理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前後から6世紀頃までの古代史を再考する!

10 漢委奴国王印をめぐる諸説

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 前回記した「漢字伝来」の補足になりますが、西暦57年の漢委奴国王印(金印)について若干言及します。

 この金印は、封泥のためのもの、駅鈴のような権威を表すものなどの諸説があり、奴国王が後漢の皇帝からもらったものとされています。

 1784年、博多から程近い志賀島で発見されました。弥生遺跡とは無関係に、しかも田畑のなか、あたかも石で囲われたような不自然な格好で……。ちょっと不思議。
 当然、議論は沸騰しました。奴国の存在が証明された、紀元前後には文字を読める人がいた、と。

 ここから、話が少しそれるのですが、金印は贋作だという説がにわかに湧きおこっています。贋作だとすると、紀元後、間もない時期に文字が日本に伝わった証拠にはなりません。

  正確に言うと、贋作説は昔からありましたが、最近は科学的な考証が加えられて、いよいよ贋作の可能性が高まってきているのです。いろいろな説が真贋の双方から出されていますが、どうも字の彫り方が決め手になるようです。

 「線彫り」は、下書きの文字線を一回の鏨の動きで一気に彫るのに対して「さらい彫り」は、先に文字の輪郭を彫ってから、中を数回に分けてさらうようにして彫ります。金印の文字の彫痕の特徴(さらい彫り)は、古代シナで作られた印綬(線彫り)とは異なるという鑑定が出て、金印は贋作だという説がやや優勢になっているようです。

 さらに、江戸時代後期に黒田藩の儒学者(亀井南冥)が、10世紀頃から連綿と続くシナの偽造集団に作らせたのではないかという見立てもあります。

 

 第一、志賀島からは金印以外の歴史的遺構が何も出土しておらず、志賀島からの出土自体がいたって不自然です。
 志賀島が属した奴国で、金印を下賜された時の奴国王墓が発見されていないのも、迫力に欠けますね。そこで話はさらにそれますが、次のような見立ても生まれます。

  この金印の文言は、委奴国(わのなのくに)と読まずに委奴国(いとこく)と読むべきという研究者もいます。
 古代シナの印は通常、宗主国名+国名+官号 で表現されるので、
宗主国(漢)+民族名(委)+国名(奴国)+官号(王)という表記はなく、
宗主国(漢)+国名(委奴国)+官号(王)と読まれるべきというわけです。
 そうなると、この金印が真印だったとしても、当時の伊都国王が受け取ったことになり、謎は尽きません。

 

 志賀島で発見されたという金印は、『後漢書』に記された印綬に相当するという思い込みだけが頼りであって、冷静になって検討してみると真贋はハッキリしないのです。
 筆者にはもちろん真贋の判定はできませんが、さまざまな鑑定結果を見ていると、贋作の方に賭けたい気持になってきます。