に、当社は皇室と接近し、皇女の中から斎王が出されるようになります。平安中期頃からは賀茂皇大神宮と呼ばれて皇祖神扱いをされるまでになり、「伊勢神宮」に次ぐ第二の神社として崇められ、王城鎮護の社としての地位を確立するのです。

 

上賀茂神社と下鴨神社の関係と伝承
 「上賀茂神社」と「下鴨神社」の祭神関係を整理してみると、賀茂社は祖父、子、孫の親子三代にわたる神を祀る神社ということになります。

 『記・紀』では、神武の大和への東征を先導したのは三本足のヤタガラスですが、古語拾遺(こごしゅうい)では、神武一行を先導したヤタガラスはカモタケツヌミの化身であるとし、京都にある上賀茂・下鴨神社を奉斎する賀茂氏の祖と伝えています。カモタケツヌミは当地に居を構え、古代豪族である賀茂氏の祖となり、タマヨリヒメはその娘であると……。

 また、風土記によれば、タマヨリヒメが鴨川(瀬見の小川)に流れてきた赤い矢を家に置くと、彼女は妊娠してワケイカヅチを産んだという説話があり、この命が「上賀茂神社」の祭神となっているのです。賀茂社はこの「丹塗矢伝説」を起源とする神社とも言えます。
 今回のアイキャッチ画像には「瀬見の小川」の秀麗な姿を掲げてみました。

 その丹塗矢は長岡にある「乙訓神社」にあるらしい。ワケイカヅチはその後に天に駆け上がり、神山に降臨、山城国を拓いて王城鎮護の神となったと……。

 有名な謡曲「賀茂」は、この神話を題材にした脇能です。

 両社の創始は上賀茂の方が早く、奈良時代初めまでは賀茂社といえば「上賀茂神社」を指しました。遅れて奈良時代中期に「下鴨神社」が創始されたようです。

 御祖神社の「みおや」は、古代は実母を御祖と称したことによる。また別雷神社の「別」は分かれるとか派生するという意味で、上賀茂は下鴨から生まれたので両社を合わせて言う時は「下上社」と称するらしい。

 三品彰英氏は次のような見解を披露しています。
 かつて山城の葛野鴨の地に天つ神と国つ神の2社が上下として並び祀られていた。この地方における一個の地域的社会集団自体が天神と地祇を上・下の地区に奉斎していた。換言すれば山城の鴨の地方にそれ自体において全一体として上下(天地)の双分的な祭祀構造を持っていた。後にこの地に平安京が営まれると、この上下二社の神事が天皇の主要な国家的祭神行事として盛大に実修されることになり、それが葵祭として今日まで伝承されてきた。

 

賀茂族の祭神が山城国に落ち着くまでの経緯
 賀茂社の祭神(カモタケツヌミ)は、いかにして山城に鎮座するようになったのか、これについては『山城国風土記』逸文に伝承が残されています。

 「大和の葛城山の神が、山城の岡田の賀茂に至り、さらに木津川に沿って北上し、高野川と賀茂川の合流点に達し、久我の国の北山の基に鎮まった」。

 「山代の岡田の賀茂」とは木津川市加茂町の木津川河畔にある今の「岡田鴨神社」を指し、「高野川と賀茂川の合流点」は「下鴨神社」のあるデルタ地帯、「久我の国の北山の基」とは今の「久我神社」で、上賀茂神社の付近に当たります。「久我神社」は、「上賀茂神社」からは賀茂川を渡った西側の境外摂社で、鴨氏の祖とされるカモタケツヌミを祀っています。

 したがってヤタガラスはもともと大和の葛城山の神であったということに……。
 しかし葛城は、荒ぶる国つ神を祀る鴨族の本拠地で、アジスキタカヒコネを祀る高鴨神社でも有名。葛城由来の神が、カモタケツヌミとアジスキタカヒコネの二柱存在することになってしまいます。

 これについては次の二説が存在します。

 ひとつは、山城の賀茂氏と葛城の鴨氏はもともと同系氏族だったが、後に葛城の一派が山城に移行したという説。

 一方、宇陀に八咫烏神社(やたがらす)があることから、吉野川流域の宇陀(紀ノ川の上流部)を本貫の地とする賀茂氏と葛城の鴨氏は、別々の存在だったという説もあります。

 また、八咫烏神社は、神皇産霊尊(かみむすひのみこと)の孫であるカモタケツヌミの化身と伝えられ、宇陀の地で祀られているともされます。

であれば、神とともに鴨族の一派が葛城から山城へ移住したと考えるのは、大きな的外れではないのではないかと筆者は考えます。

 

