理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

13 神話が歴史をつくる!

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 江戸時代末期から大東亜戦争までは、特異な眼差しで古代史に向きあった時代でした。
 周知のように、天孫降臨や神武東征はもちろんのこと、『記・紀』に記載された多くの神話や伝説も、歴史的事実として政治利用されたからです。
 昭和の初期には、神武東征ルート上の各地を聖跡であるとし、その場所がどこであるかを特定するため、「聖跡探し」が盛んに行われました。古代史の研究エネルギーの大半がそこに投入されたのです。科学的根拠のない「後づけ」ですよ!

 これほどの国家的企みは有史以来存在しなかったでしょう。

  記紀神話は、神道の教典、天皇神格化のための政治の書として、万世一系の皇国史観に利用されたのです。神話が、忌むべき昭和の歴史をつくってしまったわけです。
 戦後は振り子が極端に逆に振れ、『記・紀』は見向きされなくなり、文献史学の面からの古代史研究は軽んじられてしまいました。その延長線上にあると言うべきか、教科書の古代史は無味乾燥と化し、その穴を埋めるかのように邪馬台国ブームが起こり、考古学が古代史学界をリードするようになったのです。 

 実は、はるか昔から、記紀神話は時の政治勢力の攻防にも利用されてきました。
 神話は所詮、神話に過ぎないと考えるのは、現代に生きる私たちの考えですが、古代人にとって神話は現実の世界に大きな影響力を持っていました、否、現実を生き抜くための理屈づけにもなったのです。

 

 少し長くなりますが、松前健氏の論考から引用してみます。

 <古代人は、神々の物語としての神話は、「真実のもの」であるとして信じていたし、またこれが彼らの生活・行為の規範であるとも考えていた。したがって、戦争、領土争い、裁判などにおいて、ことあるごとに神話が引き合いに出され、その故実に照らして、判定がなされた。日本でも、大同元年(806)、中臣氏と斎部氏の勢力争いに、朝廷の判決の拠りどころが、『日本書紀』の神代巻であったことや、高橋氏と安曇氏とが、奉膳の順序を争った時、裁決の資料として『日本書紀』の六雁の神話が用いられたことなど、これを示している。(中略)もちろん、これは、神話が実際の歴史的事実であったということを意味しない。神話は「歴史的事実」ではなくして、「信仰的事実」として、古代社会や未開社会に、機能を働かせたのである。(中略)このような「神話の真実性」に対する信仰は、単にこれを聴く民衆側ばかりではない。これを生み出した為政者側でも、同様に有していた。ある王朝や豪族の出自を物語る、英雄の超自然的出生譚などは、当の英雄やその子孫の貴族たち自身が自らも信じていたらしいふしぶしがある。つまり彼ら自らも「神話的思惟」の持主なのであった。>

 

 律令体制が作られ『日本書記』が成立した後の、8世紀末から9世紀にかけて、国家の神話と各氏族が直面した現状とのあいだに、埋めがたい溝が表面化します。そのため危機感を抱いた祭祀氏族は相次いで、自氏の固有の価値と由緒を織り込んだ「名誉回復の歴史」をまとめるようになりました。

 

 〇 斎部氏(忌部氏)の『古語拾遺』807年編纂
 〇高橋氏(膳氏)の『高橋氏文(たかはしのうじぶみ)』789年編纂
 〇卜部氏の『新撰亀相記』830年編纂
 〇 物部氏の『先代旧事本紀』平安時代編纂
 〇津守氏の『住吉大社神代記』10世紀末編纂
などが知られています。

 

 物部氏による『先代旧事本紀』は偽書ともされていますが、興味深く捨ておけない内容が描かれているので、いずれ詳しく言及したいと思います。
 今回は、先ほどの松前氏の論考から「中臣氏と忌部氏の確執」「安曇氏と高橋氏の確執」を取りあげ、経緯を掘り下げてみます。

 

中臣氏vs忌部氏
 忌部氏の祖神はアメノフトダマとされています。忌部氏は古来、天皇家と密着してきた名門の祭祀氏族でした。
 7世紀末から8世紀初めにかけて神祇祭祀は、祭祀氏族である中臣、忌部両氏が執り行っていました。
 律令制施行後、次第に忌部氏は没落し、中臣氏に権限が集中するようになっていきます。台頭した中臣氏が朝臣となったのに対し、忌部氏は宿祢の地位にとどまり、伊勢神宮幣帛使も中臣氏が専任となり、忌部氏は随行の立場に甘んじるようになったのです。

