理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前後から6世紀頃までの古代史を再考する!

15 伊勢神宮

f:id:SHIGEKISAITO:20190526125836j:plain  <伊勢神宮で放し飼いされている神鶏>

  アマテラスと言えば伊勢神宮というくらい、両者は密接なつながりがあります。今回は伊勢神宮の創建、由緒、歴史などについて掘り下げてみます。その前にちょっと……。

 御垣内参拝と御白石持行事
 筆者は今までに、2008年には旅行社のツアーで、2010年には御垣内参拝、2013年には式年遷宮の一環である御白石持行事参加と、合計3回、当社に参拝しました。
 不思議なことに、人出がどんなに多くても、3回とも静謐な空気を感じ、巨木が立ち並ぶ神域は森閑としていて、悠久の歴史を感じることができました。
 そのなかで強く印象に残った「御垣内参拝」と「御白石持行事」について感想を少々……。

 

 御正殿(伊勢神宮だけは本殿と言わずに正殿と言うようです)は内側から順に瑞垣・内玉垣・外玉垣・板垣と四重の御垣に囲まれています。

 「一般参拝」は、板垣を入り外玉垣南御門にかかる御幌の手前で参拝しますが、「御垣内参拝」は外玉垣の中まで入り、中重鳥居の手前で参拝することが出来ます。
 総理大臣であればもう少し前方の中重鳥居の際まで進めますし、皇族方であれば内玉垣の中まで進めるようですが、さすがに瑞垣の中には立ち入れません。
 天皇陛下だけが唯ひとり、瑞垣南御門を開き御正殿前まで進めるということです。宮司も滅多に足を踏み入れず、誰しも御正殿まで軽々に近づけないまさに聖域ということですね。
 そんな塩梅ですから、「御垣内参拝」をした際には、神に近づけたという大きな満足感を覚えました。

 

 式年遷宮行事の一環である「御白石持行事」は、宮川の河原から1年がかりで拾い集めたこぶし大の白い石を、新御敷地に敷きつめ奉献する行事です。
 御白石を奉献する際、板垣南御門から入り、中重鳥居、内玉垣南御門、瑞垣南御門と一直線に進み、御正殿前に達しました。一般人にとっては、御正殿前まで立ち入ることのできる貴重な機会です(もちろん、立ち入るのが主目的ではありません)。
 不思議なもので、御白石を御正殿前の御敷地に納め手を合わせた時は、身が引き締まる思いがしました。まだ神が遷座していないのに……。
 当日は晴、紺碧の空に一条の白雲がかかり、新装なった御正殿に光が当たり、ヒノキの素木が金色に輝いていたのが印象的。
 実際に参加してその場に身をおいてみないと、決して「御白石持行事」の良さはわからないでしょう。

 

 神話を信じようが信じまいが、神道に傾倒しようがしまいが、私たち日本人は、伊勢神宮のたたずまいと厳かな神事・行事に心からの感動を覚えてしまうのですね。

 

 参拝の体験談は以上で切り上げて、このあとはパワースポットとか、ご利益とか、あるいは当節の神社めぐりで流行っている部分はすべて端折って、歴史の側面から伊勢神宮の実像に迫ってみます。


伊勢神宮とは
 正式名は「神宮」または「大神宮」で、内宮(皇大神宮)と外宮(豊受大神宮)、そして別宮14社、摂社、末社まで含めれば、総計125社から構成される全体を、通称「伊勢神宮」と呼んでいます。
 伊勢神宮は神社の中の神社で、日本全体のピラミッドの頂点に立つわけですが、時代とともに規模は拡大し神域も整えられてきたようです。特に明治維新後の整備拡充には顕著なものがあります。

 

 中世までの伊勢神宮は、民衆を寄せつけない「天皇のための社」でした。このことは、804年(桓武天皇の時)につくられた朝廷への上申書『皇大神宮儀式帳』の中で、「私幣禁断の制」として定められています。個人的に参拝すると遠流に相当するとみなされたようです。その後、律令制度が崩壊すると、貴族や武士階級の参拝が可能になります。
 私たち民衆レベルに身近な存在になるのは近世以降のことです。

 

 「唯一神明造」の御正殿をはじめとする社殿は、建築家の高松伸氏が「何も足せない、何も引けない」という名言で絶賛したと言われています。また、ブルーノ・タウトは「日本固有文化の精髄であり、世界建築の王座」と評しました。

 社殿の素晴らしさだけでなく、広さも驚異的です。内宮・外宮の神域のほか、神路山・五十鈴川(内宮)、高倉山(外宮)などもすべて神宮に所属します。全体面積の9割以上を占める神宮林は総面積5450ヘクタールと、鎮座地・伊勢市の面積の約4分の1にも達します。

 

