理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

154 氷川神社


  <氷川神社楼門>

 今回は、関東地方の在住者には馴染み深い武蔵国一宮の氷川神社について言及します。しかし関西などではほぼ無名に近いというから驚きです。

 その謎解きも含め確認してみたいと思います。

 

十八丁もの長い参道は旧中山道だった!
 「氷川神社」は武蔵国を主体に280数社社におよぶ氷川社の総本宮です。
 先に述べたように氷川大神はほぼ関東地方に特化した神です。恐らく関西や西日本の人々にはピンとこない神社でしょう。

 大宮駅の東、徒歩で15分ほどの大宮公園の一角に鎮座しています。大宮は昔から「氷川神社」に因み、「大いなる宮居」と称されてきました。今やその大宮は県庁所在地の浦和を大きく上回る都市となりました。

 これだけ発展した大市街地のすぐ脇に、緑濃い大宮公園と広大な神域を誇る「氷川神社」が残っているのは奇跡かも知れません。一ノ鳥居は、旧中山道の「さいたま新都心駅」付近にあります。そこから北へ向かう参道は、十八丁(約2キロ)に及ぶ。「一宮」としては日本一長い参道です。新都心合同庁舎のビルに登れば、その全長を眺めることが出来ます。


  <新都心のビルから望む氷川参道(ネットの画像を転載)>

 

 昔この参道は中山道そのものでした。しかし地元では参道を日常の交通路にしては畏れ多いとして、江戸時代初めに、並び立つ宿や家とともに西側に移転した。それが現在の中山道(国道17号線)で、今の大宮市街の始まりとなったらしい。神と地元の濃密な相互依存の歴史があったということになりますね。

 ふつう参拝者は大宮駅からニノ鳥居に至り、そこから表参道を進みます。三ノ鳥居をくぐると、神橋の先に朱も鮮やかな楼門と廻廊が見えてきます。その豪壮華麗な姿は、京都の「上賀茂・下鴨神社」を思わせます。

 楼門をくぐると姿の美しい舞殿があり、その背後に社殿が建っています。拝殿は入母屋造、本殿は銅板葺の流造です。拝殿前から振り返れば、抑制した色調の舞殿と派手な朱色の楼門・廻廊がつくる構図が実に美しい……。

 


  <舞殿、後方に楼門>

 

東国の地に出雲の神の不思議
 氷川神社の神社略記によれば、祭神は須佐之男命、稲田姫命、大己貴命の三柱となっていますが、主祭神はスサノヲでしょう。いずれも出雲系の神です。
 出雲から遠い東国の地に、何故出雲の神々なのでしょうか。

 実は出雲国と武蔵国は古くから強い繋がりがあったようです。

 『日本書紀』の成務天皇紀に「国郡に造長を立て、県邑に稲置を置つ」とあり、この時に出雲族の兄多毛比命(千家家の祖である天穂日命から十数代の子孫)が武蔵国造となり当社を奉崇したという伝承があります。これは、諏訪を通り東山道から入った出雲族が当地を平定した史実であるとする説もありますが、真偽のほどは何とも……。

 おそらく真実は、奈良時代の後半に出雲出身の人物が国司として赴任したということでは。古代より武蔵国造は、出雲国造家の同族との伝承があり、当地の開拓に関わり当社を奉崇したとも伝わっています。
 そこで、出雲の斐伊川(肥河)と氷川の類似からスサノオが祭神として祀られたということでしょうかね(次節で言及)。

 出雲大社の第80代の宮司は千家尊福(たかとみ、1845年~1918年)で、貴族院議員になった後、埼玉県知事、東京府知事を経て最後は司法大臣にまで上り詰めています。彼は埼玉県知事時代に、氷川神社の地位向上に努力しました。出雲・武蔵両国の深いつながりが現代に投影しているかのようです。明治初めに、一旦は廃祀されたイナダヒメとオオナムチを、のちに合祀できたのは、彼の奔走によります。

 

氷川神社の社名の由来と「みぬま」について
 社名の「氷川」は出雲の斐伊川(肥河)に由来するという説がよく語られますが筆者が首肯するのは、「ヒ」は「氷」、「カハ」は「泉または池」をあらわす古語で、「ヒカハ」は霊験あらたかな泉を意味することから、見沼の水神ともされる自然神がベースにあったとする説です。
 鎮座地の高鼻は古代からの湧水地で原始の氷川信仰の対象でした。

 見沼は古くは「神沼」「御沼」とも呼ばれていました。縄文時代、大宮東部から浦和東部を通り東浦和の南部に至る大宮台地には、古代の川に沿って古東京湾が湾入していました。
 やがて海が後退し広大な沼沢池「見沼」が生まれます。

 そして江戸時代に入る頃から関東平野の湿地を乾燥地に変える一大事業が本格化します。当地も灌漑用水池に改造されました。さらに享保の改革で新田開発が奨励され、灌漑用水池は田んぼへと変化していきます。このような経緯を経て、現在の見沼田んぼは存在しています。

 見沼があったとされる一帯には、氷川神社のほかに、イナダヒメを祀る氷川女體神社、オオナムチを祀る中山神社(簸王子社)が鎮座しています。
 つまり昔の広大な見沼まわりに鎮座する男體社・女體社・王子社は夫婦・親子という家族関係になるので、この3社の総称が昔の「氷川神社」であったという説もあるのです(後述)。

 出雲族の影響を受ける以前には、見沼を御神体とする素朴な原始信仰があったと考えられます。

 「氷川神社」の境内に密かに鎮座する摂社「門客人神社」は、江戸時代までは「荒脛巾神社」と呼ばれていた。アラハバキは縄文の神を意味することから、出雲系の神々が当地に進出する前の先住の神を祀ったものと考えられます。
 原初の地主神が地位を奪われ、本殿内から門前へと移される場合に、門客神という表現をとることが多い(大林太良氏)ようです。

 見沼に面していた当地(ヒカハ)が太古の信仰の場であったことは間違いなく、そこに出雲系の武蔵国造が、出雲で崇敬されているスサノヲを重ねていったのではないでしょうか。

紀元後まで残った縄文海進の影響
 縄文海進は約1万年~5500年前にあった海進です。
 最終氷期(7万年~1万年前)終了後の世界的に温暖化が進んだ時期(完新世の気候最温暖期)に相当します。

 日本ではちょうど縄文時代前期にあたり、具体的には、約6000年前(紀元前4000年)頃に海面がもっとも上昇し、現在に比べて3ないし5メートルほど高く、日本列島の各地で海水が陸地奥深くへ浸入しました。
 沖積層の堆積よりも海面上昇の方が速かったので、最終氷期に侵食された河谷の奥深くまで海が湾入し、日本列島の各地に複雑な入り江をもつ海岸線が作られたようです。

 当時の海岸線にあたる場所に多くの貝塚が存在することが知られています。地形と標高を見ながら貝塚遺跡のある地点を結んでみれば、縄文時代の海岸線を見事なくらいに復元できます。下図(ネットから転載)の小さな「•」は貝塚の分布を示しています。


  <関東平野の縄文海進領域>

 縄文海進は、もともと貝塚の存在から仮説の提唱が始まったようです。海岸線付近に多数あるはずの貝塚が、内陸部奥深くに分布することから、関東大震災後に海進説が唱えられたのです。

 関東平野は、紀元後しばらくの間は、縄文海進の名残でその広域が水没するか、沼地または湿地となっていたとされます。

 

縄文海進がよくわかる関東平野
 最終氷期の後、関東平野では古鬼怒川や、荒川や江戸川の谷に沿って内陸部まで海が浸入し、南北に細長い古東京湾が形成されていました。
 荒川沿いでは今の埼玉県川越付近、江戸川沿いでは同じく栗橋付近まで海が浸入していた。大宮台地などは半島状となっていました。

 縄文時代の海は武蔵野台地・下総台地・多摩丘陵などの洪積台地や山地を残して低地を浸したため、今は海のない県である埼玉・栃木・群馬も、縄文人が住みついた頃は海に面していたわけです。その後は沖積層の堆積が追いつき、縄文時代の湾は現在の低地平野となりました

 他にもいくつか象徴的な事例をあげると、
 市原市にある上総の国府・国分寺・国分尼寺跡は東京湾に面した高台にある。
 石岡市にある常陸の国府・国分寺・国分尼寺跡も霞ヶ浦に面した高台にある。
 行田市のさきたま古墳群の将軍塚古墳の石室には房洲石が使われているが、その石は(すでに古墳時代には後退していた古東京湾を経由し)河川を遡って行田市まで運ばれたと推測されている。

 近世までの関東平野は、複雑に絡み合う原始河川と、点在する沼沢を抱えた巨大な三角州でした。海岸線はすでに後退していましたが、海だった跡地には土砂が堆積し広大な葦原を形成していたと思われます。しかし平野のほぼ全体が低湿地であるため、ひとたび大雨が降れば増水し、洪水が発生し、何か月間も浸水状態が継続したのです。

 

氷川神社の立地から見えてくること
 スサノヲを祀る氷川神社は、今でこそ内陸の大市街地の一角にありますが、そこは昔、古東京湾が大きく湾入した水際の地でした。
 そこから産業道路を南に走ると、「見沼田んぼ」に突き出した舌状台地の先端部分にイナダヒメを祀る氷川女體神社が鎮座しています。
 そして、2社のほぼ中間にあって、見沼の対岸に鎮座する「 中山神社」は 、スサノヲとイナダヒメの子とされるオオナムチを祀っています。つまり昔の広大な見沼のまわりに鎮座する男體社・女體社・子社は、夫婦・親子という家族関係だという面白い説(前述した)があり、思わず納得してしまいます。
 しかしはるか昔に思いをはせれば、氷川大神は「ヒカハ」にちなむ極めてローカルな神であって、全国区の神ではなかったということですね。

 このようにセットと考えられる神社は他にもたくさん見られますが、関東地方では、鹿島神宮・香取神宮は古香取海を挟んで相対するように鎮座しており、一対の神社とされます。

 古代の水際に立地していた神社としては、大阪の枚岡神社や住吉大社、岡山平野の吉備津神社などがあり、福津平野の宗像大社、福岡平野の住吉神社も海に面していました。これら有名古社は、交易に都合のよい海辺や水辺に面した集落の紐帯として創始されたといえるでしょう。
 例えば、古代の岡山平野は、今よりもはるか内陸まで海が入り込んでいました。岡山市の市街地にある児島湖は海につながる内海ですが、かつては「吉備の穴海」と呼ばれ、今よりも海が内陸まで入り込んでいた名残です。吉備津神社は瀬戸内海の海岸から遠く離れたところに鎮座していますが、かつては境内の際まで海が入り込んでいました。
 また、河内平野の大部分は、かつて河内湖と呼ばれる広い内海となっていて、その奥まった水際に枚岡神社は鎮座していました。そこは『古事記』の神武東征物語に登場する白肩津で、今は現在の海岸線から十数キロも離れた東大阪市の日下にあたります。

 

スサノヲを祀る有名古社の来歴
 一般的にスサノヲは暴れ神のイメージが強く、どちらかと言えば人気がないように思えます。したがってスサノヲを祀る神社の数は、出雲地域はともかく、全国レベルで見ると非常に少ないのが現実です。
 氷川神社の他にも牛頭信仰系の神社がスサノヲを祀っており、代表的な神社として、八坂神社と津島神社があります。この数少ないスサノヲを祀る神社は、古くから一貫してスサノヲを祀っていたのでしょうか

〇 八坂神社
 現在の祭神はスサノヲ、イナダヒメ、八柱御子(やはしらのみこ)ですが、6世紀半ば頃には地域の農耕の神が祀られていました。その後、牛頭天王が合体し、さらにその後、スサノヲが重なったようです
 牛頭天王もスサノヲも疫神ですが、丁寧に祀れば病から守ってくれる神になるという共通点があります。869年には疫病の蔓延を鎮めるために祇園祭が始まっています。
 明治までは「祇園社」「祇園感神院」を名乗っていた。つまりスサノヲ信仰は牛頭天王信仰に乗っかる形で浸透していったということになります。

〇 津島神社
 社伝によれば、韓国から戻ってきたスサノヲが対馬に留まり、6世紀頃に当地に移ってきたので、これを祀ったことが創始とされています。
 しかし、平安時代中期の『延喜式』にその名はなく、大きな勢力となったのは牛頭天王信仰が高まった12世紀以降で、当時は「津島牛頭天王社」と称されていました。八坂神社とともに牛頭天王信仰の二大社とされ、一時期は「全国天王総本社」と称されたが、明治の神仏分離で祭神がスサノヲと定められました。

 武蔵国一宮は氷川神社のほかに氷川女體神社と小野神社がありますが、長い間にわたり、氷川神社と小野神社は熾烈な勢力争いを繰り広げたのは有名で、武蔵国一宮を「小野神社」とする説もあるので、これにも若干触れてみます。

 

