2023-01-01から1年間の記事一覧
<クレマチスの丘(静岡)> 第135回ブログで言及した隅田八幡神社(すだはちまん、859年創建)所蔵の人物画像鏡について深掘りしてみます。 隅田八幡神社の人物画像鏡は、青銅製で径19.9センチ。正確な出土年代や出土地は定かでないが、古代史を検討する際…
第124回~127回ブログで「葛城氏の盛衰」について確認しましたが、ヤマト王権との確執については中途半端のままでした。しかも「吉備勢力の弱体化(第133回ブログ)」と相前後してしまったので、改めて「ヤマト王権の内部対立と葛城勢力の衰退」について言及…
<満開の桜(紀三井寺)> 10年ほど前に読んだ森浩一著『敗者の古代史』が本棚の奥から出てきた。懐かしさでパラパラとめくってみたら、このところ論じている4、5世紀の王権にまつわる敗者の物語なので、これは捨ておけないと思った。 そこで今回は、同書…
<上田城の桜> 雄略大王のイメージ 雄略のイメージは、ひと言で言えば、カリスマ性と暴虐さを併せ持つ気性の激しい大王だったということでしょう。 権力を握るまでの血塗られた蛮行(か?)には、常人には推し量りがたい残忍、冷酷な面が見られます。 でも…
<北信濃の春> 5世紀半ばまでに先進的な生産基盤を築き、3つの巨大古墳を築造した吉備の王は、5世紀後半には没落してしまいますが、その経緯を紐解いてみます。 まず、該当する『日本書紀』の記事を確認してみます。 『日本書紀』にみるヤマト王権(雄略…
<偕楽園の梅> 吉備地域は、3世紀頃から5世紀にかけて、政治的にも文化的にもヤマト王権(ヤマト国)に対峙する勢力圏を形成していました。もちろん、それ以前からの蓄積があったからです。例えば水田稲作の開始時期です。 岡山市の旭川右岸に広がる津島…
<大神神社拝殿> 前々回から2回にわたって、河内平野を主体とした技術革新について言及したので、5世紀のヤマト王権の本拠地は河内の難波であったかのようにも思えてしまいます。 ヤマト王権は河内平野へ進出したことによって、産業基盤を強化し、瀬戸内…
<真山神社> 5世紀には様々な分野で技術革新がありました。 そのうち前回までに、古墳築造や池溝開発などの大規模土木工事に言及したので、今回は産業・手工業面での技術革新について確認したいと思います。 ここでは、窯業生産(須恵器、埴輪)、鍛冶生産…
<入道崎灯台と北緯40度モニュメント> 今回は、第102回ブログで予告した「河内平野における土木工事」について言及します。ヤマト王権が主導した「5世紀の技術革新」のなかでも代表的な事績と言えるでしょう。 もっともベーシックな土木技術 巨大古墳をは…
<柊家旅館> ここまで何回かにわたって「5世紀のヤマト王権のかたち」に言及してきましたが、錯綜し煩雑なブログの連続となってしまいました。 新年を機に、ここで一旦まとめてみます。