 祭神は内宮が最高神であり皇祖神でもあるアマテラス、外宮がアマテラスに食を供するトヨウケです。

 古代からの長い伝統を持ち神社の頂点に立つ伊勢神宮ですが、アマテラスを祭るようになったのは7世紀より前には遡ることなく、神域・社殿が現在のような形に整えられてきたのはさらに新しい時期なのです。
 


伊勢神宮の歴史
 大王家が、本拠地の大和から離れ、しかもそれまで深い関係でもなかった伊勢の地に先祖神を祭るのは妙です。伊勢でアマテラスを祭るようになった契機は何だったのでしょうか。

 壬申の乱(672年)の際、オオアマノオウジ(後の天武天皇)は伊勢北部を流れる朝開川のあたりで、南方の伊勢の神を遥拝して戦勝祈願をしました。壬申の乱に勝利した天武はこれに感謝して斎宮を伊勢に送り、それまで大和の地で祭っていた大神(太陽神オオヒルメムチか?)を伊勢の地に遷したという説が有力です。

 では、なぜ天武は伊勢に向かって遥拝したのでしょうか。
 伊勢は、大和盆地から比較的近く、太陽が海から昇る東の方角にあたります。伊勢から志摩にかけての沿岸地域には、度会氏(ルーツは海人族の磯部氏とも)による土着の太陽信仰がありました。伊勢には、太陽神アマテルを祭る地方神の社があったのです。
 7世紀以降の大王家は当地に格別の想いを抱いていたと考えられます。

 

 伊勢の社は、それまで度会氏が一手に奉仕していたのですが、天武は大神を伊勢に遷す際、中臣氏に近い荒木田氏を加えたため、荒木田、度会の両氏が祭祀を主導するようになります。
 このようにして、伊勢の太陽神アマテルがオオヒルメムチに合祀されて、最高神アマテラス(天照大神)が誕生したと考えられます。

 そこは、宮川の河口から40キロ遡った支流(大内山川)が流れる山間の地です。現在の「瀧原宮」のある場所で、度会(磯部)氏や荒木田氏の主導で祭祀が執り行われ、「多気大神宮」と呼ばれました。

 

 『続日本紀』文武天皇の時(698年)に、
 <多気大神宮を度会郡に遷す>
とあり、現在の内宮が鎮座する宇治の地に遷されたようです。
 そして、荒木田氏が内宮の祭祀の主導権を握ることになります。

 

 奈良時代はじめになると、土着の度会氏は山田の地でトヨウケ(豊受大神)を祭るようになり、これが後に外宮となりました。
 内宮と外宮は起源も性格もまったく異なります。外宮はもともとヤマト王権の大王家とは関係なく、度会氏の祖先神を祭る社だったのです。

 『皇大神宮儀式帳』と同じ804年に作られた『止由気宮儀式帳』には、雄略の在位中、アマテラスの望みによりトヨウケが鎮座したと記されています。
 大和から遷してきた大王の神アマテラスに対して、土着の神が食物供献という形の服従をすることで王権の祭祀体系に組み込まれます。これが、外宮のトヨウケが内宮のアマテラスに神饌を奉仕する形として現在に伝わっているのです。


 太陽神を祭る伊勢の社が、伊勢神宮として皇室の氏神社の地位に昇りつめたのは奈良時代初期前後であり、持統が伊勢に行幸した692年の時点では、最高神を祭る社として認識されていたことは確実と思われます。もっとも、正確に言うと持統は行幸はしたものの参拝はしていなかったようですが……。


 別宮は現在14社を数えますが、804年の『皇大神宮儀式帳』には別宮は5社と記されています。
 内宮の別宮としては荒祭宮、月読宮、瀧原宮、伊雑宮の4社、外宮の別宮は多賀宮の1社、合わせて5社だけが古代から存在した別宮です。その後、蒙古襲来や明治維新などを機に別宮は増加し、倭姫宮はなんと大正になってからつくらたものです。

 摂社、末社のレベルになると、中世にかけて衰微・退廃したものが、近世になってから、考証によって復興したものも数多く含まれます。


 古代史とは離れますが、意外なことに伊勢神宮にも神仏習合の時期がありました。天平年間に伊勢の神宮寺が造営されたようです。

『続日本紀』766年には、
<使いを遣はして、丈六の仏像を伊勢大神宮に造らしむ>
とあります。
 しかし897年に伊勢は「神郡」となり、いち早く伊勢大神と神宮寺を分離し、神仏習合を脱した歴史があります。

 

由緒とさまざまな伝承
 伊勢神宮の起源について、当社由緒書「御鎮座の歴史」の中で、「皇大神宮御鎮座の歴史は2000年前にさかのぼる」と紹介しています。額面通りだとすると創建は紀元前後になりますが、しかしこれはあり得ません。
 宗教や信仰の一環と考えれば、目角を立てることでもないのですが、これを歴史の事実と捉えてしまうと、おかしなことになります。念のため。