小野神社との一宮争い
 氷川神社が現在に至る一宮として確定したのは江戸時代後期からであって、それまでは、小野神社との一宮の地位をめぐる攻防がありました。
 小野神社は東京都の聖蹟桜ヶ丘駅近くにひっそり佇んでいます。余程詳しい地図でないと見つかりません。

 現在「氷川神社」は文句なしの武蔵国一宮ですが、756年の太政官符には「小野神社」の名はあるものの「氷川神社」はなく、「氷川神社」の社名が古文献で確認できるのは8世紀後半になってからと言います。
 その後、927年の『延喜式』では「氷川神社」は最高位の「名神大社」に位置づけられましたが、逆に「小野神社」は「小社」にとどまり、この時点では「氷川神社」に分があったようです。
 「氷川神社」の国家的地位は極めて短期間に上昇しました。この背景については、宮瀧交二氏の説に納得性があります。「武蔵国で生まれた丈部直不破麻呂が、氷川神社の祭祀権を獲得すると同時に中央でも活躍し、朝廷に対する働きかけが功を奏した」と言います。事実、『続日本紀』には同時期、不破麻呂が活躍した記事が載せられています。

 しかし地元では、中世の長い間にわたって、「小野神社」を「一宮」とする空気が強く、「小野神社」が一宮、「小河神社」が二宮、「氷川神社」は三宮とされてきました。つまり中央と地元で認識のずれが生じていたわけですね。

 実際、「小野神社」に軍配を挙げたくなる客観的な条件は揃っています。

 「小野神社」の近く、多摩川を挟んだ反対側には、国府が置かれ、国分寺総社もありました。総社であった「大国魂神社」は今でも崇敬を集めています。
 この一帯は立川段丘上で、都から東海道を下ってくると、東京湾から多摩川を遡り直接アクセス出来ます。また東山道との連絡も容易でした。当地は交通の要衝地として大いに繁栄したわけですね。こうしてみると、中世においてはどうみても「小野神社」の方が「一宮」に相応しかったようです。

 時が経過し江戸時代後期以降は、「氷川神社」が徳川政権から篤い崇敬を受け、「一宮」という社格を与えられ現在に至っています。一方の「小野神社」は度重なる戦乱や多摩川の氾濫で衰微し、宮司も常駐しない小さな神社となってしまいましたが、今でも武蔵国一宮を名乗り続けています。

 



 

 

153 伊弉諾神宮と多賀大社

 今回は、『記・紀』神話の中で、国生み・神生みで有名なイザナキ・イザナミに所縁の伊弉諾神宮(淡路国一宮)と近江の多賀大社に焦点を当ててみます。

 イザナキ・イザナミの名の由来はいろいろな謎解きがありますが、もっとも一般的な解釈は、「イザ」(誘う)+「ナ」(~の、助詞)+「キ」(男)、「ミ」(女)でしょう。「オキナ」は男性だし「オミナ」は女性であることもその傍証になりそうです。

 一方、「ナギ」と「波」を表わす海洋的な霊格という解釈もあります。

 また、イザナキ・イザナミが生む神々の中に、「アワナギ・アワナミ」や「ツラナギ・ツラナミ」という神名が見られることから、「アワ」「ツラ」という水面や波頭に注目して、「イザナキ・イザナミ」は水面を意味する宗教的神聖を表現しているという解釈もあります。

 

二神による国生み
 イザナキ・イザナミの二神による国生みの神話は余りにも有名ですが、生まれる国が『古事記』と『日本書紀』では微妙に異なっています。越が入るか否かの違いです。

 昔、畿内からみて木ノ芽峠から北は「越国」と呼ばれていました。越前・加賀・越中・越後などの国々です。
 不思議なことに、気比神宮が鎮座する敦賀は、木ノ芽峠よりも10キロも南側なのに、越前国でした。当時、越前国の国府は武生にあり敦賀は国の最南端に位置しています。すぐ西隣に若狭国が迫り、難所の木の芽峠を越えた最果ての地に越前国一宮の気比神宮は鎮座していたわけです。しかし国の最果てでも、敦賀が政権中央にとって最重要の地だったことは言うまでもありません。

 4世紀頃には、畿内から北陸への移動に関しては、大和から敦賀までは琵琶湖経由の交易ルートがあったので、小規模な集団なら移動できた可能性があります。しかし、その先の越前に向かうには木の芽峠が立ちはだかっています。今ではJR北陸トンネルで一瞬のうちに通過できますが、トンネルが完成する前はスイッチバック数段階で乗り越えていたのです。さらにそのはるか昔、ひとは木の芽峠を歩いて越えましたが、軍隊が踏破するのは不可能でした。
 ましてや、その先の越後や会津は、当時の大和の人たちにとっては異界の地であって、何の利得もなく想像すらできなかったことでしょう。

 実際、継体が過ごした可能性のある越前は別として、加賀から越中、越後、能登までがヤマト王権の支配下に入るのは早くても7世紀以降のことになります。

 次に、なぜ継体は、異界の地と蔑まれてきた越前から担がれたのでしょうか。
 福井市に鎮座する足羽神社(あすわ)に伝わる由緒では、継体は、九頭竜川・足羽川・日野川という越前三大河川の氾濫で沼地同然だった福井平野を、治水事業で広い沃野に変え、米を主体とする農業を振興したといいます。
 また日野川の西に連なる丹生山地で鉄鋼や須恵器の生産を興したようです。製鉄については5世紀半ばに遡る可能性もあり、まさに鉄鋼王の名にふさわしいようです。
 敦賀で集散される越前・若狭一円の塩についても、海路による輸送ルートをおさえた模様。このように産業基盤を整備し、それらの材で域外と交易して力の源泉としたわけですね。馬についても、早くから騎馬の重要性に気づき河内の馬飼と連携しています。

 継体は、越前での実績を力の源泉として、婚姻関係で尾張氏や息長氏らの豪族と幅広く関係を結んでいます。三国潟につながる九頭竜川流域には、松岡古墳群や六呂瀬山古墳群など、有数の古墳群が見られます。これら古墳群の主は三尾氏の一族で、継体を生みだした勢力なのでしょう。
 このように、越前にありながらも、継体は6世紀の舞台に華々しく登場し、活躍するわけです。

 さて、かなり脱線しましたが、以上のように6世紀頃まで畿内からみて異界の地だった越は、『古事記』の国生みには登場しません
 今の表記で言えば、淡路島、四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡、本州の順に生んでいます。その後、幾つかの小島を生みます。
 これに対し、『日本書紀』本文では、本州、四国、九州、隠岐、佐渡、越、大洲、吉備小島の順に国生みしていて、越国の有無が大きな違いとなっています。

 おそらく、『古事記』の編纂時期は相当に早く、その頃は異界の地だった越国も、『日本書紀』が完成する8世紀(律令制が整う720年頃)には越国が大和政権下に組み込まれて、言うなれば「身内」のようになったのではないかと考えています。

 筆者は、『古事記』の編纂は、巷間いわれている712年よりはかなり遡り、7世紀後半にはその原型が出来ていたと考えています。

 さて、イザナキ・イザナミがらみの伝承をもう少し確認してみます。

 

淡路島に多いイザナキ・イザナミの由緒
 国生みで有名な「おのごろ島」の候補地ですが、もっとも有力なのは沼島、友ヶ島であって淡路島の近傍に存在します。
 また、岩樟神社(岩窟の中に小祠、幽宮とも)、家島(小豆島の北東、いえしま、えじま、胞島)、先山(せんざん、450メートルで最高峰、淡路島を創った時に最初にできた山とされる)、飛島(鳴門市、無人島)、諭鶴羽山神社(ゆずるはじんじゃ、二神が天つ国から鶴の羽に乗ってきてこの山で舞い遊んだことにちなむ)などもイザナキに所縁の伝承があります。
 いずれの伝承地も淡路島内、あるいは淡路島の近傍の瀬戸内海や紀淡海峡に存在しています。

 

九州には縁がないはずのイザナキ・イザナミ神話!
 「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原」は宮崎県の江田神社の裏手にある御池に比定され、ここがイザナキの禊の地として観光の目玉になっています。
 しかし、イザナキの崇拝圏は、淡路・播磨・摂津・大阪湾沿岸・紀伊・大和・伊勢・近江など、近畿一帯であって、九州には存在していません。
 イザナキを崇拝する痕跡がないところに、イザナキ神話が生まれたとは考えられませんね。
 イザナキ神話は淡路の海人の間で発祥し、語り継がれ、やがて5世紀後半以降にヤマト王権に伝わり、7世紀後半には国家神話の上席を占めるに至ったと考えられます(後述)。

  また、「日向の橘の小門」は住吉三神(津守氏が奉じていた三柱のツツノヲ)の故地とされています(神功皇后の託宣にあり)。
 「日向」(ひむか)は「朝日・夕日の照らす聖地」を指す普通名詞、「橘の小門」は「霊果である橘が実る地の海峡」を意味し、住吉三神は古くは「朝日・夕日が照らす、不死の霊果の実る聖地の海底」に眠っていた存在と考えられていたようです。

 「日向の橘の小門」は、本来、淡路の近くの阿波の鳴門であったはずで、住吉のツツノヲの誕生地とされ、後にイザナキが禊の際にツツノヲを生み出した海岸の名と考えられるに至った(次項で言及)。
 住吉の託宣に出てくる「神話的な地名の日向の地」が「日向国」と解釈されたために、イザナキはわざわざ九州まで出張するような筋書になってしまったというわけです。

 

淡路の地方神話から国家神話に昇格したイザナキ・イザナミ神話
 5世紀のヤマト王権は河内に進出し、安曇氏・津守氏・依羅氏・穴戸氏などの海上勢力を重用したが、この安曇氏を通じて淡路の地方神話であったイザナキ神話が王権内に知られるようになったと考えられます。
 淡路島が王権の御食都国として食料の貢納地とされたため、表玄関から伝わったと言うよりも、大王の供御を掌る内膳司として台所から伝わったのでしょう。

 また、津守氏も住吉三神の託宣の「筑紫の日向の橘の小門」をイザナキの禊の場と結合させるなどしたことから、津守氏を仲介してイザナキ神話が伝わった可能性もあります。

 西條勉氏は、「国生み神話の特色は、伝承的な来歴をまったくもたないことだ。民間に伝えられていた古い話は、おそらく一つもない。おおかたのストーリーは、朝廷の知識人たちが机上で作った。ただ、イザナギとイザナミという神名だけは存在した。この神を祭る神社は、今も淡路島にある」と述べています。

 上田正昭氏も、「記紀の国生み神話は、ヤマト朝廷の発祥の地である奈良盆地にかかわりがなく、大阪湾を舞台としている。この神話の原像は、淡路の地域を中心にした海人集団に育まれた島生み神話にあったと考えられる。それが、王権が大阪湾に臨む地に進出展開した段階に、王権の世界に包摂されたとき、国生み神話として凝集をみたのであろう。難波津で行われてきた八十島祭にも、国生み神話の歴史的背景が見てとれる」と言及しています。

 以上のように、イザナキ・イザナミ神話は、その国生みもイザナミの死と黄泉の世界も、禊も、みな淡路付近を舞台として語られていたという説が有力です。
 これにいろいろな要素が入り込んできて、出雲とか日向のような遠隔地が神話の舞台に引きずり出されてしまった……。

 したがってイザナキは、あらゆる活動を終えてから、「淡路の幽宮」に永久に隠れ住んだということになります。アマテラスとイザナキの親子関係は本来的なものではなく、淡路で生み出された系譜ではありません。淡路島にアマテラスは祀られておらず、イザナキも宮中には祀られていないのです。イザナキは皇祖神にあらず、ということになりますね。

 さて、国生みや神生みの偉業を次々と果たしたイザナキですが、最後に祀られた幽宮(かくりのみや)の候補地は淡路だけでなく、近江にも存在します。その候補地に比定される淡路の伊弉諾神宮近江の多賀大社のどちらがイザナキを祀る本家なのでしょうか?

