理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

2022-01-01から1年間の記事一覧

127 馬見古墳群

<ブナ林> 今回は謎の多い馬見古墳群について概括します。第121回・124回ブログでも少々触れてはきましたが……。 馬見古墳群の立地 馬見古墳群は、4~5世紀の葛城氏が支配する「狭義の葛城地域」の北方にあり、そこは第124回ブログで確認したように、葛下…

126 「かづらき」地域集団と葛城氏(3)

<高鴨神社の正面鳥居 一言主神社の乳銀杏> 前回・前々回のブログで確認したように、葛城氏の権力基盤は、交通インフラを掌握してヤマト王権の対外交渉を担ったことにあるわけですが、今ひとつはヤマト王権の王の外戚となったことにあります。 今回は外戚と…

125 「かづらき」地域集団と葛城氏(2)

大和盆地という内陸に拠点を置いた葛城氏にとって、瀬戸内海の自由往来が困難だった5世紀までは、日本海側に出ることや九州北部地域に到達することは重要な政治課題でした。 彼らは、地域勢力と連携して交通インフラ(水運・海運)をおさえることでこの障害…

124 「かづらき」地域集団と葛城氏(1)

第91回~95回のブログでは、「おおやまと」と「さき」の王権や、有力集団である「ふる」地域集団(物部氏の祖か)と「わに」地域集団(和珥氏の祖か)に言及しましたが、大和盆地南西部の勢力(「かづらき」地域集団)には触れずじまいでした。 今回は、南西…

123 5世紀のヤマト王権のかたちを『記・紀』から推理する(2) 

前回の続きです。5世紀の大王の政治拠点と陵墓について確認してみます。 5世紀の大王の政治拠点 筆者は、応神・仁徳の頃までの『記・紀』の記述に疑義を呈してきましたが、仁徳の3人の息子と孫の記事にはある程度の信憑性があると考えられる(前回ブログ…

122 5世紀のヤマト王権のかたちを『記・紀』から推理する(1)

<薬香草園> 神武の伝承は、全体としては後世に造作されたものです。大伴氏や物部氏、倭氏らがみずからの祖先の功績を顕彰するために、神武東征の物語が整えられ、『記・紀』編纂の際に採録されたということは、今までのブログで述べました(第81回ブログな…

121 大王墓から5世紀のヤマト王権のかたちを推理する!

<薬香草園> 第118回ブログでは、「倭の五王」を『記・紀』の大王に比定することがいかに困難か確認しました。その「五王」による王権は、実は唯一の「王の中の王」ではなく、「複数の王」によって構成されていたのかもしれません。 今回は第90回・101回ブ…

120 古市古墳群と百舌鳥古墳群

<田野倉の棚田> 河内平野の変遷については、第78回ブログで神武東征を論じる時に言及しました。5世紀頃までの河内には、大阪湾から切り離された河内湖がまだ存在していましたね。 河内は上町台地を除いては概して低地で、河内湖に向けて、北東から淀川・…

119 5世紀の日本を紐解くにあたり……

「5世紀の日本」を紐解くに当たって、まずは今までのブログで確認できたこと、今後言及したいことについて列挙してみます。 〇 4世紀半ばに、ヤマト王権は「おおやまと」地域から「さき」地域へ重心を移し、「ふる」「わに」の勢力を前面に立てて金官伽耶…

118 「倭の五王」は誰のこと?

3回にわたって古代朝鮮半島の状況を確認してきましたが、三韓やシナの史料には「倭」「倭王」という言葉が頻出します。 筆者は「倭」という言葉が嫌いなので、「日本」「日本列島」「九州北部」「ヤマト王権」などと適宜置き換えています。そして海外の史書…

117 5世紀までの朝鮮半島、日本との通交・対峙(3)

前回からの続きです。 栄山江流域の前方後円墳 朝鮮半島南西部の栄山江流域(えいさんこう)には、日本の古墳と酷似する前方後円墳が13基確認されています。これらの前方後円墳は突然出現して、急速に姿を消しています。5世紀後半から6世紀前半に成立した…

116 5世紀までの朝鮮半島、日本との通交・対峙(2)

前回ブログの続きです。 高句麗・三韓の合従連衡 391年に高句麗では広開土王(好太王とも、在位391~412年)が即位し、百済に占領(371年)された領土の回復を図り、396年には漢江以北の地を奪回します。そこに至る高句麗変貌の歴史を確認してみます。 4世…

115 5世紀までの朝鮮半島、日本との通交・対峙(1)

第97回ブログで朝鮮半島の古代史を概括しました。 また、4世紀における日本と百済・伽耶の関係については第111回ブログでやや詳しく言及しました。しかし、それでもまだ足りません。 今後、5、6世紀までの日本の古代史に触れるには、遠交近攻が渦巻く朝鮮…