大宝令の注釈書『古記』の記述
 葛城には、鴨族によって荒ぶる国つ神が土着の神として祀られ、「高鴨神社」や「一言主神社」などの鴨氏ゆかりの神社が多く残っています。
 これについては、738年頃に編纂された『古記』にそのヒントがありそうです。

 『古記』には、
 「天神は、伊勢、山城の鴨、住吉、出雲国造の斎く神らの類是なり、地祇は大神、大倭、葛木の鴨、出雲大汝神らの類是なり」
と記載され、山城の鴨と葛木の鴨が分けられています。

 これを、上田正昭氏は以下のように紐解いています。

 「出雲氏の場合も、鴨氏の場合も、土着的性格が濃厚であるので、祭神はともに国つ神に加えるべきなのだが、8世紀前半における認識では、別々の分類に同種の神が分けられていた。元々、葛木鴨族の『高鴨の神』はアヂスキタカヒコネであるが、この神が葛木鴨→岡田鴨→山城鴨へと遍歴してゆくあいだに、神格は転移し、奉斎集団の政治的な変貌とともに、カモタケツヌミへと神名じたいが変わり天つ神化したものである」。

 実際、天つ社と国つ社という区分が具体化したのは、天武天皇の頃からとみられますが、山代の鴨を「天神」としたのは、8世紀になり、山城の鴨の神と大和朝廷との繋がりが密接になったからに違いありません。

 

ヤタガラスと賀茂社の結びつき
 通説では、葛野県主が鴨神に仕えて鴨県主になったとしますが、鴨県主の氏族は始めから葛野県に居住したのではなく、まず葛野県を賜わって葛野の地に移り住み、後に鴨県主に任ぜられたのだと思われます。

 ヤタガラスの後裔を葛野主殿県主部とするのは『日本書紀』だけで、葛野県主部とは記されていません。
 「主殿県主部」とするのは、鴨県主が主殿寮の職掌についていた後の状況に基づくもので、その祭式の状況を反映して神武軍の大和入りの説話が形づくられたと考えられます。「部」は「~等」という意味のようです。

 「主殿」とは、貴人の行幸の際の御輿や衣笠、扇を用意したり、湯沐、灯燭などを担当する官職で、日置(へき)、子部(こべ)、車持(くるまもち)、笠取(かさとり)、鴨の5氏から採用されることになっていました。
 葛野県主の主殿としての「車駕行幸供奉」(きょがぎょうこうぐぶ)、「秉燭照路」(へいしょくしょうろ)という職掌を反映して、神武軍を先導するヤタガラスの説話がつくられた可能性が高い……。
 つまり、祭式の様子が神話に取り入られたということでしょう。

 したがって、ヤタガラスの伝承と鴨県主とが結びつくのは、8世紀前後の頃であって、705年に宇陀に八咫烏神社が設けられたのも偶然とはいえません。

 

葛城の鴨大神
 大和盆地の西側に連なる金剛山地をはさんで、その西側は瀬戸内に開けた河内で、東側が「かづらき」地域になります。その「かづらき」地域の歴史は古く遡りますが、葛城氏の先祖筋は4世紀後半から定住を開始したのではないかと考えます。
 そもそもこの「かづらき」の地には、後に鴨族と呼ばれる先住集団が住み、紀元後から大きな勢力を持ち始めた可能性があります。

 鴨族が営んだと思われる鴨都波遺跡が纒向遺跡よりも早い2世紀から5世紀過ぎまで存在しています。
 また、鴨都波遺跡の南には、3世紀後半から5世紀過ぎまでが盛期とされる広大な秋津遺跡・中西遺跡が存在しました。当地域には纒向遺跡よりも前から先進的な勢力があったことは間違いありません。
 後世(おそらく6世紀以降)のことになりますが、当地域に鴨都波神社高鴨神社が創建され、「鴨」の字が冠されていることもその傍証になりそうです。

 いずれにしろ、葛城氏鴨氏(という固有名詞)の具体的な事績は、4世紀にはまだ確認できません。彼らは、4世紀頃までの前身集団の隆盛を引き継ぐ形で、5世紀の歴史の舞台に華々しく登場することになります。