 古くから、「伊弉諾神宮」と「多賀大社」のどちらが鎮座地かが争われ、現在も両社は互いに自社のアピールに余念がないようです。よく知られている俗謡に次の二つがあります。淡路では「伊勢へまいらば淡路をかけて淡路かけねばかたまいり」、多賀では「お伊勢まいらばお多賀へまいれ、お伊勢お多賀の子でござる」。いずれもイザナキがアマテラスの父神であることから、伊勢神宮を引き合いに綱引きに余念がありません。 

 所詮は神話が先に出来て神社の縁起は後づけなのですが、イザナキの鎮座地はどちらが尤もらしいのでしょうか。

 まずは、淡路国一宮の伊弉諾神宮から見ていきます。

 

伊弉諾神宮
 神戸淡路鳴門自動車道を津名一宮インターで降りて、燈籠のならぶ「くにうみライン」と呼ばれる県道を3キロほど走ると、多賀の交差点の右側に「伊弉諾神宮」の正面鳥居が立っています。

 参道に入るとニノ鳥居、神橋、表神門と続きますが、境内は白が基調のせいか実に明るい。大震災で燈籠や玉垣にも大きな被害が出たので修復したためでしょうか。
 神橋は「方生の神池」にかかっているが、この神池は御陵の周囲にあった濠の遺構と伝わっています。

 <手水舎と表神門>

 表神門をくぐれば正面は舞殿を兼ねた入母屋造の拝殿になります。瑞垣の入口には中門が建ち、中には幣殿と檜皮葺流造平入の本殿が続きます。中門の左には渡廊があり祓殿に連結しており、また中門の下反り屋根と幣殿の上反り屋根が二重の向拝のような美しいハーモニーを奏でています。筆者はこういう造形が大好きです。

 確認できなかったものの、本殿の床下には石積みがあり、これが「幽宮」という終焉の地とされるようです。

 <中門・幣殿・本殿>

 境内東側には「連理の楠」と呼ばれる夫婦大楠があり、後ろに岩楠社が鎮座しています。子に恵まれない者は、この神に祈願し大楠に接触すれば懐妊すると言われ、昔は夫婦とも裸になり相い擁してこの大楠を回ったと伝わるようですが、今では破廉恥罪で連行でしょう。いかにも「伊弉諾神宮」らしい伝承ですね。

   <連理の楠>

 神池のほとりには香木伝来記念の碑が立っています。
 『日本書紀』に、淡路島に沈香が漂着して推古天皇に献上したという記事があります。史実の可能性が高く、日本の香りの文化ではエポックメイキングな事件らしい。その後、香りは日本で洗練昇華されていきます。日本で発展した香木は、天然の香りを取り入れ大自然との一体感を感じるものです。「源氏香」の世界はその極致といえるでしょう。香りの文化が根づいたのだろうか、当地は線香の生産で日本一とのことです。

 ニノ鳥居の脇には「陽の道しるべ」が作られており、当社と「伊勢神宮」内宮、奈良の飛鳥宮がいずれも同緯度にあるという偶然を語っています。説明書は、太古から脈々と生き続ける「神の島」たる所以だと説いていました。

 伊弉諾神宮の祭神は、当然、伊弉諾大神です。通称「いっくさん」と呼ばれ親しまれているイザナキですが、『日本書紀』には淡路島の多賀の地に幽宮を構えて余生を過ごしたと記されています。

 伊弉諾神宮は、神々の物語の始まりの地であり終わりの地でもあり、神道信仰の究極の聖地と言えそうです。

 筆者は、参拝記念に社務所で土鈴の「幽宮神桃」を購入した。道教では神仙思想に基づき、西王母を象徴する果実で邪鬼を追い払うと言われていますが、『古事記』の中でも桃の実は邪気払いの聖なる果実とされていて、イザナキが黄泉の国から逃げる時に、「桃子三箇」をもって黄泉醜女を撃退したという記述があります。みやげはこの桃にちなんだ「神桃土鈴」だ。

 <幽宮神桃>

 

 続いて近江でイザナキを祀る大社と言えば多賀大社です。確認してみます。

 

多賀大社
 「いっくさん」に対抗するように、当社は古くから「お多賀さん」と呼ばれ、親しまれてきた滋賀県第一の大社です。

 『古事記』には、イザナキは「淡海」の多賀に坐すなり、と記されていますが、これは14世紀後半に明るみに出た真福寺本だけのようです。
 他の諸本は「淡海」ではなく、「淡路」と記してあるので、真福寺本は写本の際の誤記と考えられます。近江であれば「近淡海」と記すはずです。遠淡海(とおつおうみ)は遠江と表記するのですから。

 終始光の当たっていた『日本書記』には次のように記しています。
 「イザナキは神の仕事をすべて終えて、あの世に赴こうとしていた。そこで幽宮を淡路の地に造って、静かに永く隠れられた。また別伝では、イザナキは仕事を終え、徳も大きかった。そこで天に帰り報告し、日の少宮(わかみや)に留まり住まいした」。

 歴史的には多賀大社は『延喜式神明帳』では小社で、「多何神社2座」と記されているだけで、祭神2座はイザナキ・イザナミとは記されていません

 『古事記』は本居宣長の功績により江戸末期に明るみに出るまでは眠っていた古文献です。
 このような史実から、多賀大社のイザナキ祭祀は中世に始まったものと考えられます。
 中世になって真福寺本を根拠にイザナキ・イザナミを祀ることにした当時の宮司の大英断は見事なものです。16世紀以降、太閤秀吉や武田信玄など多くの武将から崇敬を受けるようになります。太閤秀吉は母の大政所の病に際して、「3ヵ年、ならずんば2年、げにげにならずんば30日にても」と延命を祈願し、米1万石を寄進した。幸い大政所の病は回復し、正面の太鼓橋(太閤橋)や奥書院を築造したと伝わります。

 中世には神仏習合が進み、伊勢神宮・熊野三山とともに庶民の参詣で賑わいますが、その隆盛は宮司の努力も当然ですが、近江が交通の結節点だったこともあります。

 近江の多賀の地は遣隋使・遣唐使で有名な犬上御田鍬に始まる犬上氏の地盤です。
 『古事記』以前の時代には、近江の多賀は、一帯を支配した豪族・犬上氏の祖神を祀った地との説があります。

 多賀胡宮とも呼ばれる別宮の胡宮(このみや)は、イザナキ・イザナミなどの3柱を祀り、多賀社の南方2キロの神体山に鎮座しています。敏達天皇時代には胡宮神社の境内に敏満寺も建立され、やがて敏満寺は多賀大社の奥の院となっていきました。

 

史実は語る!
 歴史を振り返れば、「多賀大社」は『延喜式』では小社であって、『古事記』の記述をもとに官幣大社に列せられるのは大正時代になってからだ。
 つまり「多賀大社」は伝承になっているほどの高い社格ではなかった。よってイザナギを祀る本宮と位置づけるには少々無理があるようです。

 一方の「伊弉諾神宮」は『延喜式』では名神大社(幽宮)とあり、頂いた由緒書の表紙にも、大きく自信たっぷりと「幽宮」の文字が躍っていた。
 伊弉諾神宮の幽宮創始は、イザナキ・イザナミ神話が淡路の海人集団で発祥したことから、飛鳥時代を遡る古い時期であったと想定できます。

 以上のように、淡路の一地方の民間神話が、昇華に昇華を重ねて、日本の中央の神話に祭り上げられてしまったということですね。「伊弉諾神宮」は、そういう意味でも格別の神社と言えそうです。
 現在、全国で神宮号を付された格式ある神社は23社だけです。いずれも皇室に所縁の深い神社ですが、当社も含め大半は明治以後の宣下です。ついでながら当社のように神宮号が付された「一宮」は10社です。

 

 

 

 

 

 

152 諏訪大社

 <左は春宮の二之御柱、右は秋宮の一之御柱>

 『古事記』神話の中で、タケミナカタが敗走して諏訪の地に留まる物語は、奇妙としか言いようがありません。オオクニヌシの系譜にないのに唐突に登場し、以後どこにも登場しません。しかし、諏訪の人びとは敗走した情けないこの神を祀り崇めています。

 神話のなかと現実の信仰の場では、タケミナカタのイメージは大きく異なりますが、この不思議を合理的に説明できる理屈はあるのでしょうか。諸説あるが……。

▽ 何らかの史実が反映されているとする説
 タケミナカタに象徴される出雲族が天孫族に追われて敗走し、そのまま居ついて諏訪の豪族になったとする『古事記』神話に沿った解釈。でも中央から見れば敵地の諏訪大社が破壊されずに残っているのは整合しない。
 遥か昔に出雲族が日本海から姫川経由で南下して諏訪一帯に入植し出雲系の文化を持ち込んだ史実の反映。
 ヤマト王権と地方勢力の政治的対立を反映した服属神話。

▽ 端から創作であるとする説
 有力氏族の中臣氏の守護神であるタケミカヅチの活躍を印象づけるため。
 タケミナカタはもともと諏訪の地場の神だが、政権基盤を盤石にしたいヤマト王権が、豪族の勢力を削ぐため、神話の中で損な役回りを負わせた。

 どの説にしても、それが何故諏訪なのでしょうか。これらの説では謎は解けそうにありません。

 平安時代後期の今様を集めた『梁塵秘抄』では、次のように諏訪の神を堂々たる武神として描いています。

 <関より東の軍神、鹿島香取諏訪の宮、また比良の明神安房の州、滝の口や小鷹明神、熱田に八剣、伊勢には多度の宮>。

 タケミナカタが諏訪に封じ込められるという物語からは、隠れ里や隠棲の国としての信濃がイメージされますが、691年(持統天皇5年)には朝廷が龍田風神とならんで須波神(諏訪神)に勅使を派遣して祭祀を行なっており(文献上の初出)、当地は単なる隠れ里だけではなかったようです。すでに風や水の神として朝廷の強い畏敬をつないでいたと見られます。

 『古事記』編纂当時の現実政治の世界では、諏訪は政権中央から忌避されるような地域ではなかったし、むしろ都にあたいする要域と見做されていたようです。そこにこの謎解きのヒントがあるわけですが、その前にまずは諏訪大社がどういう歴史を歩んできたのか、概括してみたいと思います。

 

諏訪湖と諏訪の神
 「諏訪大社」は、構成する4社が広域に離れて鎮座する異色の「一宮」です。諏訪湖を挟んで南側に上社の本宮と前宮、北側に下社の秋宮と春宮がありますが、何と両社の距離は十数キロも離れています(これは大いなる謎)。
 飛鳥時代にあっても下諏訪の地は中山道と甲州街道の交点で、交通の要衝地のため、都から離れていても諏訪は大変に繁栄していました。

 「諏訪大社」の祭神は、由緒書によると建御名方命と八坂刀売命の二柱です。
タケミナカタは、『古事記』では建御名方と表記しますが、『続日本後紀』や『文徳実録』などでは建南方としています。『日本書紀』には登場しません。

 『延喜式』には、諏訪神社の名ではなく南方刀美神社2座としてリストアップされて おり、このミナカタトミは、タケミナカタの母神であるとする伝承があります。

 真冬に諏訪湖では上下両社を結び付ける氷堤と呼ばれる自然現象が発生し、これを御神渡り(おみわたり)と称し、通説では上社の男神タケミナカタが下社の妃神ヤサカトメのところに通うものとされていますが、さにあらず。
 現実世界では上社本宮で男神、前宮で妃神、下社の秋宮・春宮の両宮で両神を祀っていて何ともややこしい。

 『古事記』で、タケミナカタは出雲から諏訪に敗走し、諏訪の地から離れないことを誓い服従した神として描かれているせいか、神無月にあっても、諏訪の神だけは当地にとどまるという(諏訪においては神有月)。諏訪にとどまったタケミナカタはヤサカトメと結婚し現在の祭神の形に繋がるとされています。

 

諏訪および信濃の歴史
 長野県和田峠で採掘された(鏃の先に使われた)黒曜石が日本海側の遺跡で発見されている一方、新潟県糸魚川市の姫川流域でとれる硬玉ヒスイが信濃の遺跡で発見されています。これは石器時代から、日本海側と信濃を結ぶ道(塩の道)があって運ばれ証拠とされます。

 『古事記』において、オオクニヌシが自らの子と語るタケミナカタ(諏訪大社の祭神)が出雲国から州羽(諏訪)に逃げたという神話も、この道の存在を物語っていると考えられます。この神話は、昔から稲作・金属文化の出雲とヒスイ産地の姫川との間で交易・交流があり、さらに新潟と諏訪がこの塩の道で結ばれていたことを物語っているのでしょう。

 もともと九州北部を根拠地とした安曇族の一部は、日本海を北上して糸魚川から姫川を遡り、塩の道を通り、高瀬川流域を開拓して安曇野とした模様。彼らは遅くとも6世紀までには当地に入ったと考えられています。穂高神社(峰宮は奥穂高岳頂上)は彼らの末裔が祀った神社。

 塩が運ばれた千国街道は無土器時代にまでさかのぼり、塩が運ばれる以前から海と山を結ぶ代表的な交易の道だった。
 信濃では、太平洋側から入る塩のことを「上塩」とか「南塩」と呼び、日本海側から入る塩のことは「下塩」とか「北塩」と呼び、「塩尻」という地名は、上塩と下塩との移入路のターミナルに由来があるようです。

 信濃では、4世紀の後半、更埴地方で古墳文化が始まり、将軍塚古墳などが築造されています。また、諏訪では、5世紀半ば、上社本宮境内に墳墓が、また6世紀半ばには上社前宮境内に狐塚が築かれています。
 その後、7世紀を過ぎる頃から天竜川方面から前方後円墳などの築造が北上し、700年には下社秋宮境内に前方後円墳青塚が築造された。8世紀前半には諏訪地方全般に小円墳群が盛んに造られる。
 このような考古学的事実から、8世紀初頭には下社の領域に大和朝廷の勢力が及んだ可能性が考えられ、やがて上社もその影響下に置かれたとみられます。
 しかし、6世紀半ばまでの上社には古い形式の主権が存在した可能性が高く、次項に述べるようなミシャグチ信仰の名残が継続していたと考えられます。