 

 伊勢神宮の起源については、いくつかの説があります。前項で述べた天武の時代の他に、『日本書紀』の記述などを根拠に垂仁の時代雄略の時代継体の時代とする説があります。

 

 『日本書紀』本文には、伊勢への鎮座を暗示する次のような説話が記載されています。
 <崇神は、天皇の大殿に祭っていたアマテラスとヤマトオオクニタマの二神(同床共殿)を、畏れ多いとして、アマテラスをトヨスキイリヒメに託して大和の笠縫邑に祭った。次の垂仁は、アマテラスをトヨスキイリヒメから離してヤマトヒメに託し、ヤマトヒメは鎮座地を求めて、宇陀、近江、美濃を巡幸して伊勢の地に到った。>

 804年の『皇大神宮儀式帳』には詳しい巡幸路が記され14ヶ所の比定地が示されています。
 しかし、この巡幸はもちろん歴史的事実ではありません。
 鏡を抱いて巡幸したという研究者もいますが、『日本書紀』本文のどこにもそんなことは書いてありません。


 鎌倉時代に外宮の度会氏が著した『倭姫命世記』では、トヨスキイリヒメとヤマトヒメの巡幸先はさらに数多く広域になります。紀伊、吉備から丹後まで27ヶ所を数える壮大なドラマに発展しています。

 アマテラスが巡幸の途中に立ち寄ったという伝承が元になり、「元伊勢」と称する神社が23か所あります。
 なかでも丹後国の一宮である「籠神社」の元伊勢伝承は有名で、同社には内宮と外宮双方の元宮であるという由緒が伝わっています。
 籠神社の奥宮がある真名井原には、神代の昔からトヨウケが鎮座していたが、崇神の時代にアマテラスが大和から遷り、トヨウケと一緒に「與謝野宮」として祭られた。その後、垂仁、雄略の御代に、二神はそれぞれ伊勢の内宮、外宮に遷ったというのです。
 この伝承はあまねく知れ渡り、これをモチーフにした古代史もたくさん見受けられます。しかし、この伝承は新しいのです。『倭姫命世記』が著された以降の説に過ぎません。

 

 真名井神社(籠神社の奥宮)の磐座主座には「豊受大神、又の名、天御中主神を祀る」という説明がつけられています。主祭神トヨウケをアメノミナカヌシと同一視しているのですが、これは鎌倉時代後期、伊勢神宮の外宮が、内宮と対等以上の地位を主張するため、外宮の祭神トヨウケを造化三神筆頭のアメノミナカヌシと同一であると宣言したことによるのです。

 度会氏が主導した伊勢神道では、外宮の祭神トヨウケは「記紀神話」におけるアマテラス以前の、宇宙創造神アメノミナカヌシやクニノトコタチと同一であるから、アマテラスをしのぐ絶対神であるとしています。

 長い歴史の中で、このように内宮と外宮はしばしば主導権争いを繰り返し、一時は外宮の方が上位で繁栄した時期もありました。


 

 『日本書紀』には、雄略の時代や継体の時代に、斎宮を伊勢神宮に派遣したかのような記事もあります。

雄略紀===<稚足姫皇女 更の名は𣑥幡姫皇女。是の皇女、伊勢大神の祠に侍り。>

継体紀===<息長真手王の女を麻績娘子と曰ふ。荳角(ささげ)皇女を生めり。是伊勢大神の祠に侍り。>

 しかし、ヤマト王権と伊勢の親密な交流は壬申の乱のあとに始まったのであって、「伊勢大神の祠」は伊勢神宮ではなく、大和笠縫邑の聖地を指していると解すべきでしょう。

 歴史として確実な起源とされるのは、前項で述べた通り、天武の時代であると断言して良いでしょう。


 その他にも、伊勢神宮をめぐる伝承には謎深く興味をそそられるものがたくさんあります。アマテラスは当初、男神として祭られていたが、持統と藤原氏の手で女神に変えられてしまったとか、アマテラスと大神神社のオオモノヌシは一体であるとか……、しかしいずれも確たる裏づけがあるわけではありません。

 

 以上見てきたように、はるか昔から存在したかに思える伊勢神宮ですが、実際は7世紀末から8世紀初頭にかけてその体裁を整え、その後も、神仏習合、内宮と外宮の対立や、衰亡の時期、そして明治以後の大拡充など幾多の変遷を経て、今のような隆盛を見せているのです。

 

 

参考文献
『新編 神社の古代史』岡田精司
『古社巡拝』上田正昭
『神社の本殿』三浦正幸
『誰が天照大神を女神に変えたのか』武光誠
『古代の神社と神職』加瀬直弥
他多数