2021-01-01から1年間の記事一覧
先走りしますが、4世紀後半から5世紀にかけてのヤマト王権の態様について簡単に述べておきます。 ヤマト王権の権力基盤は5世紀に大きく強化されます。技術革新がそれをもたらしたと言えましょう。 ともすれば古墳時代というと「古墳づくり」にばかり目が…
前回のブログで述べたように、『記・紀』に記された景行の時代は、奇妙な物語が多いですね。 景行自身の征西は妙だし、子のヤマトタケルによる全国制覇もロマンあふれる物語ですが、古代史としては虚構でしょう。 しかし、この時代にヤマト王権が九州進出に…
4世紀は、『記・紀』の歴代天皇に当てはめると、崇神の後の垂仁、景行、仲哀、応神の時期に対応します。 そこには大王家が華々しく遠征して、版図を拡大していく様が描かれていますが、伝承的で真実味に欠けるような内容が多いのが特徴です。 崇神による四…
ここまでヤマト国の伸長について言及してきましたが、当時、通交面でもっとも関係の深かった朝鮮半島の状況を確認しておく必要を感じたので、今回は紀元前から4世紀頃までの半島の古代史を概括します。 古代朝鮮半島の民族は、北部が騎馬民族系、南部が韓民…
「纒向のクニ」が大和盆地内で「ヤマト国」として隆盛する時期を経て、「ヤマト王権」は周辺(盆地の外)へと版図を拡大します。ただし、明確な王権への取り込みと言うよりは、交易を通じて周辺に影響を及ぼし圧を強めたというくらいの方が実態を言い当てて…
第91回ブログで予告した「さき」地域について言及します。 和珥氏(およびその前身集団)の勢力圏は、和爾からその北の帯解、大宅、春日一帯まで伸びていますが、その西側に隣接する「さき」地域には、数多くの巨大古墳から成る佐紀盾列古墳群があります。 …
第91回ブログの補足として、文献上から確認できる和珥氏について言及します。 和珥氏は、古代ヤマト王権を強力に支えた豪族とされていますが、その実像はあまりよく分かっていません。 ただ、ヤマト王権の軍事行動に際しては、外征に従事して版図拡大に貢献…
2019年2月14日付 西日本新聞朝刊に興味深い記事がありました。以下に抜粋して要約します。 古墳時代開始期前後(3世紀)に造られたとみられる前方後円墳「那珂八幡古墳」(福岡市博多区)の形状が、九州北部独自のものであることが福岡市の発掘調査で明ら…
第84回ブログでは、箸墓古墳の築造時期が、必ずしも通説である3世紀半ば頃とは限らず、4世紀前半までの可能性があることに触れました。 どちらを採るかで、古代日本における統治のプロセスに天と地ほどの差が生じてしまいます。 前回(第91回)のブログを…
「纒向のクニ」を起点に、大和盆地東南部の「おおやまと」全域に勢力を拡大した「ヤマト国」は、3世紀末頃から、盆地北部の有力集団との連携に動き出します。 「ふる」地域集団との同盟関係 「おおやまと」地域のすぐ北は、石上神宮(いそのかみ)のある「…
今回から数回に分けて、纒向に発祥した中小土着勢力による連合体(纒向のクニ)が 大和盆地内で最大勢力の「ヤマト国」になり、その後、周辺へ、そして広域へと影響力を拡大して、ついには「ヤマト王権」にまで成長していくプロセスについて詳述します(第45…
ヤマト国の本格的勢力拡大は4世紀後半以降 大和朝廷が、古墳時代の初期(3世紀~4世紀前半)に日本列島の広域を支配していたという通説は成立しないし、大和地域が当初から突出していたわけでもありません。 河川や山などの障壁を突破できる交通路が貧弱…
「古墳時代」という時代区分と名称そのものには、いろいろと問題が多いと筆者は考えます。 多くの考古学者は、3、4世紀の古代を説明する際に「古墳のありよう」に集中し過ぎです。これまでの考古学が生き生きとした古代史に結びつかない主要な原因が、古墳…
初めての巨大古墳とされる箸墓古墳の存在は、初期ヤマト国の勢力を物語る象徴的な存在です。前方後円墳祭祀は、三方向交通路(第86回ブログ)の要の位置にあった纒向ならではの発明です。 考古学界主流の論調では、弥生時代の畿内や大和盆地には、先進的祭祀…
なぜ大和盆地が、なかでも纒向の地(それに続く続くヤマト国)が広域的な地域関係の中心として大きく飛躍する起点になったのでしょうか。 地勢面に関しては、次の3項が飛躍の要因になったと考えられます。1. 広大な平地の存在2. 海・川・湖を結ぶ多方面…