 以上のように、信濃および諏訪の地は、古代より物品・祭祀・文化・技術が行き交う交通の要路にあり、ヤマト王権の羨望の眼差しが注がれていたことは間違いないでしょう。

 

ミシャグチ信仰と祭政体の交代、諏訪社のその後の歴史
 タケミナカタは、「タケ(建)、ミ(水)、ナ(の)、カタ(潟)」を意味する諏訪湖の水神とされますが、敗走した神なので地元では不名誉として評判が悪いようです。地元が認める原初の諏訪大神はタケミナカタというよりは、縄文時代から中部地方全域に広く分布していた「ミシャグチ神」ということかも……。
 ミシャグジ神は、巨木・巨岩・尖った石・棹などに降りてくるナイーブな自然神でした。

 諏訪大社には、有名な御柱祭があります。社殿の四囲には社殿を圧して16.7メートルの巨木が立っています。樅の巨木の樹皮を剥いだもので、その一面は三分の一も平たく磨り減っており、上社は八ヶ岳の御小屋山より、下社は霧ヶ峰山中の観音沢から、人力だけで曳下ろして曳行されてきた長い道中を物語っています。
 日本海沿岸には、三内丸山遺跡の六本柱や寺地遺跡の柱列群、出雲大社の金輪造りの三本柱など、巨木を立てる文化が存在しており、この諏訪の御柱も縄文時代から日本海側で続く巨木信仰の名残と思われます。

 上社前宮が鎮座する「神原(ごうばら)」と称された場所は諏訪信仰発祥の地とされ、さらに昔は、縄文時代以来の原始的な「ミシャグチ信仰」があり、土地の豪族守矢氏によって洩矢神が奉斎されていたようです。ちなみに、御頭祭は縄文以来の狩猟的な性格をもっとも色濃く残している諏訪らしい祭です。

 その後、新たな信仰を持つ大祝(おおはふり)が現身の諏訪明神として現れます。守矢氏は諏訪明神の進入に抵抗したが、結局、足長手長などの先住の神と共に征服されたと伝わっています。主導権は大祝の手に渡ったが、守矢氏は滅ぼされることなく、侵入者である諏訪神氏(のちの諏訪氏)は大祝として、守矢氏は神長官(じんちょうかん)として両者共存状態で当地の祭政を執行していきます。

 さらにその後、大和政権が中央集権体裁を整える中で、原始的祭祀を嫌う中央の意向が働き前宮の前に本宮が造営されます。

 そして奈良時代初め頃までに、典型的な大和系神社として下社が造営された模様です。
 上社には諏訪氏(神氏)下社には金刺氏と異なった大祝がいますが、8世紀頃に南方刀美という個人神の神格が大祝によって世襲されるようになったらしい。
 諏訪大社は、須波神から南方刀美(タケミナカタ)神に神格が交代したことになります。

 平安時代中期以降は、中央との太いパイプを有した大祝の活躍などにより、武神・軍神としての神威が高まり、前述のように『梁塵秘抄』では「関より東の軍神、鹿島香取諏訪の宮」と記されるまでになります。そして11世紀、下社の大祝は上社とともに、一党は武士団化し、大名諏訪氏に変貌します。
 高い神格を得て、諏訪社は平安時代後期には信濃国一宮として多くの崇敬を集めます。

 室町時代には上社、下社の間で抗争が続き下社は滅亡、下社大祝の金刺氏は姿を消した。
 戦国時代になると、諏訪大社は戦乱で荒廃した。その後、甲斐武田氏によって再興されるもつかの間、織田の軍勢によって上社が焼き払われ社殿形式はまったく失われてしまいます。

 徳川時代になると、飛鳥の昔から続いた祭政体は完全に分離し、政治的要素は徳川政権の一小藩諏訪氏に移り、まず前宮の政治的重要性が失われ、わずかに残った祭祀は社僧の勢力下におかれ、明治の神仏分離で仏教的要素とともに伝承された祭祀も大半が失われた模様。

 

社殿の概要
 諏訪大社の最大の特徴は、大和国一宮の「大神神社」や武蔵国の「金鑚神社(かなさな)」と同様に、本殿がなく神体山や樹木などの自然物に神憑りする神が祀られていることです。

1.上社前宮

 前宮は自然崇拝の地であり、ミシャグチ信仰の名残を残し、「諏訪大社」4社の中では静寂に包まれ今も原初の息吹が感じられます。
 社殿の眼下には諏訪盆地が展開し実に心地良いが、さらに、古代の諏訪湖は今より3倍も広く、前宮の際まで湖水が迫っていたことを重ね合わせてみれば、原初の息吹を一層深く体得できます。


   <小高い前宮の境内から望む諏訪の街>

 

 正面鳥居の奥は丘陵地で「神原」と称し、神とされた大祝の住まい即ち古代の神殿が並んでいた場所とされています。吹抜け構造の「十間廊」と「内御玉殿」が建っており、十間廊は祭政が行われた場所、内御玉殿には諏訪明神の祖霊が宿る神宝が安置されていたようです。
 大祝は「諏訪明神に神体なく大祝をもって神体となす」といわれ、現身の神でした。「神原」には多くの建物があったようだが室町時代に大半が消滅したという。

 参道は十間廊と内御玉殿の間を抜け、長閑な丘陵の坂道を200メートルほど上って行った先のこんもりとした森の中に、妻入拝殿と切妻平入本殿が鎮座しています。これらは室町時代に「神原」から移転されたもので、現在の上社前宮の社殿です。


   <「神原」を抜け、前宮社殿への上り坂>

 

2 上社本宮
 前宮から約2キロ西へ向かうと、標高1650メートルの守屋山を神体山とする本宮があります。守屋山は入笠山や杖突峠から続く南アルプスの前衛山塊です。

 東面する大鳥居より「布門」と呼ばれる長い廻廊を進むと、布橋の左側に四脚門を挟んで東西の宝殿が並び、四脚門の北側には大きな神楽殿が見えます。なおも進み、塀重門の先の入口門をくぐって神域へ入り、東へ折り返すと参拝所があり、神と正対することになります。これはまことに不思議な参拝ルートです。


  <布門と呼ばれる長い廻廊>

 参拝所から「斎庭」を挟んで、幣拝殿と左右の片拝殿が建っており、その奥に本殿はなく「神居」という空間があります。本来ならばその先、東方向に神体山の守屋山があるはずですが、果たして神体山は90度右の南方向となっていて仰天してしまいます。 
 迷路のような「折り返し参道」を含め、この謎に迫ってみましょう。本殿に準ずる東西の宝殿と四脚門に注目すると、その解が見えてくる……。

 境内を子細に眺めれば、四脚門(東西宝殿の中央部)から守屋山に至る軸線が浮かび上がります。昔は、境内北側にある神楽殿の位置が拝殿になり、四脚門(東西の宝殿)を介して神体山を拝んでいたようです。その軸線の山側には硯石という巨石の磐座があります。大祝が四脚門から登っていった磐座だと伝わります。昔の礼拝軸は、四脚門・東西宝殿から南の守屋山を拝する南北軸であったということが確実と言えるでしょう。

 南北礼拝軸を補強する材料がもう一つあります。
 神域の四隅に立つ御柱は当社の象徴だが、この配置には規則性があります。下社も含め、御神体に向かって手前右隅に一之御柱を立て、時計回りに二、三と続き、四之御柱を奥の右隅に立てています。しかし現在の本宮の東西軸では手前右隅が四の御柱になるし、「折り返し参道」は、一旦、御柱で囲われた神域の外へ出てしまい、まことに妙な塩梅です。やはり、本来の礼拝軸は南北方向だったと考えられるわけです。

 1582年に織田信長の兵火によって社殿が焼失した後、新築された社殿群が現在の姿の原形となったらしい。その際、採られた「折り返し参道」では一旦、神域外に出ることを余儀なくされてしまった……

        <上社本宮境内図>

 


 <上社本宮の北参道側から望む塀重門>

 

3 下社秋宮・春宮
 さらに奈良時代初め頃までに、典型的な大和系神社として下社が造営されたと言われます。
 秋宮と春宮は、中山道でもっとも賑わった下諏訪湯之町の宿でつながっており、往古の当地は、中山道と甲州街道の交錯する要衝地として早くから繁栄していたようです。

 秋宮境内に入ると、「温泉手水」があって、もうもうと湯けむりをあげている。神橋を渡り、鳥居をくぐると樹齢800年の「根入杉」が天をついて立っている。その背後に立派な神楽殿が構える。注連縄が大きい。神楽殿前の狛犬は青銅製で高さは170センチあり日本一。

 神楽殿の後方には楼門造りの幣拝殿と両翼に片拝殿が並ぶ。その奥は東西の宝殿があり、あいだに「御神木のイチイ」が祀られている。

 春宮と秋宮は社殿の造りが酷似しており、ともに幣拝殿の内部は精緻な彫刻と荘厳な設えが施され大社の風格がある。本殿がなく御神木を御神体として祀り古式を残しているのは共通。春宮で異なるのは、東西の宝殿のあいだに祀られる御神木が「」になること。

 さて、以上を踏まえて、いよいよ唐突にタケミナカタが諏訪に敗走する謎について紐解いてみたい。以下は栄原永遠男氏らの論考を参考にしました。

 

国譲りにタケミナカタが登場する謎
 7世紀後半、律令制度が整えられつつある中、新益京(あらましのみやこ、藤原宮)とは別に、天武による副都計画(難波と信濃)が持ち上がっていた。
 難波は瀬戸内海(海の道)を管理するためと理解できるが、不思議なのは信濃。なぜ突然、信濃が注目されたのだろうか。

1.『日本書紀』の記述と天武天皇による複都構想

 以下のような『日本書紀』の記述を素直に読めば、天武天皇が複都制を構想し、その方向にそって信濃に使者を派遣した可能性は高いと考えられます。『日本書紀』には、その前提となるような記述はなく、突然、都の予定地として浮上したようになっています。

683年12月・・・天武が、都城や宮室は1ヵ所だけでなく、2、3ヵ所あるべきとして、まず難波に都を造るべしという詔を出した。

684年1月・・・使者を畿内に派遣して都を造営するのに適した場所を視察させた。また信濃にも派遣して地形を視察させた。

684年3月・・・天武は京内を巡行して宮室に適した場所を定めた。

684年4月・・・信濃国の図面を奉った

685年10月・・・使者を信濃に派遣し行宮の造営を命じた。束間温泉か?

 信濃国が浮上した理由としては、壬申の乱の経験から東国の豪族層の動きを警戒するとか、東国開拓の一大拠点とすることなどが考えられます。或いは病を発症した天武の温湯治療のためとも。でも可能性が高いのは、天武による国土統治方針だったのでしょう。

 美濃国は大海人皇子の湯沐邑(ゆのむら)があり、壬申の乱のとき重要な拠点になった国です。天武の認識では美濃までは掌握が進んでいたが、彼はもう一つ外側の信濃国に注目した。天武は、信濃に宮を置き、信濃から東の広大な地域に存在する地方豪族の掌握をめざしたと考えられます。

 

2.天武の複都構想は破綻
 しかし、天武の複都制構想にもかかわらず、結局、信濃宮は実現しなかった。破綻したのはなぜか。
 天武は発病したため束間温泉に行幸したという見解もありますが、病気療養のためなら有馬や牟婁など近くに温泉がある中で、なぜ信濃の束間温泉を選んだのだろうか。
 病をおしてわざわざ信濃まで行くのは、やはり何としても信濃に都を造ろうとしているからだと考えるのが自然で、病を得た時点でも、天武は複都制構想を捨ててはいなかったのではないか。

 なぜ信濃宮の造営は行われなかったのであろうか。686年に難波宮が焼失し、天武が死亡したため、複都構想が立ち消えになったという単純な理解ではおさまらないようです。

3.複都制構想は継承されず七道制へ
 天武は最後まで複都制の構想を捨てなかったが、持統(690~697年)には受け継がれなかった。信濃に都を造る話は、天武紀に見えるのみであって、持統紀にはいっさい出てきません。
 持統は、藤原京の造営については天武の遺志を受けついだが、複都制構想は受け継がなかった。つまり持続は、藤原京の造営を天武の複都制構想からは切り離して継承したのです。
 すなわち、持統は天武の着手したいろいろな事業を引き継いだが、複都制については積極的に継承することはなかった。信濃宮造営計画の停止は、このことを端的に示しているようです。

 天武の複都制構想は、国土統治構想でした。持統は、天武の国土統治構想を継承しなかったが、天武とは異なる国土統治構想「七道制」の実現に邁進したことが、次項に示すように明らかです。。