114 謎の4世紀 ヤマト王権 vs 九州王権

4世紀と言えば、古代天皇の在位(第19回ブログに準拠)でみれば垂仁から応神までに相当しますよね。 この間、『記・紀』では、景行の西征、ヤマトタケルの征討、朝鮮出兵、応神による政権奪取などが記されていますが、どうして「謎の4世紀」と呼ばれるので…

113 トンデモ古代史

今まで、4世紀の遠征物語は虚構(第98回ブログ)などと述べてきましたが、過去の事象が書かれた文献を調べる時は慎重であるべきとつくづく思います。 過去の人が、さらに過去の事象を記録した文献には、過去の人の歴史感覚や価値観にマッチしたものだけが反…

112 神功皇后の三韓征伐について

神功皇后伝説が生まれたバックグラウンド 第98回ブログでは、神功皇后の三韓征伐を虚構であると断じました。4世紀半ばという時期に着目すれば、まだメジャーになっていない敦賀から出発する不自然さや、準構造船(第54・55回ブログ)が存在しないのに三韓征…

111 4世紀における列島各地の政治勢力(その2) 

前回の続きです。 吉備地域 古代、吉備の穴海が存在した吉備地域は、地政学的に陸上・海上交通の要の位置にありました。このため、紀元前から人が集住し独自の文化を築いてきました。 水田稲作の開始(第60回ブログ)は、九州北部が最も早く紀元前10世紀頃で…

110 4世紀における列島各地の政治勢力

前回のブログに関連しますが、4世紀におけるヤマトタケルの全国制覇が虚構ならば、この時期の列島各地は、実際にどんな状況だったのか、今回はその真の姿を確認してみようと考えました。 第100回ブログの最後に、「3、4世紀の列島全体を見渡すと、今なお…

109 ヤマトタケルの全国制覇物語

第98回ブログで少し触れましたが、改めて4世紀頃に全国制覇したとされる「ヤマトタケル伝承」について掘り下げてみたいと思います。

108 特殊壺・特殊器台から円筒埴輪、形象埴輪へ

前回のブログで埴輪の起源に触れましたが、折角なのでもう少し掘り下げてみます。 論考の重点を「古代の交通インフラ」に置いている筆者にとって、もっとも身近な埴輪は舟形埴輪です。第54回ブログの中で、二股構造形式の準構造船埴輪(高廻り2号古墳出土)…

107 古墳の築造技術

第87回ブログでは「古墳造営キャンプ」について言及しました。そして大仙陵古墳は、当時の技術で直接労働力3千人を16年間にわたって投入して完成させたこと、しかもこの集団に食住を提供する「後備え」まで含めれば5~6千人になることも確認しました。ピ…

106 ブログの連載を始めてから3年経過!

はや3年! 当ブログが「開設にあたって」と題して連載を始めたのが2019年3月28日なので、間もなく3年になります。 この間、105回の連載をし、拙い文章の羅列にもかかわらず、毎回、少なからざる読者がアクセスして下さっていることに感謝しております。こ…

105 なぜ前方後円墳は『記・紀』に描かれていないのか

かなり以前のことになりますが、第75回ブログで『記・紀』には銅鐸のことが全く書かれていないと記しました。不思議なことに、それより時代がかなり下るのに、巨大前方後円墳に関する事柄も『記・紀』には描かれていません。さて? ヤマト王権をはじめ各地の…

104 巨大化する前方後円墳の謎

第87回・90回・95回ブログで、大和盆地の巨大古墳について確認しましたが、4世紀末から5世紀末にかけては河内平野でさらに巨大な古墳群が築造されます。 今回は河内地域も含め、古墳が巨大化した謎に迫ってみます。

103 もっと光をあてたい前方後方墳

第91回ブログで、布留遺跡には日本最大の前方後方墳「西山古墳」があると記しました。ヤマト王権のお膝元で、しかも大王家と最も親密に連携して一心同体であるかのような「ふる」地域の勢力(物部の前身集団)が前方後方墳を築造する摩訶不思議。

102 ヤマト王権の河内進出

大和盆地北部にあった王権(当ブログでは大和盆地東南部の初期王権は4世紀半ば過ぎまでに衰退したものと考える)は、4世紀末頃から河内平野に進出したようです。 まず、それまでの河内平野の変遷をさらってみたいと思います。 河内平野の推移 河内平野(大…

101 複数の王が並立したヤマト王権

令和4年が明けました。 昨年後半は、4世紀の古代史の中から、主として「ヤマト王権の勢力伸張プロセス」について確認してきました。本年末には雄略の時代まで進みたいものです。 さて、年初の試みとして今回は、もやもやとしている王権継承の実態について…