第70回から75回のブログで、邪馬台国がヤマト国に連続しないことを確認しました。よって纒向集落はヤマト国(ヤマト王権の初期状態)の前段階のクニの姿と位置づけられそうです。 考古遺跡・遺物の存在から、(仮に崇神が3世紀末に実在したとすれば)崇神以…
3世紀の大和盆地に邪馬台国の存在を思わせるものは皆無 第82回ブログで言及した通り、近畿の主要な遺跡を確認してみると、やはり邪馬台国近畿説は否定せざるを得ません。中でも大和盆地の唐古鍵や纒向には邪馬台国につながるような証拠(3世紀半ば頃までの…
当ブログは、この先、「ヤマト王権の発祥と成長」について筆を進めていくことになりますが、その前に明確にしておきたい点を2つばかり述べておきます。 古代国家成立プロセスに関する2つの捉え方 3世紀から6世紀末にかけての古代国家成立プロセスに関し…
第60回ブログで確認したように、最近の学説では、日本の水田稲作の開始時期は紀元前10世紀頃まで早まり、水田稲作は列島各地にゆっくりと拡散し、東北北部には紀元前4世紀、関東南部には紀元前3世紀に到達したと考えられています。 大阪湾沿岸、大和盆地、…
神武が実在した人物でないことは、これまで度々論じてきました。 しかし、『記・紀』の編纂時点では神武が日本の始祖とされていた、これは疑いようのない事実です。また7世紀後半に、畝傍山の周辺に初代神武の宮がおかれ、陵が築造されていたのは間違いあり…
大和の先住者は出雲の勢力? 奈良盆地の東南部に位置する纏向地域では、高度な建物群遺跡が発掘されています。崇神・垂仁・景行という三代の天皇(三輪山三代)の拠点と考えるのが常識的ですが、大型建物の造りは出雲系の特色を残しており、古代出雲と政治的…
神武東征物語は虚構とは思うものの、1~2世紀頃に大和へ軍事進攻する場合、どのようなルートが現実的だったのか検討してみます。古代史としてはお遊び程度に過ぎませんが……。 熊野からの大和入りは可能だったのだろうか はたして2世紀前半頃に、神武一行…
神武東征はフィクションなので古代史研究の対象外ですが、それでも7、8世紀の政権中央が神武東征の行程をどのように構想していたのか、子細に検討してみればいろいろと面白いことがわかります。 神武東征の出発地は九州北部かも? 日向から難波までの行程…
邪馬台国の存在は信じても、神武東征を史実とみなす研究者はさすがに少ないようです。 筆者も神武東征物語や神武天皇の実在をベースとした古代史には与しません(第76回ブログ)。 それでもこの物語を無碍に扱わずに紐解いてみれば、さまざまな発見があって…
ヤマト王権誕生に言及する手始めとして、「神武天皇」を取りあげてみます。 神武は『記・紀』では、「神々の世界」と「人の世界」をつなぐ位置に存在する人物です。 大東亜戦争敗戦前には、神武は建国の英雄として崇められていたことは誰しもが知るところで…
邪馬台国については、九州北部から東遷してきて大和の地に定着したとか、最初から大和の地にあったとも言われています。いずれの場合も大和の旧勢力を倒した後は、新たな祭祀を軸に大和政権につながったと。 その根拠としてよく取り上げられるのが、3世紀前…
考古学界では、三角縁神獣鏡に関する次のような説が根強く語られてきました。 畿内で集中的に出土した三角縁神獣鏡は、卑弥呼が魏から下賜された銅鏡100枚に違いない。したがって邪馬台国は畿内にあったに違いない……と。 しかし近年、三角縁神獣鏡は下賜され…
第71回ブログで言及した「古代シナ人の世界観」からすれば、『魏志倭人伝』に記された邪馬台国までの距離や方角にとらわれることは、全く意味のないことになってしまうのですが……。 そうは言っても、(距離や方角の記事以外で)所在地の推定に有効と思われる…
「倭国大乱」はどの程度の規模だったのだろうか。これについては諸説あり、見解が分かれています。 九州の吉野ヶ里遺跡をはじめ複数の弥生遺跡からは、矢じりが刺さったままの人骨や首から上が無い人骨の入った甕棺が発掘されており、山陰の青谷上寺地遺跡で…
前回、邪馬台国の所在地の謎を解明するには、『魏志倭人伝』が書かれた当時のシナの地理観・世界観・天下観を確認してみる必要性に触れました。 筆者は、邪馬台国の所在地を検討する場合は、これから述べる内容を一丁目一番地として、すべての研究者が共有す…