4.七道制の成立とその意義
 天武期は地方豪族の確実な掌握がまだ重要な課題として存在していた段階で、それに対応するものが複都制構想だったと考えられます。
 天武の構想は、日本を西国、中央部、東国に三分し、それぞれに難波宮、藤原京、信濃宮という都を配し、この3つの宮が一次的にそれぞれの地域を統轄するとともに、中央の藤原京が二次的に日本全体を統轄する、という2段階の支配構造をめざすものでした。

 一方、天武期は中央集権的な地域支配構想も同時に芽生えてきた時期で、2つの構想が併存していました。持統朝には、この2つのうち中央集権的な地域支配構想の方のみが受け継がれていったと思われます。

 天武の複都制構想は、天武の死(686年)とともに事実上廃案になり、持統朝における国制・七道制の定着にともなって、藤原京(新益京、あらましのみやこ)を中心とする放射状地域支配構造が定着していきました。
 これが藤原京を唯一の中心とする一元的な中央集権的地方行政制度ということになります。

5.出雲世界の広がり

 (7世紀後半に編纂されたと思われる)『古事記』によれば、タケミナカタの敗走で、諏訪湖の一帯は神話的には出雲(葦原中国)になった。タケミナカタは諏訪に封じ込められ、オオクニヌシが高天原に譲り渡す国土も広くなった。
 天武の時代に、シナ(唐)や新羅で採用されていた複都構想が持ち上がったことに歩調を合わせ、7世紀後半から編纂が始まった『古事記』ではタケミナカタを登場させて、この神に土地を譲らせるストーリーを作った可能性が考えられます。副都を作るなら諏訪地方の平定は重要事であると……。

 

『日本書紀』には描かれないタケミナカタの諏訪への逃走
 『古事記』は完成後、知識層においてすら、ほとんど読まれ語り継がれることはなかった。
 『古事記』が明るみに晒されるのは江戸中期、本居宣長によってである。

 それまでは、タケミナカタが出雲で戦いに敗れ諏訪に敗走した物語など、誰一人として知る由はなかった。

 中世の時期には、武神として崇められても異を唱えたり疑問に感じる人はいなかった。

 明治以後に、『古事記』が国民に広く知られるようになって、人びとは敗走したタケミナカタの物語を知ることになる

 『日本書紀』本文には、タケミナカタの敗走物語の他にも、『古事記』にある次のようなエピソードが記載されていません

・五穀の起源
・いなばの素兎
・八十神によるオオナムチの迫害
・オオナムチの根堅州国訪問
・オオナムチの葦原中国の平定・統治
・ヤチホコのヌナカワヒメ求婚
・スセリビメの嫉妬と大団円
・(オオクニヌシとスクナビコナ)
・御諸山に坐す神
など。

 つまり、スサノヲが子としてオオナムチをもうけた後、国譲りを含む『古事記』的神話とは一線を画し、いきなりスクナヒコナとオオナムチの国づくりの場面に飛んでしまいます。

 律令国家の体裁が整い、諏訪の地がヤマト王権の勢力下に取り込まれた8世紀前半の時期においては、『日本書紀』(720年編纂)には余分な出雲神話などを記す必要もなく、タケミナカタの敗走を記す必要もなかったということでしょう。

151 鹿島神宮・香取神宮


     <香取神宮の拝殿と御神木>

 今回は、出雲の国譲りの際、高天原から派遣された武神タケミカヅチとフツヌシの来歴と、二神を主祭神として祀る鹿島・香取の両神宮の謎について言及します。
 まずは、古文献に記された祭神について確認してみます。

『記・紀』『常陸国風土記』における描写
 『古事記』では、
 イザナキが、イザナミから生まれた火の神カグツチを十拳剣で殺した時、その剣から滴る血が固まって「タケミカヅチ亦の名フツヌシ」が生まれたとしています。つまり、タケミカヅチとフツヌシは同一神として描かれています。

 また、葦原中国平定時に最後の切り札として、アメノトリフネをそえてタケミカヅチが遣わされ、オオクニヌシから支配権譲渡の承諾を取りつける功績をあげています。剣の神であるフツヌシは登場せず、アメノトリフネは単なる乗り物であって、ヒーローはもっぱらタケミカヅチということになります。

 『古事記』が、「建御雷之男神」という漢字をあてているとおり、タケミカヅチは、本来は雷の神だった。剣の神と解釈する余地はありません。

 さらに、神武が熊野で難渋している時、タケミカヅチが再降臨を命令されて、「僕は降らずとも、專らその國を平(ことむ)けし横刀あれば、この刀を降すべし。この刀の名は、佐士布都神と云ひ、亦の名は甕布都神と云ひ、亦の名は布都御魂と云ふ。この刀は石上神宮に坐す」という場面がある。

 こうしてみると、『古事記』は自ら、タケミカヅチとフツヌシ(フツノミタマ)とが別神であることを認めていることになり、一貫性はありません。

 一方、『日本書紀』本文では、

 諸神が、葦原中国を平定する武神としてフツヌシを選んだが、タケミカヅチが激しく抗議したため、タカミムスヒが、タケミカヅチをフツヌシにそえて遣わした。つまり主役はフツヌシで、タケミカヅチは副官という扱いになっています。

 主役はあくまでも武力である剣であって、剣が雷鳴を轟かせながら出雲に降るイメージが感じ取れます。ここに国譲りというイメージはなく、どう見ても侵略でしょう。

 ところで、熊野における神武の難渋を救う場面では、タケミカヅチが主役になっています。

  以上から、剣神であるフツヌシと、雷神であるタケミカヅチは別の神ということになりそうです。

 『常陸国風土記』では、後述するように鹿島神宮の祭神として「香島の天の大神」という名が登場します。こうしてみると、祭神については様々な捉え方が存在したと思われます。

 

鹿島神宮の祭神と境内・社殿
 鹿島神宮の祭神は武甕槌大神(たけみかづち)です。「出雲の国譲り」の場面で出雲側を屈服させ、また神武東征では分身の剣・韴霊(ふつのみたま)を授けて貢献した武神とされるわけですが、その来歴はつぎのような経緯を辿ったものと思われます。

 5、6世紀頃から韴霊を奉じて大和の石上を本拠とした物部氏が各地に遠征しました。
 そして6世紀頃に東国を治めるために物部連が鹿島・鹿取の地に派遣されて来ます。

 6世紀末に物部氏が没落したのち、中央で台頭した中臣氏が当地(鹿島・香取)の祭祀権を奪取します。おそらく7世紀半ば頃からでしょう。
 「大鏡」では、後年活躍する中臣鎌足の出生地は常陸国とされていますが、これは怪しいと思います。

 一方、8世紀前半に編纂された『常陸国風土記』では、当社の祭神はタケミカヅチではなく「香島の天の大神」となっています。
 649年、中臣氏らが要請して、古くからの地主神3柱を合わせて、祭神を「香島の天の大神」とした。当時の国司であった藤原宇合が編者として関与したという説もあります。「香島」については、後に、鹿島の神が鹿に乗って大和の春日山へ移ったという神話と結びついて「香」の字を「鹿」に置き換えたものと思われます。

 不思議にも、タケミカヅチの登場する『記・紀』と、登場しない『風土記』の編纂時期はほぼ重なっているんです。

 『風土記』の中では「香島の天の大神」は、次のように描かれています。
 「天孫降臨の先陣として降臨した香島の大神を丁寧に祀れば、国の統治をさせるとの託宣を受けて崇神天皇が幣帛を納めた」。
 これはオオモノヌシが三輪山に祀られた説話と酷似しますが、二つの説話はともに天皇による国土支配が土地の神を祀ることで成された様子を示しているのであって、崇神の時代というのは史実ではない(坂本勝氏)という解釈もあります。

 『日本書紀』で注目すべきは、国譲りの局面で最後まで抵抗したのは、常陸国の先住者と思われる香香背男(かかせを)という星の神だったと記していること。物部氏が当地へ流入した頃の史実が反映しているのかもしれません。

 「香島の天の大神」がタケミカヅチとして認識されるのはさらに遅れます。「出雲の国譲り」で勇猛果敢に戦った神を、地元勢力や蝦夷に対峙する軍神として中央から持ち込んだということでしょうか。

 768年、藤原氏は「香島の大神」をタケミカヅチとして「春日大社」に勧請しています。

 次に、鹿島神宮境内と社殿について確認します。
 「鹿島神宮」は、五畿七道の一つである東海道東端の「一宮」で、霞ヶ浦の東に位置する北浦と鹿島灘(太平洋)に挟まれたに鹿嶋台地の上に鎮座しています。
 大鳥居の形は柱と笠木が円柱で、貫は角柱で両端が柱の外に突き出る「鹿島鳥居」と呼ばれますが、現在の鳥居は東日本大震災で倒壊した後に再建されたもの。
 大鳥居の奥には朱塗りの楼門があり、「阿蘇神社」、「筥崎宮」と共に「日本三大楼門」の一つとされ、国の重文になっています。

 楼門をくぐると、東へ向かう参道のすぐ右側に、重文で権現造の社殿が北向きで建っています。この意外なレイアウトに、立ち寄らずに通り過ぎ、奥参道から慌てて戻る参拝者もいるようです。普通、神社は南面するが、鹿島神宮は北方の蝦夷地に睨みをきかせたレイアウトではないかといわれています。
 しかし、本殿は北向きだが、中にある神座は東の海の方を向いていると言われます。何故だろうか、謎、謎……。


    <鹿島神宮拝殿・本殿>


   <鹿島神宮本殿>

 参道左側にある鹿園の神鹿は「春日大社」から連れてきたと説明されています。しかし奈良公園の鹿は元々、鹿島神を背中に乗せて行った鹿島の鹿だという伝承があるから面白い。
 奥参道を進むと、道はTの字で突き当り、その角にやはり北向きの奥宮があります。この奥宮は、現在の本殿造営の際に元々の本殿を移したもの。


   <雪化粧をした奥宮>

 T字を右折して奥へ進むと「要石」がある。石はほんの少ししか頭を出していないが、地の底まで達していて、地震を起こす鯰の頭を押さえていると伝わっています。江戸時代の頃からの面白い伝承です。
 T字を左折し、やや下ると、豊かな清水を湧出する御手洗池があります。手水を使う場所は、普通参道の途中にあるはずなので、今の町並みが表参道になる前は、こちら側が神社の入口だったのかもしれない……。


   <御手洗池>

 現在は閉鎖しているようですが、宝物館には国宝の直刀が飾られています。
 神話の上では、タケミカヅチの霊力の象徴とされ、神武の熊野進攻において功のあった「韴霊剣」で、長さが2.71メートルもある日本最大の直刀です。
 神武即位後、韴霊剣はその功を称えられて物部氏の遠祖である宇摩志麻治命(うましまぢ)により宮中で祀られてきました。第10代崇神の勅命によって、物部氏の祖とされる伊香色雄命がこれを大和の石上の地に遷し埋納して祀った。これが現在の石上神宮の端緒と伝わっています。
 一方、鹿島神宮の韴霊剣の製作年代はおよそ1300年前と推定され、伝世品としては我が国の最古最大の剣として昭和30年に国宝に指定されました。
 つまり、神話の上ではこの韴霊剣がタケミカヅチの手に戻ることなく、神武の手を経て石上神宮に祀られたことから、鹿島神宮の直刀は「二代目の韴霊剣」と解釈されているようです。

 境内は、千古の老樹が林立し鬱蒼としていて昼なお暗い。この杜は「鹿島神宮樹叢」として県の天然記念物となっています。おそらくこの森そのものが聖地で、その中に不思議な要石があったり、湧泉の池があったり、そういう原始信仰的なものを崇拝対象とした祭場が古くから存在し、そこに7世紀後半になって、はじめて社殿が創建されたのではないでしょうか。


 <千古の老樹が林立する鹿島神宮樹叢>

 

香取神宮の祭神と境内・社殿
 祭神は経津主神(ふつぬし)で、フツは刀で切る時の音とも言われ、剣を神格化した神とされています。
 『古事記』ではイザナミから生まれた火の神カグツチがイザナキに十拳剣で殺された時、剣から滴る血が固まって生まれた神とされる。
 はじめに言及したように、『日本書紀』では、国譲りの最後局面でフツヌシがタケミカヅチを従えて出雲に天降り国譲りを承諾させたとしています。
 フツヌシは石上神宮の祭神フツノミタマの別名ではないかという説があります。

 今の祭神はフツヌシですが、平安時代の頃には「香取に坐す伊波比主(いわいぬし)」と表記されていて、イワイヌシ(斎主)が祭神になっています。香取の神は斎主という形で、鹿島の神を祀る役回りとして、鹿島・香取が一体の関係にあることを物語っているようです。