 4世紀半ば頃、秋津遺跡の南には「みやす古墳」(直径50メートルの円墳)が築造され、その後もずっと小規模古墳が築造されていました。
 しかし、突如として5世紀初頭、中西遺跡に大和盆地西南部で最大の室宮山古墳(238メートル)が築造されます。

 この不連続性については、5世紀になって当地域に新たな勢力、つまり葛城氏が移り住んで大規模古墳の築造を始めたものと考えられます。
 4世紀後半から5世紀前半にかけて大規模古墳を含む馬見古墳群を築造していた勢力の分派が南部(狭義の葛城地域)に移動して、「葛城氏としての活動」を始めたと考えたい。

 鴨氏は追われることなく、みずからの活路を高鴨神社や鴨都波神社の祭儀に求め、葛城の地で祭祀氏族として存続しますが、前述したように、彼らの分派がさらに山城の地に移ったということになるのではないでしょうか。

 

 

 

148 大神神社と石上神宮


 <注連柱の先に大神神社の拝殿>

 今回は、5世紀以降、ヤマト王権のお膝元で隆盛した大神神社石上神宮に光をあて、その創始と変遷ならびに伝承について言及します。両社は古代のハイウエイ「山の辺の道」で結ばれていました。

 筆者は、全国の一宮103社を参拝したほか全国各地の有名古社にも足を延ばしました。古代史に取り組む身としては、明治維新後に創建された明治神宮、平安神宮、橿原神宮など新しい神社には興味がありません。
 5、6世紀以前頃から祭場が始まり、遅くとも平安時代には社殿など形のある構築物が建設されたような古代史と接点のある神社におのずと関心は向いてしまいます。
 その意味では、一宮である大神神社と有名古社である石上神宮は格好の興味の対象です。

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147 出雲大社と熊野大社

<左、宍道湖の夕日 右、宍道湖北岸の佐陀付近>

 今回は出雲国で大社と称される2社について言及します。
 出雲国には、東部の意宇地方に熊野大社西部の杵築地方に出雲大社と、一宮が2社鎮座しています。
 2011年、出雲大社は60年に一度の遷宮が、伊勢神宮の20年に一度の遷宮と重なり、神社めぐりの国民的一大ブームを招来したのは記憶に新しいところです。遷宮の費用は、「伊勢神宮」の550億円よりは少ないものの、80億円を要したというから、大変な額ですよね。新装なった本殿の千木や破風の「ちゃん塗り」、厚さ1メートルの檜皮葺も実に見事。
 現在の出雲では、遷宮も終えて蘇った出雲大社の方がはるかに有名で有力ですが、かつては熊野大社の勢力がはるかに高かった歴史があります。勢力の変遷は政治勢力の移動に伴なうものです。
 この勢力の移動は出雲の国譲りと連動していると思われ、すでに第145回ブログで言及しましたが、多少の補足もしてみたいと思います。

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146 伊勢神宮と志摩国一宮

 <左、伊勢神宮内宮の神楽殿、右、瀧原宮の参道>             

 アマテラスと言えば伊勢神宮というくらい、両者は密接なつながりがあります。その伊勢神宮に筆者は3回、参拝しています。

 2008年8月10日
 2010年12月1日(御垣内参拝)
 2013年8月1日(御白石持行事)

 今回は、これらの体験の際に得た知見も思い起こしながら伊勢神宮ならびに同じ志摩国に鎮座する一宮2社について、その創始の事情や歴史について深掘りしてみます。

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145 古代出雲の実像と出雲神話


   <青蓮院門跡跡>

 古代出雲については、第65回・第98回ブログで少しばかり言及しました。
 今回、5世紀の状況を中心に、1世紀頃から7世紀頃までを通史的に深掘りしてみます。
 過去のブログで言及した出雲関連記事の一部について、その後の検討の結果、不具合部分が判明したので、あわせて訂正したい。

 『記・紀』の出雲神話は、ヤマト王権の手で構想された出雲国の服属の経緯を記した物語ですが、『出雲国風土記』の神話は、出雲の視点で描かれた出雲の国づくりの物語といえます。

 双方を見比べ、古代史として汲み取れる部分がないか、また史実は如何様であったのか、考古学の知見を参考にしながら纏めてみたいと思います。

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