理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前後から6世紀頃までの古代史を再考する!

12 神武東征と天孫降臨神話

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 前回のブログで、政権中央によって新しく創作された建国神話は、地方の神話、民衆の神話が持つ「神話力」を利用しながら作られた述べました。
 誰も知らない神々ばかりが活躍する神話ではなく、民衆が伝承してきたよく知られた神話や、各氏族に伝わる神話を用い、そこに新しい意味や主張を乗せながら国家の由来を説く建国神話に仕立て上げたのです。

 今回は、建国神話の根幹を成す神武東征と天孫降臨の二つを題材に、このことを深掘りしてみましょう。
 神武東征は神武天皇、天孫降臨はニニギノミコトが主役であって、いずれも天皇家に固有の伝承に見えます。しかし、実は「東征」も「天からの降臨」も、天皇家だけの特別な伝承ではなかったのです。

 

 若井敏明氏の『「神話」から読み直す古代天皇史』は、大変に興味深く面白い古代史です。同書は『記・紀』の記述を是として読み解き、古代の復元をめざすものなので、半分くらいは筆者と見解が異なるのですが、若井氏の真っ直ぐな取り組み姿勢には共感します。今回は、同書をヒントにして、神武東征と天孫降臨について記してみます。

 

神武東征と九州からの諸氏族移動伝承
 神武東征の伝説形成論の根底には、神武東征が皇室の由来を説く非常に特殊な伝説であるという思い込みがあるようです。
 しかし、そもそも大和政権は、その初期は奈良盆地の小勢力だったのであって、神武東征と叫んでみても、建国などとは程遠く、九州からやって来た小集団、ないしはファミリーが奈良盆地の一角に住み着いたという程度のことにすぎないのです。
 そのように考えてみると、大和政権の祖先だけでなく、九州を起源とする伝承をもつ氏族が他にも数多く見られることに気づきます。

 まずは、アメノヒボコを始祖とする但馬の豪族です。若井氏によれば、但馬に到った勢力と九州の伊都県主一族は、アメノヒボコという共通の祖先を持ち、但馬に定住した勢力は伊都国王一族から分かれた可能性があるので、彼らは渡来して九州に定着した集団を祖とする可能性が高いようです。

 ニギハヤヒを祭る物部氏、ヤタガラス(賀茂建角身命)を始祖とする山城の鴨(賀茂)氏、日前神を祭る紀直氏にも、それぞれ九州起源を物語る伝承があります。
 九州を出自とする集団はこれらだけではなく、他にもたくさんあったことでしょう。したがって、大和政権も単にこれらの集団と同じような出自伝承を持っていたということです。
 それが大和政権に固有のものとして後世に作られたものなら、同じような出自伝承を他の豪族が持っているはずがありませんし、またそのような伝承を形成することが許されたとはとても思えないわけです。
 神武東征は、九州勢力の列島東部への移住という大きな動向のなかの一環として捉えることが出来ます。
 7、8世紀の大和政権は、各豪族が持つ伝承をうまく織り込みながら『記・紀』という形の王権神話を作り上げたと言えるでしょう。


天孫降臨と諸氏族に伝わる降臨
 天孫降臨は、ご存知の通り、アマテラスの孫のニニギが日向の山岳地帯に降臨するという神話です。これは、一般的には皇室が地上に君臨する由来を説いたものとされていますが、実は神が降臨して地上の支配者になるという伝承は、皇室に限ったことではありません。

 神武東征の中で、神武が大和の地に到った時に、土着の豪族ナガスネヒコが、「妹の夫であるニギハヤヒも天から降りてきた」と語る場面があります。『記・紀』は、神武自身がニギハヤヒの降臨を認めたように描いており、このことはつまり7、8世紀の政権がニギハヤヒの降臨を公式に認知していたということになります。

 イザナキ・イザナミのおのごろ島への降下は、元は淡路島の海民の間で伝承されてきたローカル神話です。
 出雲のホヒノミコトの降臨は、もともとは出雲の始祖神の降臨神話でした。
『出雲国風土記』には大国魂命、天津子命などたくさんの神の降臨神話が載っています。さらに『常陸国風土記』にもフツノオオカミ、香島天大神などの降臨神話が載っています。
 各地の風土記が残っていれば、このような例はたくさん見られたのではないでしょうか。
 アメノヒボコもヤタガラスも山岳地帯への降臨神話を持っています。