 しかし、さらに昔の香取の祭神は、きちんとした独立の地主神(側高神?)であったようです。
 「香取神宮」の今の第一の摂社である「側高神社」に注目したのは大林太良氏

です。
 香取台地の「阻立つ高い所」から古代の香取の海の干満を統御する海神だったと解釈し、香取の原初の神は側高神だったのかも知れないと言うのです。上古から鬼怒川・霞ヶ浦沿岸で「海夫」と呼ばれた水軍の信仰があったようで、付近一帯には古墳が点在しており、大きな社会集団が存在していたことは間違いないでしょう。
 とすると、香取神宮の祭神は、海の神から剣の神「ふつ」へと変化したと考えられるのです。

 平安時代になると、国譲り神話があまねく知れ渡り、鹿島・香取ワンセットが常識になっていたので、鹿島の神をタケミカヅチとしたのに合わせて、香取の神をフツヌシとしたと思われます。
 中臣氏はフツヌシを氏神として取り込み、中央で藤原氏となったのちの768年、タケミカヅチとともに「春日大社」に勧請しています。
 香取神宮の境内には、鹿島神宮と同様の要石もありますし、ほかにも香取と鹿島には共通項が多くあり、ワンセットの神という性格が強く感じられます。

 次に、香取神宮境内と社殿について確認します。
 「香取神宮」は下総国一宮で、「鹿島神宮」から10キロほど離れた香取台地に鎮座しています。
 佐原市内から続く道を進むと大きな一ノ鳥居が現れますが、その先は門前町で両側に商店が並びます。朱塗りの大鳥居をくぐると桜並木の参道が緩やかに左カーブして上り坂になります。


  <香取神宮の大鳥居>

 軽い登り坂を上ると三ノ鳥居。三ノ鳥居の奥には石段があり、段上に朱塗りの立派な総門が目に入ります。

 <左は三ノ鳥居と総門、 右は楼門>

 総門をくぐり右折すると絢爛豪華な楼門が建っています。楼門をくぐれば檜皮葺黒漆塗権現造の拝殿、本殿がどっしりと構えているのが目に入り、本殿後方の社叢が綺麗なスカイラインをつくっているのが印象的。


 <香取神宮の拝殿>

鹿島・香取の神が鎮座する地は良好な軍事基地・流通基地
 下総国の国府・総社・国分寺の三点セットは今の市川市にあり、そこから東北に60キロも離れた地に「香取神宮」が鎮座しています。常陸国一宮の三点セットは霞ヶ浦の北部、今の石岡市にあり、そこから東南40キロの地が鹿嶋ということになります。
 つまり、二つの「一宮」は、それぞれの国の中心から離れた辺境の遠隔地に、国境を挟んでほとんど密着するように、わずかに十キロ弱の間隔で立地しているわけです。とても不思議な光景ですね。何故だろうか?

 古代の国境付近には海が深く湾入し、そこに古鬼怒川が流れ込み、ほとんど海のような場所でした。そこは暴風雨などの天候に左右されにくい良港が確保でき、沢山の軍船や商船が停泊できた。
 上古には物部氏の東国進出の拠点として、また奈良時代以降は蝦夷と対峙する軍事基地や流通基地として絶好の適地でした。
 軍事基地には軍神の存在が不可欠。香取、鹿島の両神は海のような大河を挟んで鎮座する国境の軍神だったということです。
 ちなみに、江戸時代初め頃には、霞ヶ浦四十八津・北浦四十四津という漁民組織が存在していた。家船と呼ばれる水上生活者たちである。これが平安末期まで遡れて、海夫という人たちがいたことが分かっていて、霞ケ浦の海としての役割、東日本の水上交通上の役割が大きかった。おそらくそれ以前から海夫が分布し、外海に向かって北あるいは南に開かれているので、その入口に鹿島・香取の神が祀られていたことは十分に納得できます。


<霞ヶ浦・北浦・利根川の海民分布図(網野義彦・森浩一氏の著作から>

 平安後期の歌謡集『梁塵秘抄』には、「関より東の軍神、鹿島香取諏訪の宮、また比良の明神安房の洲、瀧の口や小野、熱田に八劔、伊勢には多度の宮」という歌が載っています。鹿島、香取は共に、東国の軍神として認識されていたのです。
 大河を挟んで鎮座する両社が近しい関係にあったことは間違いありません。それを裏づけるような行事に「御船祭」があります。「鹿島神宮」津宮から神輿を御座船に載せて水郷を進み「香取神宮」の御迎祭を受けるというもの。両社の結びつきを強く感じる祭礼であり、やはり鹿嶋香取は、タケミカヅチが「軍神」として鹿島に、フツヌシが「武器」として香取に祀られた一対の神であったことを裏づけているようです。

 

特別待遇を受けていた鹿島・香取
 鹿島・鹿取は都から見て特別な神社であった。特別待遇の内容は以下の通り。

 『延喜式神名帳』で神宮と称されたのは、伊勢の大神宮と鹿島、香取の3社だけ。  石上は、『記・紀』では石上神宮と表記されるが、『延喜式』では布都御魂神社と、「神社」表記になって、社格が下がっている。

〇 『延喜式』には「摂津国の住吉大社、下総国の香取神宮、常陸国の鹿島神宮等の本 殿は20年に1度の式年遷宮をすべし」と書かれている。

 朝廷から毎年2月に鹿島香取使という勅使が派遣された。これは地方の神社としては異例の待遇。地方ではほかに宇佐神宮があるが、毎年ではなく足かけ7年ごと。

 特別な領地である「神郡」を持つことが許されたのは、香取神宮、鹿島神宮、安房神社、伊勢神宮渡相郡、伊勢神宮多気郡、宗像大社、熊野大社、日前国懸神宮の8社だけ。これらの神郡はいずれも律令国家における交通上・軍事上重要なところであった。

 『続日本後紀』くらいからあと、神社が神階を授けられる記事が頻出するが鹿島・香取は同時に位を受けている。

 上記の状況や御船祭の行事からも、鹿島・香取二社はワンセットの神社だったと考えられます(伊勢神宮の内宮・外宮、賀茂社の上賀茂・下鴨、宗像三社などと同様)。

 

蝦夷地に向き合う特別な存在だった鹿島と香取
 上記のような特別待遇は、「鹿島神宮」と「香取神宮」が共に、発展途上の大和政権から、蝦夷と対峙する最前線に鎮座する最重要な武神とされていた証左とされます。
 前述した「鹿島神宮」の北向き本殿は、形の上からも蝦夷と対峙する姿勢を表しています。
 現在の「香取神宮」は南面しているが、当社の奥宮が北向きでした。昔の香取社は本殿(奥宮)に至る参道が利根川の津宮の浜鳥居から南下していたらしい。つまり、鹿島・香取ともに蝦夷に向けて揃い踏みしていたことになるようです。

 坂上田村麻呂による蝦夷征討の際、彼は鹿島の神の分霊を奉じて遠征したと伝わっています。そして、その分霊は征討軍の陣中の守護神として、征服地の鎮守神として祀られたようです。


<陸奥国の鹿島御子神(岡田精司氏の著作から転載)>

 上図は、その時の38社の御子神を地図上に落とし込んだもので、陸奥国といっても海岸沿いだけで、征討軍の通った道筋が見事に現れています。

鹿島神・香取神の信仰の広がり
 武道の神、剣術家の守護神
 タケミカヅチとフツヌシは、カグツチの首を切り落とした時に流れ出た血から生まれた剣の神。鹿島・香取は、戦国から近世にかけて、剣術家たちに崇敬されて武道の道場の役割を果たした。鹿島にゆかりの深い剣術家に塚原卜伝がいる。ほかにも鹿島の名を冠した数々の流派や香取神道流は当地を源流とする剣法である。

 悪霊を防ぐ境界神
 関東や東北に分布する「鹿島(人形)流し」という神送りの行事は、悪疫退散に霊験ありとされている。

 旅の神、旅立ちの神
 「鹿島立ち」は古代の防人の出陣儀式的な習慣。鹿島神に参拝して武運長久と行路の安全を祈願し、赴任先の西国へと旅立つのが習わしだった。

枚岡から始まり、鹿島・香取を取り込み春日へ、さらに平安京へ
 中臣氏はもともとの本拠地は河内で、一宮の枚岡神社が氏神でした。
 枚岡神社は、生駒山地の神津嶽を神の降臨の地として崇める古代信仰から始まっています。7世紀半ば頃、中臣氏一族の枚岡連が、神津嶽の磐境から枚岡神社の地に、中臣氏祖先神の天児屋根命(あめのこやね)と比売御神(ひめみかみ)を遷座したのが創始とされます。


 <神津嶽遥拝所>

 枚岡神社の現在の祭神は、第一殿「天児屋根命」、第二殿「比売御神」、第三殿「経津主命」、第四殿「武甕槌命」ですが、当初はアメノコヤネとヒメミカミの二祭神だけでした。 
 中臣氏は、768年、平城京に春日大社を創建すると、当初の二神に加え、一族の氏神として鹿島と香取からも二神を勧請し合祀します。

 第一殿「武甕槌命」、第二殿「伊波比主命(いわいぬし、経津主命」、第三殿「天児屋根命」、第四殿「比売御神」。

 その後「春日大社」は四神揃い踏みで大いに繁栄したため、枚岡神社も778年に鹿島と香取から増祀し四殿構成となったというわけです。


 <四神揃い踏みの枚岡神社本殿>

 中臣氏の出身地は通説では河内です。物部氏とともにヤマト王権の祭祀に係わる立場にあったが、仏教伝来後の587年に蘇我馬子と対立した物部氏は没落してしまいます。 

 その後、従来の中臣氏から、祭祀に関係しない中臣氏(のちの不比等系藤原氏)が分離し、中央の行政に関与するようになります。こうして行政の藤原氏、祭祀の中臣氏が両輪となって8世紀の大和政権を支えていくわけです。

 この政界の動きに連動して、畿内の「枚岡・春日」と東国の「鹿島・香取」相互の間で合祀・分祀が行われました。

 784年、桓武天皇が長岡京へ遷都した際、藤原氏が春日大社の分霊を勧請して大原野に祀ったのが大原野神社のはじまり。平安京と藤原一族の守護神として「京春日」の別称を持つ。

 次いで859年、藤原氏は春日大社から四神を勧請して吉田神社を創建し、平安京における藤原氏全体の氏神として崇敬を受けた。

 春日大社、大原野神社、吉田神社は、藤原氏の氏神3社と呼ばれています。

 

 

150 住吉大社・住吉4社


   <住吉大社第二本宮・第三本宮> 

 今回は、三韓征伐で活躍したと伝わる神功皇后ゆかりの住吉大社と各地の住吉神社について言及します。

上町台地と住吉大社境内
 「住吉大社」は、大阪市南西部に南北に長い舌状の上町台地の南のつけ根部分にあります。そこから北側に向かうと「生国魂神社」、「四天王寺」、そして上町台地の最北端には大阪城や難波宮跡があります。
 古代は、上町台地の東側は河内湖、西側はすぐ大阪湾でした。
 今の当社は海岸から7キロほど離れ市街地に囲まれているが、古代は境内のすぐ西側まで海が広がっていたということになります。

 「住吉大社」は全国に数多ある住吉神社の総本宮です。
 境内の正面には路面電車の阪堺電軌が走る紀州街道があり、そこに巨大な石燈籠群が林立する様は壮観の一語です。紀州街道の反対側150メートルほどのところには南海電鉄の住吉大社駅があります。

 


  <紀州街道沿いに林立する灯籠群>

 西側にある広大な住吉公園は、かつては住吉大社の境内でした。参道はその住吉公園を起点に東に向けて続いています。
 巨大な石灯籠が林立する表参道に入ると、すぐに大きな正面鳥居と急勾配の反橋が見えてきます。反橋の上からは四角柱の住吉鳥居と幸壽門の眺めが素晴らしい。

<四角柱の住吉鳥居と幸壽門、右は住吉造の第三本宮>

 幸壽門をくぐれば本宮のある神域ですが、そこは多くの神社と違い明るく開放的です。密閉性の高い瑞垣や廻廊がなく、四つの本殿の周囲は戸板のような細長い朱色の木で囲われているだけで、ほとんどむき出しの本宮を間近に見ることが出来ます。

 明治政府の『近代神道祭式』で本殿の前に拝殿を構えるよう指示があり、多くの神社では本殿がほとんど見えない状態になってしまいました。御神体の鎮まる本殿を直接拝めず、前に立ちふさがる拝殿を通してお参りするのはいかにも残念なことです。当社では本宮がよく見えて有難い……。

 現在の本殿は近年再建されたものですが、建築様式の住吉造に古式を残しているので、4本殿とも国宝に指定されています。神社建築を分類すると、最古のものは神明造大社造ですが、流造は神明造から派生し、住吉造春日造と共に大社造から派生したものです。
 その住吉造ですが、本殿内部は手前と奥の2室に区切られています。
 本殿の柱、垂木、破風板は朱塗り、壁は白の胡粉塗りで、社殿に廻り縁を設けずに、朱色の細長い木で作られた低い瑞垣が囲んでいます。直線構成のシンプルなデザインだが、朱と白の対比が鮮やかで美的にすぐれた建築といえるでしょう。

