理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

2020-01-01から1年間の記事一覧

69 海部氏と本系図・勘注系図

<丹後国一宮 籠神社の神門> 前回・前々回は代表的な海人族の活躍についてレビューしたので、今回は丹後海部氏について言及することにします。 筆者は、2011年、2013年の2回、海部氏が宮司を務める丹後国一宮「籠神社」に参拝しているので、その旅行記を兼…

68 古代のダイナミズムを生んだ海の民(2) 

<住吉大社 第二本宮本殿> 前回に続いて、海の民について言及します。 津守氏について 安曇氏や宗像氏は、先進地域であった朝鮮半島から鉄器をはじめとする文物の輸入に深くかかわることでヤマト王権の権力基盤の強化に貢献してきました。 しかし6世紀にな…

67 古代のダイナミズムを生んだ海の民(1)

弥生時代末期から3世紀頃までの日本海側の交易について概括したので、今回は、第52回・53回ブログで予告した「海の民の活躍」について考えてみます。 チャレンジ精神で交易を担った海民集団 現在の日本は、4つの大きな島を含め合計6852もの島から成りたっ…

66 3世紀頃までの九州北部・山陰の交易(3)

前回の続きとして、四隅突出型墳丘墓と青谷上寺地遺跡について補足します。 四隅突出型墳丘墓 ヒトデのような格好の四隅突出型墳丘墓ですが、これら出雲の墳丘墓と吉備の楯築墳丘墓は、ほぼ同時期に存在したと推測されています。 そして、西谷3号墳丘墓の埋…

65 3世紀頃までの九州北部・山陰の東西交易(2)

<宍道湖北岸の蕎麦畑> 前回の続きですが、古代の出雲と因幡について補足します。 出雲政権はあったのか? 古代史を検討する際に避けて通れないのは、「出雲の隆盛と国譲り」に関する論考です。 まずは、「3~4世紀の大和政権誕生に先立って、西日本全域…

64 3世紀頃までの九州北部・山陰の東西交易(1)

<大社湾越しに三瓶山遠景> 第38・40回ブログで、日本海側における「広範囲にわたる潟湖の存在は、朝鮮半島との南北交易を地域間の東西交易に転換でき、古代の日本海文明において重要な結節点の役割を担ってきた」と記しました。 今回は、紀元前1世紀頃か…

63 玄界灘沿岸のクニグニ・半島との交易(2)

<平原1号墓(福岡県糸島市)> 前回の続きです。 2世紀頃の九州北部 玄界灘沿岸のクニグニは、朝鮮半島との交易によって栄え、2世紀に向けて伊都国を中心にまとまっていきます。 その中心的な集落は、まず紀元前後の三雲南小路遺跡で、続いて1世紀頃の…

62 玄界灘沿岸のクニグニ・半島との交易(1)

<着陸寸前の機内から海食崖の続く対馬を望む> 紀元前の古代シナや朝鮮半島の人びとが、九州北部を「倭国」や「倭人のクニ」と認識していたかどうかに関係なく、九州北部にムラが生まれ、やがてクニに成長し、それらのクニグニが朝鮮半島と交易をしていたこ…

61 クニの始まりと倭人について

<鏡山頂上から虹の松原を望む(唐津市)> <夫れ楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国と為る。歳時を以て来り献見すと云ふ>。 これは『漢書地理志』に記された有名なフレーズですね。シナの史書における「倭人」という言葉の初出とされます。 多くの古代史…

60 水田稲作の伝来・伝播 

弥生時代とは? 藤尾慎一郎氏による『弥生時代の歴史』は、紀元前10世紀頃から紀元後3世紀頃までの日本列島の状況を知ることができる良書です。 今回は、同書からの抜粋を中心に、池橋宏氏の稲作渡来の論考も加味して、九州北部と本州における弥生時代の景…

59 当ブログのこれから

前回までで、「古代史に向き合うスタンス(第1~10回)」、「神話や考古学に向き合うスタンス(第11~24回)」、「人・モノ・情報のネットワークと古代の技術・交通インフラ(第25~58回)」について、ひと通り言及しました。ブログをスタートしてから既に…

58 『記・紀』に登場する船・舟

<磐船神社・社殿に覆い被さる巨岩> 「山は隔て、海は結ぶ」という言葉がある。古代日本にとって海は重要な交通路だった。海に囲まれた日本は、外国との往来は船に頼るしかない。日本列島を取り囲む海や、強い流れの海流・潮流は自然の障壁でもあったが、古…

57 古代の瀬戸内海航行

実に多くの研究者が、瀬戸内海は古代から(研究者によっては縄文時代からとも)「歴史的な物流ハイウエイ」だったと述べています。 確かに多くの文物が行き来し、文化が伝播したことは間違いありません。 しかし、5世紀以後ならともかく、それよりも前の時…

56 古代の帆船

古代日本で帆船は実用に供されたのだろうか 外洋を手漕ぎで進むのは体力的に厳しい。でも外洋をまたいで往来した証拠はあまりにも多い。こうしたことから、古代日本においても、外洋は帆船で航行したという説を唱える研究者が大勢います。しかし日本では、中…

55 準構造船(2)