 さらに、ニニギの天孫降臨神話に随伴して降臨する神に、アメノコヤネ(中臣氏の祖神)、フトタマ(忌部氏の祖神)などの五伴緒神もいます。

 このように見れば、天から降臨する説話は、九州からの移動伝承と同じように、当時、各地の豪族の間でかなり普遍的な神話だった可能性が高いのです。

 

6、7世紀に流布した普遍的な伝承
 なぜ、このような伝承が、6、7世紀頃の畿内の豪族たちの間で流行したのでしょうか。騎馬民族系の神話が影響した可能性もありますが、これについてはいずれ当ブログでも言及することにします。

 弥生時代というはるか昔に、シナや朝鮮半島に近く、文明の先進地といえる九州北部に降りたった祖先が、日の昇る東の方向へ移動しフロンティアを切り開いた、というアッピール効果の大きい伝承を豪族たちが大切にしたからとも言えるでしょう。
 どこが本貫地であるかに関係なく、そういう伝承が流行していたのでしょう。その中の一つが天孫降臨や神武東征(出発地の日向が後進地の九州南部では具合が悪い)なのであって、天皇家に固有の神聖なものではなかったわけです。

 大和政権によって新しく創作された建国神話は、地方豪族が語り継いできた伝承が持つ「神話力」を取り込みながら作られたということですね。


 ただし、弥生時代にそれら豪族の祖先が大挙して日本列島を東征・東遷・東行する物語は、未発達の交通路に照らし合わせれば、とても古代史とは言えず、珍説・奇説に過ぎません。これは、「古代の技術と交通インフラから古代史を再考する」当ブログの核心部分なので、いずれ詳述することにします。

 いや、大挙ではなく、数人から十数人のファミリーが代々つないで尺取虫のように少しずつ移動してきたというのであれば、豪族たちの祖先に限らず、日本列島に住むすべての人の祖先も、そうやってどこからか移動してきて現在地に住んでいるわけです。何も豪族たちの祖先に固有の現象でもないわけです。

 

各豪族の神話は天孫降臨神話の一部分に過ぎないのだろうか?
 以上に対して、『もうひとつの天孫降臨』を執筆した飯田勇氏は、次のように述べています。


 <「降臨神話」に氏族の祖神が登場するのは、氏族の側から見れば、天皇家の権威を恃み、天皇家との神話関係を根拠として、宮廷における自氏の地位を高めようとする戦略である。すなわち、氏族は天皇家の権威にすがって自家の地位を高めようとしているのであり、この神話は、いかなる意味でも、天皇家よりおのが氏族が優位であることを主張する、氏族(豪族)の伝承ではあり得ない。>

 <「降臨神話」は、天皇家と氏族の関係が問題になる国家神話の段階に成立するのであり、その意味で、国家神話以前に氏族伝承としては存在し得ないのである。>

 果たしてこういう見方もできるのでしょうか。

 

 日本の古代史を考えるときの文献史料として、情報量が少ない『魏志倭人伝』に惑わされることなく、まずは日本側の文献を用いるべきと思いますが、今までそれは信用度が低いとして軽く見られてきました。
 しかも、その穴を埋めてきたはずの考古学が語る古代史は、『記・紀』の内容とかけ離れたものとなっています。
 『記・紀』のような文献を駆使せず、考古学に頼るだけでは正確な政治過程は復元できないでしょう。まずは『記・紀』の内容を忠実に分析してみるという姿勢が大切だと若井氏は語っており、筆者も大賛成です。


 参考までに、同書の中で筆者が気に入ったフレーズを若干アレンジして以下に記しておきます。


 <纏向遺跡は邪馬台国との関連で論じられたり、報道されることが多いが、じつは崇神天皇の時代の王宮らしいというのが大切なのである>

 <記紀の記述を踏まえ、中央から王族などが地方に征服者として臨んでいた場合が多かったと思っているが、そうするとヤマト政権は首長連合政権などではなく、かなり好戦的かつ専制的な政権となるだろう。つまり記紀を史料として採用するか否かは、ヤマト政権の性格をどうとらえるかという重要な問題と絡んでくるのである>

 

参考文献
『「神話」から読み直す古代天皇史」』若井敏明
「もうひとつの天孫降臨」『古代史研究の最前線 古事記』飯田勇