 <社殿は朱と白の対比が鮮やか、右は神池と反橋>

 本殿は大阪湾に向けて、第三本宮、第二本宮、第一本宮と、三神の一柱ごとに社殿を縦列に並べた異色のレイアウトで、神功を祀る第四本宮だけは、いかにも後から付け足したように第三本宮の横に配置されています。
 西向きは大阪湾方向であり、当然海との繋がりの強さを表したものと言えるでしょう。

 境内奥の右寄りにある石舞台は、「厳島神社」、「四天王寺」とともに「日本三舞台」の一つとされ重文に指定されています。五所御前という面白いものもあるし、御神木の千年楠も立派な枝を広げています。「住吉大社」は美術・芸能面でも多大な影響を与えてきました。謡曲「高砂」の住之江然り、その他にも和歌の神として住吉三神が取り上げられたことは数多い……。

筒之男という名のワンセットの神
 住吉大社の祭神は住吉三神と神功皇后で、1柱ごとに社殿があります。
 事実上の1セットの神に対して社殿が夫々建てられているのは大変に珍しいことです。
 長門や筑前などの住吉神社の祭神が三神であることからも、元々の住吉大神は三神であったに違いありません。『記・紀』にも「三柱の神は、墨江の三前の大神なり。是すなはち住吉大神なり」とあります。

 それでは何故、そこに神功皇后が祀られているのであろうか。
 『記・紀』はその由緒を次のように記しています。

 神功皇后は新羅出兵の際、住吉三神の神威をいただき航海の安寧を得たことから、墨江の地に住吉三神の祭地を定め、皇后自身が「われ住吉の大神とともに相住まむ」として第四本宮に祀られた、と。
 勿論これは伝承であり、元々の第四本宮は、巫女を神格化した「ヒメ神」を祀っていたという説があります。

 実際、住吉大社の当初の祭神は住吉三神であって、7世紀後半になってから神功皇后が合祀されています。
 古代史を考えるときに神功はまことにややこしい存在で、豊前にある宇佐神宮も、当初は八幡大神と比売神の2座だけだったのが、平安時代の823年になって神功を合祀して3座にしたものです。

 『記・紀』では住吉三神の名は底筒之男命、中筒之男命、表筒之男命であるとしています。底、中、上はそれぞれが海底、海中、海面で誕生したことを意味しますが、「ツツノオ」が何を意味するのかについて定説はありません。
 「筒之男」の「ツツ」はツツで一つの語とみるべきではなく、上のツは助辞と見て、下のツは港津の津と解釈して、つまり「難波の津之男」すなわち「住吉の港湾の守護神」という説が妥当に思えます。

 住吉三神については、塩土老爺とする異説もあり、住吉三神と神功皇后が夫婦の密事をしたという伝承が「住吉大社」には残されているようです。ここら辺は伝承なので、何分謎の領域になります。

伴造としての津守氏と住吉大社
 安曇氏や宗像氏は、先進地域であった朝鮮半島から鉄器をはじめとする文物の輸入に深くかかわることでヤマト王権の権力基盤の強化に貢献してきました。
 しかし6世紀になると、鉄の国産化が本格化して朝鮮半島との交易の重要性が薄れ、さらに562年、交易拠点だった伽耶が滅亡することで、海部を独占していた安曇氏の凋落が始まります。
 これに乗じて海部であった諸氏が台頭します。
 名古屋辺りを拠点に尾張氏、丹後には海部氏(あまべ)が、さらに膳氏(かしわで、後の高橋氏)が若狭や志摩を支配して王権への水産物供給者の地位を確立、安曇氏から派生した凡海氏(おおしあま)が丹後や周防を拠点に活動するなど、海の民を出自とした諸氏が豪族となっていきます。

 5世紀、葛城氏は、瀬戸内海を東進し大阪湾に構えた安曇氏と連携して水運・海運網の掌握に力を入れていた。ところが5世紀末になると葛城氏が雄略大王から狙い撃ちされて急速に没落。やがて中央での海人族の統率権は安曇氏から派生した凡海氏(大海氏)に移行します。

 天武天皇が大海人皇子(おおあまのみこ)と呼ばれていたのは、幼少期に凡海(おおしあま)氏に養育されたからと言われています。大海人皇子は尾張氏のもとで養育されたことから、当時の海部一族の伴造(とものみやつこ)であった凡海を名乗ったらしい。大海人は凡海のことです。
 壬申の乱では尾張の豪族たちが主力となって近江朝廷軍を破ったことは有名。この一事をもっても、凡海氏が天皇家といかに深いかかわりがあったかを物語っています。

 6世紀初頭には継体が中央に進出します。
 継体の盤石な政治基盤は、越前での実績を力の源泉として尾張氏・息長氏らの豪族と幅広く関係を結んだことによってもたらされた。そこで継体の中央進出にあわせて尾張氏系の豪族もこぞって中央に進出した。尾張氏系と近かった津守氏も当然のごとく大阪湾の住吉付近に進出します。
 そこで、安曇氏の後を引き継ぐように、津守氏は住之江津に拠点を構え、ここが後に住吉大社となるわけです。

 これをまとめてみると、住吉では当初、安曇族が海人族の神(底・中・表のワタツミ三神)を祀り、葛城氏のサポートを受けていた。その後、海人の神は津守氏による海神信仰に引き継がれていったということになります。神功皇后が合祀されるのはその後の7世紀になってからのことです。

  住吉三神は津守氏の氏神ではなく、津守氏は王権の伴造(とものみやつこ)として住吉の港湾管理にあたる一方で、神主として住吉三神の祭祀に奉仕しました。津守氏の氏神社は大海神社(だいかいじんじゃ・住吉大社の摂社)で、『延喜式』にも「元の名は津守氏人神」との記載がある古社です。

 津守氏の氏神と、字面が同じ凡海(大海)氏との間につながりがあるのかどうかはよくわかりません。

 安曇系が没落する中で、住吉三神の信仰は全国に広がり、津守氏も勢力を増し、外交・交易に手を染める有力な豪族として、摂津・住吉の他にも和泉、讃岐、豊前などにも分布していた模様。

 ところで津守氏は、尾張氏や丹後の海部氏と同じアメノホアカリを祖としています。こうした伝承から、安曇氏の海部独占から抜け出して台頭した海洋交易者たちは元来同根だった可能性があります。

 『日本書紀』神功皇后紀の伝説的記事を別とすると、確かな史料による「住吉」の文献上初見は『日本書紀』686年で、紀伊国国懸神・飛鳥四社・住吉大神に弊が奉られたという記事になります。
 特定氏族の氏神でない点では、住吉大社は伊勢神宮・石上神宮・鹿島神宮とともに、ヤマト王権に密着した神社として国家的機関の位置づけにあったと考える説もあります。
 国家神へと昇格した住吉の神は、遣唐使や遣渤海使の守護神としても信奉されます。神職である津守氏は、遣唐使や遣渤海使の主神をも兼帯しました。

 その後、ヤマト王権の重心が摂津から再度、大和地方へ回帰するにつれて、王権に占める「住吉大社」の地位も徐々に低下し、その後は一般庶民の神社として栄えて現在に至っています。

 摂津国には、この有名な住吉大社の向こうを張るかのように摂津国一宮を名乗ってきた坐摩神社があります。この際、「坐摩神社」にも触れておきたい。

 

坐摩神社(いかすり)
 「坐摩神社」は御堂筋本町のビル街の真ん中に鎮座しています。そこは、阪神高速一号環状線と13号東大阪線の交点近くで、境内の周囲には高いビル群が林立し、高速道路からも遮蔽され、まさに谷間にある窮屈な場所になります。

 道路に面した入口には三鳥居(みつとりい)が建っています。境内は狭く、いきなり拝殿が見えてしまい、ちょっとがっかりします。それでも境内右側には摂社群と拝殿を結ぶ廻廊があり、古色を残した佇まいに由緒を感じます。

 <左、三鳥居、右はビル群に埋もれる拝殿>

 入母屋平入唐破風をあげた拝殿の後ろには流造本殿が建っています。戦災で社殿は焼失し、現社殿は鉄筋コンクリート造り。本殿左側奥にはこれも珍しい「火防陶器神社」があります。その手前に立派な有田焼の燈籠が立っています。改めて拝殿の前に立って周りを見ると、まさにビルの谷間という感。押しつぶされそうな社殿が精一杯自己主張して懸命に耐えているかのような不思議な感覚を覚えます。

 鎮座地の住所は「大阪市中央区久太郎四丁目渡辺」という。丁目のうしろに渡辺がくる妙な表示です。当社は元々、淀川南岸の渡辺津、現在の天満橋付近で創始されています。国府も置かれていた摂津国の中心地でした。

 平安時代後期には源融の流れを汲む嵯峨源氏の源綱が渡辺津(渡辺の庄)に住み、渡辺氏を興しています。全国の渡辺・渡部等の姓の発祥地といわれる。その後、渡辺綱の子孫は摂津渡辺党と呼ばれる水軍として瀬戸内海で大活躍しています。

 16世紀末になって秀吉の大阪城築城のため現在地に遷座した。渡辺党の関係者も転居し以後渡辺町と呼ばれてきた。しかし昭和の行政区統合で町名の渡辺は消滅することに。これに「全国渡辺会」が強硬に反対、丁目の次の街区番号に「渡辺」の名を残すという苦肉の解決をし、これが妙な地名が生まれた経緯ということになります。旧社地には現在も行宮が残されています。

 さて、住所表示の次は社名の謎です。「坐摩」と書いて「いかすり」と読ませるのも不思議ですが、そもそも「いかすり」の語源は何であろうか。神社由緒略記によれば、土地又は居住地を守る意味の「居所知」が転じた名称とのことだ。

  祭神は坐摩神と呼ばれる五神です。
 生井神、福井神、綱長井神、波比岐神、阿須波神で、このうち前の三神は井泉の神で、ハヒキは境界、アスハは基盤で、ともに屋敷神を意味します。

 坐摩神は神武天皇即位の時に宮中に奉斎されたのが起源とされます。
 また、宮中で行われる大嘗祭の「宮中八神」は、御歳神、高産霊神、庭高津日神、御食饌神、大宮売神、事代主神、阿須波神、波比岐神の八柱で、このうちの二柱が坐摩神と同じなので、当社の祭神は由緒ある神であることは間違いありません。

 由緒書によれば当社は、神功皇后が三韓征伐から帰還した際に、宮中に奉斎されていた坐摩神を旧社地(現在の行宮)に祀ったことに始まるとしています。神功皇后の実在性は置くとしても、宮中に祀られていた神が当社旧社地に遷されたのは事実でしょう。

 「住吉大社」に伍して、当社が摂津国「一宮」を名乗ることが出来たのは、先に言及した摂津渡辺党の水軍力によります。13世紀頃の当社は五連の本殿を擁する威容を誇っていたので、ハード面からも摂津一宮の体裁を保持していたことは間違いないでしょう。
 渡辺党は摂津国住之江で行われていた「八十島祭」に従事しています。
 昔、難波津の辺りには大小多数の島があり、これらの島々を八十島と呼び大八洲に見立てた。「八十島祭」は即位した天皇の御魂を振り、「天下の八十島は天皇の支配する国である」ことを再確認する皇位継承の儀式であり、鎌倉時代中期まで続きました。それは渡辺党の水軍力を象徴するイベントでもあった。
 渡辺党は海上交通を通じて日本全国に散らばり、各地に多くの渡辺氏の支族を残したとされます。

社殿の造形が見事な住吉神社(長門国一宮)
 長門国の一宮とされる「住吉神社」は周防灘からは山を一つ越えた山陽新幹線新下関駅のほど近くに鎮座しています。地名は下関市一の宮住吉。
 豊かな樹叢に囲まれた境内には、白い大鳥居がでんと構え、著名な「一宮」であることを感じさせてくれます。

 大鳥居の左側に変わった立札が立っていた……。
 茶色の三角形が五つ横に並び、その下に赤い三角形が一つ、上に赤い水巴が一つ描かれています。これは本殿(水巴)が国宝、拝殿(赤い三角形)が重文であることを示すと同時に、五連の本殿(茶色の三角形)の祭神を説明したもので、案内板の傑作中の傑作といえるのでは。

 大鳥居をくぐり参道を奥へ進むと、太鼓橋の先の階上に楼門が見えてきます。朱色の絢爛豪華な楼門は天井にも細工が施され、左右の随身像も見事。
 楼門をくぐれば、「住吉神社」の真骨頂である素晴らしい社殿を目の当たりにし感動も最高潮になります。