前回の続きです。 舟形埴輪のフォルムよりもシャープで軽かった準構造船! 準構造船は、刳舟(丸木舟)を前後につないで長くした複材刳舟の両舷に舷側板をつけて深さを増し、積載量と耐航性を大きくしたものと定義されます。 20~30人が乗れた可能性があり、…

54 準構造船(1)

<一支国博物館の準構造船復元模型> 実は謎の多い準構造船 弥生時代後期、ないしは3世紀頃から現われたとされる準構造船について、実態はどのようなものだったのか考察してみます。 技術の発展段階による船の7分類(第52回ブログで言及)を再掲します。 …

53 丸木舟の製作と外洋航行を科学する

丸木舟の製作は困難を極めた! 縄文から弥生時代にかけて、丸木舟(刳り舟)は次のように製作されていたと想定されます。 単材の丸木舟を1艘製作するには、まず石斧で最低でも太さ1メートルくらいの巨木を伐り倒さなければならない。 その石斧ですが、旧石…

52 古代の舟

第27回ブログの「実験航海」で触れたように、約3万年前の旧石器人が日本列島にやってきた渡航手段は丸木舟だった可能性が出てきました。この実験航海の成功もあって、古代史愛好家の間で、「古代の舟」に対する関心が非常に高まっているようです。 交通イン…

51 木材加工技術と工具・道具

古代の舟と航海に言及する前に、「舟の製作に欠かせない木材加工」について確認しておきます。第26回ブログで簡単にまとめてありますが、もう少し詳しく掘り下げてみます。 木材加工道具と刃先の歴史 木材加工では、斧と鑿(のみ)がもっとも原初的な道具で…

50 ヒスイは語る

前回の黒曜石に続いて、遠隔地交易の存在を裏づける考古遺物として、ヒスイを取りあげます。ヒスイは、「空飛ぶ宝石」と言われるカワセミ(別名、翡翠とも)の羽毛の色に似ていることから命名されました。もともとカワセミの雄は「翡」、雌は「翠」と呼んで…

49 黒曜石は語る

<黒曜石の黒い層(神津島)> 今回と次回は、第25・26回のブログで予告した通り、黒曜石とヒスイに言及します。 当ブログでは、古墳時代前期までの海・陸の交通インフラが極めて貧弱だったことを確認してきました。一方、紀元前のはるか昔に、黒曜石・ヒス…

48 馬の利用

<勧修寺の菖蒲> 急遽思いつきました。陸上交通といえば馬を欠かすわけにはいきませんね。今回は馬について言及します(第44回ブログで予告)。 『日本書紀』には、スサノオ(神代だけど、あえて言えば弥生時代かな?)が、いろいろな乱暴狼藉をする場面で…

47 塩の道

<三室戸寺のしゃくなげ> 第44回ブログで予告した「塩の道」について言及します。 弥生時代、いや縄文時代の昔から、海を持たない地域には、どんな山奥であっても「塩の道」が通っていた可能性があります。その多くは今や役目を終えて消失し確認すら困難な…

46 古代人の移動速度(歩行)

<勧修寺庭園のすいれん> 人はいったいどれくらいの速度で移動できるのでしょうか。 ここで論じるのは、弥生時代後期から4世紀頃までの、いわゆる「道」がほとんど整備されていなかった時代の移動速度についてです。 当時、馬はありませんでした。したがっ…

45 重要な交通路だった「河川と湖」

自然障壁が邪魔をする古代日本では、陸路だけで遠方の目的地や山深い奥地に到達するのは困難なことでした。 陸路の代わりに遠隔地を結んだのは地乗りによる沿岸航海であり、そして内陸部へは河口から遡る河川舟運があり、さらにその奥地にも舟越道などが存在…

44 3、4世紀頃までの古代道

<山越えの径> 『記・紀』を読むと、弥生時代から5世紀初めまでの日本列島で、軍隊や権力集団が遠征したり広域移動する記事が頻出します。難所に遭遇したかのような描写もありますが、その詳細には触れておらず、大集団にしては大した困難もなくスムーズに…

43 飛鳥、奈良時代の道路

すでに何度も触れてきましたが、政治勢力統一のプロセスを検討するに際して最大の与件となるのは陸上交通です。 今回から、第23回ブログで予告した「古代の道路」について掘り下げていきます。3、4世紀以前の道路に言及する前に、まずは飛鳥・奈良時代の道…

42 ギリシャの空間構造に似た日本列島の地形

<ギリシャの地形図> ギリシャの空間構造に似た日本列島の地形 前回のブログで言及した「脊梁山脈の縦貫・分断された国土・狭く少ない平野」に関連して、松木武彦氏による興味深い論考を見つけました。当ブログにとって大切なポイントなので、少々長くなる…

41 脊梁山脈と細分化した空間

<脊梁山脈> 魔法の絨毯に乗って移動? 筆者は声を大にして言いたい! 3、4世紀頃までの自然の姿を考慮しない古代史は、すべて真の古代史ではないと……。 研究者が提示する多くの古代史は、当時の自然の姿に無頓着か、それにはあえて目をつむっているよう…

40 日本海側の潟湖

<菜の花> 第38回ブログで言及した潟湖について、もう少し掘り下げてみます。 潟湖は砂州によって外海との出口をふさがれた湾のことで、海跡湖またはラグーンとも呼ばれます。 交通の要衝地であった潟湖の周辺は、比較的広い平野が形成されているため、古く…