理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前後から6世紀頃までの古代史を再考する!

7 ブログを始めた動機

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 先日、当ブログに関し知人から声がかかりました。えらいことを始めたね、何でまた、と……。
 実際に他人の目に留まったかと思うと、初回の宣言(2019年3月28日)が格好良すぎて気恥ずかしい......。その時にブログの趣旨は記したので、今回は、執筆に到った些末な動機について、整理してみました。備忘のためです。

 

 実は、1年半以上前に古代史本を出版しました。気負っていて、書きたいことが一杯あったのに、紙面の制約から原稿の相当部分を割愛して上梓。
 おまけに、ひとつの書籍として起承転結の形に纏めあげることに注力し過ぎ、詰めの甘いところを多々残したままでした。
 悔いることしきりで、今でも不完全燃焼の作品に欲求不満が残っています。

  紙面の制約には理由があります。
 ある自動出版システムを利用してPOD出版したのですが、出版費用がほとんどかからない反面、書籍の定価は1ページ10円と決められていました。圧縮に圧縮を重ねても266ページになり、紙書籍の定価は恐ろしく高くなりました。当然売れ行きははかばかしくありません。
 それに対し、電子書籍の価格は著者に決定権があるため、超低価格に設定でき、毎月コンスタントに売れています。読者がつき、まずまずの反響もいただき満足感を覚えますが、いよいよ不完全燃焼の作品が悔やまれるのです。

 

 脱稿後、足らざるところをきちんと詰めること、あらためて理系の視点から古代史を見つめなおすこと、の2つを自身に課しました。
 と、書くと大げさですが、正直なところは、日常に埋没しないための自分なりのちょっとした抵抗でもあり、単に探究することが趣味でもあるのです

 そして、以前に割愛した分も含め、その後の研究成果もかなり蓄積できたので、自身の研究の備忘録として、ブログを綴ることにしたのです。

 

 つくづく思うのは、筆者のような在野の研究者は、原典や遺跡・遺物という一次資料に接する機会がなく、勢い、先学が分析・評価し論考した膨大な二次資料に頼ることになります。
 それを補完する意味で筆者が大切にしたのは、みずからの目で自然の姿・遺跡・神社を眺め、つまり臨場感を養い、加えて多くの文献を読み、周辺情報や判断基準を蓄積しておくことでした。
 その上で、自分自身の判断基準、すなわち「理系の視点」で、二次資料を取捨選択し再編成するのです。


 学界の人たちは自らの専門領域に閉じこもり、また今までの蓄積に縛られがちで、自由な論考ができない傾向が見られます。それに対し、筆者のような在野の研究者の強み、多くの研究者の論考から自分のストーリーを補強できる部分だけを借用し、自由に組み合わせ発展させることができることです。全体的には賛成しかねる研究者であっても、ほとんどすべてが批判対象の論考であっても、首肯できる部分については取り込むことにしています。

 自らの判断基準に確信が持てれば、ブログを綴るエネルギーも途切れることはありません。

 何よりも、書籍の出版と違って、ブログは徒然なるままに、気の向いた時に思いついたことを執筆できるという、きわめて健康的な行為です。しかも紙面の制約なしにいくらでも書き進められます。

 一つの大きなテーマを設定して、体力気力が続く限り研究を続け、深掘りしていくことは、誰のためでもない、自分自身のためと思っています。毎日、書きたいことを見つけ、一心に考えることはまさに脳トレそのもの。

 

 自分自身のためが第一義ですが、公開することで、ひと様に読まれる可能性があることを意識すると、いい加減な纏めはできません。常に緊張感をもって綴る必要に迫られ、それがまた大きな刺激にもなります。
 その結果として、誰かしらの目に留まり、何らかの影響があると思うと喜びが倍増!理系の視点が古代史を紐解く新たな方向として認知されれば嬉しいなあ。この好循環がブログ執筆の大きな利点ではないでしょうか。

 とは言うものの、当ブログは意見交換や交流を目的としないので、読者からのコメントは受けつけていません。賛否両論や中傷にいちいち反応することは本意ではなく、やはり、あくまでも自身の研究の備忘録なのです。