 縦長拝殿は切妻妻入だが屋根にはやや反りがあります。舞殿風で下部は吹き抜けとなっている。朱色の梁から鈴紐が五本下がり、これが良いアクセントになっています。
 拝殿には「住吉荒魂本宮」と朱書された扁額がかかっています。
 本殿は、九間社流造の一棟建て横長本殿が千鳥破風を五つあげているということになります。この特異な形だけで国宝の資格は十分でしょう。縦長拝殿と横長本殿の組み合わせは得も言われぬ美的なハーモニーを感じてしまいます。至上の美学で貫かれた社殿群といえるだろう。

<縦長拝殿、 右は九間社流造の一棟建て横長本殿>

 祭神は向かって左端から、住吉大神荒魂、応神天皇、武内宿祢命、神功皇后、建御名方命。
 神話では、神功皇后が三韓征伐の時に住吉大神が現われ、その神助で勝つことが出来た。その神恩に感謝して住吉大神の荒魂を祀ったのが当社の創始とされています。

 当社社殿の右方から後方には豊かな樹叢が広がっており、常緑広葉樹が主体だが、特に本殿の東にある大楠の古株は見事。タケノウチノスクネお手植えとの伝承があるのが面白い。

 「一宮」としての住吉神社は三社ありますが、創始は、伝承では筑前、長門、摂津の順となります。
 『古事記』によれば、神功皇后は、住吉大神の和魂を体に、荒魂を水軍の先鋒とし、朝鮮半島に渡航した。その荒魂を新羅に鎮め、壱岐国に「住吉神社」を創建した。そして筑紫に凱旋した時に筑前国に(筑前の住吉神社創建)、また長門の豊浦宮を拠点にした時には穴門(長門)の山田の地に住吉三神の荒魂を祀り(長門の住吉神社を創建)、さらに難波に進攻した時には、目的達成の御礼に摂津に創建(住吉大社)したという。尚、「住吉四社」というときは、「一宮」の三社に壱岐の「住吉神社」を加えるようです。

 

住吉系神社の源流とされる住吉神社(筑前国)
 今の社地はビルが立ち並ぶ市街地の中にあって、すっかり町中の神社の趣です。しかし古代の博多は海が深く湾入していて、当社はその入江に突き出た岬の上にありました。この辺りを「儺ノ津」といい、朝鮮半島や大陸への海の表玄関でした。
 こうした立地からも、当社が古代より海の守護神であり航海の神であったことが読み取れます。

 緑濃い参道の奥に、ニノ鳥居、その奥に朱色の神門が見える。「あおによし」の色彩をまとった神門の先には、朱色の拝殿が左右を緑の杜に埋もれさせて美しい。
 本殿は住吉造で、内陣は前後二室に分かれ摂津一宮の「住吉大社」と酷似しているようです。瑞垣の外には、摂津一宮には無かった玉垣がしっかりと囲んでいて、参拝者は近づけず、解放感に欠けるのがまことに残念。


       <住吉神社拝殿>

 祭神は底筒男、中筒男、表筒男から成る住吉三神で、相殿にアマテラスと神功皇后が祀られ、あわせて住吉五所大神と呼ばれています。

 当社は住吉系神社の源流とされています。住吉系神社の総本宮とされる摂津一宮よりも創建時期は古い。主要な住吉神社を創建順に並べれば、筑前、長門、摂津の順になる。神社由緒書にも誇らしげに「住吉本社」や「日本第一住吉宮」と表記してあります。

 当然、筑前国一宮として朝野の篤い崇敬を受けてきた。鎌倉時代以降、権力が貴族から武士に移ったことで、神社の格も変化した。天皇や貴族が崇敬した「住吉神社」から、武神「筥崎宮」へと重心は移行してしまいます。そして「一宮」としても「筥崎宮」と「住吉神社」が並立するようになってしまった。

 境内南側には相撲場がある。大相撲九州場所の前に、奉納土俵入りが行われる場所だ。テレビにもよく登場する。相撲場からさらに南奥にある能楽殿は昭和になって建てられたものだが、戦火をくぐり抜け、「大阪以西なら住吉」と称賛されるほどの日本有数の名舞台らしい。

 

九州最大の激戦地を制した住吉神社
 筑前国には歴史ある有名神社が揃っている。「一宮」としては「住吉神社」と「筥崎宮」があり、他にも「太宰府天満宮」、「宗像大社」、「香椎宮」、「志賀海神社」、「筑紫神社」、「宮地嶽神社」と粒ぞろい。

 「宗像大社」は南方系の海人族である宗像氏が宗像三女神を祀った社です。また、北方系の海人族である安曇族の奉ずる「志賀海神社」は、綿津見三神を祀った社であり、当社の住吉三神とも関係が深いとされます。宗像氏も安曇氏も海洋展開能力を生かし全国に雄飛した古代の有力氏族でした。

 「宇美八幡宮」は神功皇后が応神天皇を生んだ地とされ、「香椎宮」も神功皇后の神託があり、仲哀天皇が死去した地とされています。いずれも仲哀・応神・神功皇后の伝承が色濃く残る有力社ということになります。

 「太宰府天満宮」は歴史こそ新しいが終始朝野の崇敬を集め、今日の参拝客の人気でみても「宗像大社」とならび九州きっての有力社といえます。この他にも、『延喜式』の名神大社で筑紫国の名の由来となった「筑紫神社」や大注連縄で有名な「宮地嶽神社」もあります。

 こうしてみると、筑前国は他のどこが「一宮」であってもおかしくない激戦地です。何故、当社が他社に先んじて「一宮」の地位を確保できたのか。恐らく、「志賀海神社」や「筑紫神社」は平安時代には没落し、「宗像大社」や「香椎宮」、「宇美八幡宮」は、国家的崇敬の対象として「一宮」を超越していたのでしょう。ともかくも「住吉神社」は全国最大の激戦地を勝ち抜いた「一宮」といえそうです。

 

壱岐国総鎮守と伝わる住吉神社(壱岐国)
 壱岐の「住吉神社」は、壱岐国の総鎮守とされ実に立派な神社です。
 神社由緒略記によれば「当神社は神功皇后御帰陣の際御親祭の由緒深き古社にして即ち住吉神社の草分けとも奉るべき日本最初の住吉神社総本宮なり次いで御鎮斉あらせられたる長門摂津、筑前の住吉神社と共に日本四住吉の一にして古来式内名神大社長崎県下筆頭の古社として知られたり」とある。

 現況から見れば「住吉神社」こそ壱岐国の「一宮」としたいところです。

 


       <住吉神社拝殿>

 壱岐には古代史に何かと登場する「月読神社」があります。神社由緒書には「日本神道発祥の地」とあります。
 月読神は元々、潮の干満と関係する月齢を数えることが不可欠だった海人集団に育まれた神で、壱岐の海人集団の奉ずる月読神には原初の姿がただようと主張する識者もいます。
 『日本書紀』の顕宗天皇紀に、阿閉臣事代が壱岐で月神が憑りついて託宣したので、天皇に奏上し、壱岐から月神を勧請して葛野の「月読神社」を創建したとあります。したがって当社は「松尾大社」摂社の「月読神社」の元宮とされるわけですが、異論もあるよう……。

 せっかく壱岐国を取り上げたので、一宮にも触れておきたい。

天手長男神社(壱岐国一宮)
 郷ノ浦から北上するとほどなく鉢形嶺に鎮座する「天手長男神社」に着く。鉢形嶺の向かいにも小高い丘があって、妻神の「天手長比売神社」の跡がある。両社の間は田園地帯が広がるが人ひとり見かけることはありません。

 一ノ鳥居から鉢形嶺の頂上付近まで急登の石段が続く。石段は合計137段あり、途中のニノ鳥居の扁額だけは「寶萬神社」となっています。寶満神社とはいったい何であろうか。

 

  <鉢形嶺をぐんぐん登る! 右は拝殿の覆い屋>

 頂上付近に本殿があるが、「一宮」にしては異様に粗末な建造物と思いきや、良く見るとそれは新建材の覆い屋だった。本殿はその中に隠されており、かなり小さい。

 かつて『延喜式』の名神大社にランクされ、壱岐国一宮として権勢を誇った「天手長男神社」だが、今の実態は余りにも寂しい。それもそのはず、400年前の元寇の時、人・物ともに一片も遺さず破壊し尽されたせいか、当社は江戸時代には所在すら分からなくなっていたのです。

 そこで登場したのが信念の神道家・橘三喜です。
 1675年、彼は平戸藩主に呼び出され「天手長男神社」の所在を調査するよう言い渡される。彼は壱岐に渡り、島のあちこちを発掘し続けた。この時「天手長男神社は壱岐国宗廟たりといえども跡形もなく、剰へいひ伝ふる事もたしかならず」という言葉を残している。
 ともあれ半年後、「天手長男神社」の宝鏡の見つかった場所を当社の地と定め、再建に取り掛かりました。
 仮宮建設の途中から、彼は全国の一宮巡詣の手始めとして九州の一宮巡詣の旅に出た。そして再建なった「天手長男神社」に参拝した橘三喜は、スケッチを残しています。それによれば、楼門と拝殿を廻廊がつなぎ、後方に本殿を配置した立派な社殿と見て取れる。現況とは大変なギャップがあります。

 向かい合う丘の上にあった「天手長比売神社」であるが、今は鳥居などの跡だけが残されていて、昭和40年、夫神の当社に合祀されました。
 祭神は天忍穂耳尊、天手力男命、天鈿女命の三柱です。しかしこれらの神と壱岐との接点は全く考えられない。元々は壱岐に先住の手長族の神を祀ったのではないかとも伝わる。神話では神武天皇と戦った長髄彦は脛が長かったとされるし、諏訪には足長神社と手長神社がある。これらを繋ぐのは日本列島の縄文系先住民族だったのではないだろうか。

 さて橘三喜のお蔭で再建がなった「天手長男神社」ですが、実は「興神社」こそが「天手長男神社」であり「一宮」である、という説も地元では有力らしい。「興神社」が原の辻遺跡にも、国府跡にも近いことが根拠となっているようです。

 対馬国、壱岐国には、『延喜式』に記載される式内社が夫々29座、24座と多い。国の大きさに比べて非常に多い。これは、神祇官と深いつながりをもった対馬卜部、壱岐卜部の存在が大きいらしい。ただ、元寇などで徹底的に破壊されたために、今は存在自体が不明になってしまった神社や、小詞になって細々と存続している神社など、当地の現況は寂しいものがあります。

四住吉とシーレーン
 前述したように、「一宮」としての住吉神社は住吉大社(摂津)のほかにも筑前と長門にあります。壱岐の住吉を含めた住吉4社の創建順は、『古事記』の記載から、壱岐、筑前、長門、摂津の順と考えられますが……。

 『古事記』によれば、神功皇后は、住吉大神の和魂を体に、荒魂を水軍の先鋒とし、朝鮮半島に渡航した。その荒魂を新羅に鎮め、壱岐国に「住吉神社」を創建した。そして筑紫に凱旋した時に筑前国に(筑前の住吉神社創建)、また長門の豊浦宮を拠点にした時には穴門(長門)の山田の地に住吉三神の荒魂を祀り(長門の住吉神社を創建)、さらに難波に進攻した時には、目的達成の御礼に摂津に創建(住吉大社)したとあります。

 現に、壱岐の「住吉神社」の神社由緒略記には、

 <当神社は神功皇后御帰陣の際御親祭の由緒深き古社にして即ち住吉神社の草分けとも奉るべき日本最初の住吉神社総本宮なり、次いで御鎮斉あらせられたる長門摂津、筑前の住吉神社と共に日本四住吉の一にして古来式内名神大社長崎県下筆頭の古社として知られたり>
と記載されています。

 こうした通説とは異なって実は、それら四住吉は互いに関連性がなく、独立的に創建されていたと思われます。
 摂津にある住吉大社歴代宮司の津守氏は、安曇氏と血縁関係はなく、住吉三神を祖神と仰ぐ一族の末裔でもありません。
 また筑前の住吉神社は佐伯氏、長門の住吉神社は穴門氏で、社家は津守氏と別系統です。
 各地の港(津)を守る男神(筒之男神)を祀るため、地域ごとに朝廷により氏族が配置されたが、その中で摂津の津守氏が国家祭祀を行う住吉大社宮司として力を持つようになったと考えられます。
 住吉三神のもともとの祭祀氏族は不明です。

 つまり住吉は、特定の海民集団の祀る氏族神をその起源とするのではなく、外征や海事海運政策を進める際の国家守護の神としてヤマト王権が祀り育んだものと考えられます。住吉の社に課せられた役割は、海民一族の繁栄や安全ではなく、公的な船舶の航海の無事を祈ることにあったということになります。

 また『延喜式神名帳』に記載がある住吉7社のうち、陸奥を除いた6社は、摂津、播磨(加古川)、長門、筑前、壱岐、対馬と点在し、住吉神が難波から朝鮮半島に至る重要な港湾の管理や海運統制、そしてシーレーンの安全確保を担う役割であったことが窺えます。