 幣帛使になれるか否かは、忌部氏にとって死活問題でした。


 『続日本紀』の735年には、
 <忌部宿祢虫名・鳥麻呂等が訴ふるに依りて、時々の記を申検して、忌部等を差して幣帛使と為すことを聴す>
とあり、忌部氏が直訴し幣帛使を許された様子が載っています。

 

 その後740年、749年、756年などに両氏揃って伊勢神宮に幣帛を奉献した旨の記載がありますが、この間、中臣は神祇大副(だいすけ)、忌部は少副(随行)の立場であり、確執が継続したのです。
 
 『続日本紀』757年には、
 <始めて制すらく、伊勢大神宮の幣帛使、今より以後、中臣朝臣を差せ。他姓の人を用うること得ざれ>
とあり、中臣による幣帛使専任制が決まってしまいました。その後も、忌部氏はたびたび抗議を続けます。

 

 806年、中臣氏の祖神アメノコヤネと、忌部氏の祖神アメノフトダマがともに祭祀を執り行っていたという『日本書紀』の神代の故事に従い、

 <奉幣の使いには両氏を取用ゐて、必ず相半ばを当つべし>

との裁定が下されました。
 要するに、忌部氏は幣帛使になれるという、神話に基づく裁定が下りたのです。

 翌807年に斎部広成によって、朝廷における忌部氏の扱いが不当に低いため、自らの役割の大きさを主張する『古語拾遺』が書かれましたが、806年の裁定が動機となったものかどうかは定かではありません。

 

高橋氏vs安曇氏
 神話によれば、景行天皇が、ヤマトタケルの東国平定の事績を偲んで安房の浮島宮に行幸したおり、磐鹿六雁命が、鰹と鮑をとって鱠にして献上したとされています。景行はこれを誉め、「膳職は末永く六雁命の子孫に任せる」と表明し、膳大伴部を賜りました。これは六雁神話として現在まで伝わっています。

 膳氏は、古代軍事氏族であった久米氏や大伴氏に帯同した伴造で、軍事氏族と食膳氏族の双方の顔を持っていました。

 代々、宮中の大膳職を継いできた膳氏は、684年11月、朝臣を賜姓されたのを機に、高橋に改名、皇室の膳職として活躍します。古来、神に供される御饌には海のものが供えられたので、海人系の氏族が重用されたのです。

 一方の安曇氏も、海人族として当然のように皇室の食膳に関わりを持つようになり、以後、天皇の奉膳(ぶうぜん)には、高橋、安曇の両氏が任用され、御食国(みけつくに)との関わりは高橋氏が志摩国と若狭国、安曇氏が淡路国および瀬戸内と色分けされます。

 

 768年、若狭国守に安曇氏がつくなど、その後の奉膳をめぐる両氏の確執は激化していきましたが、高橋氏は古代、天皇の膳夫として奉仕したのは第12代景行天皇の御代の六膳命であり、安曇氏が仕えた応神天皇の御代の大浜宿祢よりも古く、歴史の古い自氏が優位と主張しました(高橋氏文)。

 791年、新嘗祭の神事供奉の際、両氏は席次をめぐって争うなど、対立は激化。
 792年の太政官符で高橋氏を席次上位とする太政官令が出されました。両氏の始祖伝承によって皇室の裁定が下されたのです。

 安曇宿祢継成はこの裁定(太政官令)に従わなかったため、いったん死刑の宣告を受けたが、のちに特例を受け佐渡へ遠流の刑となりました。裁定以後、天皇家の食事は高橋氏が独占し、安曇氏は完全に失脚、中央政界から姿を消し没落してしまいました。

 

 663年の白村江の戦いで、唐・新羅連合軍に敗れた時の総大将が安曇連比羅夫であったため、安曇氏の勢力は既に衰えていましたが、792年の裁定によって一族の没落が決定的になってしまったのです。
 志賀島付近を根拠とした安曇氏は没落するも、既に一族は、海の民として広く列島各地に雄飛していたようです。信州の安曇野、滋賀県安曇川、三河の渥美、伊豆半島の熱海などにその名残が見られます。

 

 以上の二例は、古代の神話(実は7~8世紀初めに書かれた記紀神話)が、後の世(8~9世紀)の政治判断に影響を与えた格好の事例といえるでしょう。


参考文献
『古語拾遺』斎部広成撰 西宮一民校注
『日本の神々』松前健