理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前後から6世紀頃までの古代史を再考する!

18 ヤマト王権による広域支配は「緩やかに」進行した!

f:id:SHIGEKISAITO:20190526130018j:plain    <伊勢神宮内宮>

日本列島の広域を「急速に」支配することは不可能
 『記・紀』を忠実になぞってみれば、ヤマト王権による列島支配はきわめて順調に進んだように思えます。
 崇神の頃(3世紀末か)には、四道将軍派遣により、北は関東から東北南部まで、西は岡山まで、日本海側は北陸から丹後までがヤマト王権の支配下に入り、その後(4世紀前半か)、景行による征西、ヤマトタケルによる征西・東征などで、北東北を除く列島のほぼ全域が大和の影響下に入り、5世紀の雄略による駄目押しと続きます。
 このような認識に基づく古代史はたくさんあります。

  例えば、原秀三郎氏に次のような論考があります。
 <九州には北九州を中心にヒミコの邪馬台国、本州には大和王権が大和を中心にして西は大体備後、広島県東部辺りまで、それから北は丹波、それから北陸と東海は会津辺りまでが初期の大和王権の及ぶところ、すなわち大和王権の版図である。>

 邪馬台国が存在した頃、つまり2~3世紀半ば頃には、すでにヤマト王権が広域を支配していたというのです。
 しかし、果たしてこのように急速な広域支配は本当に可能だったのでしょうか。

 筆者は異を唱えます。
 四道将軍の遠征や、ヤマトタケルによる九州の熊襲征伐・奥州の蝦夷征討などは、5~7世紀における王権の勢力拡大や軍事進攻の歴史を遡らせ、また各地に伝わる民間伝承なども加味し、天皇家の権威を高める意図で7~8世紀頃に創作されたものです。フィクションだから、似たような繰り返しがあり、珍妙な描写も見られますよね。

 

 このことを、ヤマト王権と地方勢力との戦いの結果と結びつけたり、『記・紀』の伝える古代天皇と結びつけたりするのは意味のないことです。
 6世紀以前に万世一系の天皇系譜はまったく形成されていなかったし、大王家すら6世紀までは血縁内での抗争があり固定されていなかったからです。
 『記・紀』が、7、8世紀になってから政治的意図のもとに作られた歴史書である以上、3、4世紀頃のヤマト王権の様子を直接的に示す史料は存在しません。『記・紀』の記事にとらわれ過ぎてしまうと、4世紀頃までの古代史の真の姿を見誤ります。

 『記・紀』が記すような軍隊の長征や広域の支配は、交通路の貧弱さや兵站の観点から、また情報伝達スピードの面からも、4世紀以前の日本列島では不可能でした。
 交通路もかなり整い、王権の基盤も安定した7~8世紀のセンスで、数世紀も遡る王権支配の物語が作られたというのが事実です。

 古代の日本列島には「日本」と称した国はありませんでした。にもかかわらず万世一系の思想のように、古墳時代の早期から、否、紀元前(神武天皇の頃)から今のような天皇統治の枠組みがあったかのような古代史も存在します。しかしそれは意図的に設定された枠組みに過ぎません。

 

前方後円墳体制説
 『記・紀』を離れて、考古学界で主流となっている「ヤマト王権による早期の広域支配」説の内容を見てみると……。
 3世紀後半から大和盆地に築造された巨大前方後円墳は、地方の古墳とも統一性があり、政治的・祭祀的結集が想定されるため、古墳時代の比較的早期(4世紀前半まで)に前方後円墳祭祀に基づくピラミッド型の統治構造が出来あがったとしています。
 すなわち、前方後円墳が短期間に全国で出現したのは、ヤマト王権の広域支配の証拠であるとして、これを「前方後円墳体制」と命名しています。これが現在の考古学者による古代史の大勢のようです。

 現に、山川出版社『詳説 日本史図録 第七版』には次のように記載されています。

 <出現期の前方後円墳の分布は、近畿大和を中心に瀬戸内海沿岸から九州北部におよび、ここに広域的な政治連合(ヤマト政権)が成立したことを物語る。一方、古墳時代前期前半、東日本では前方後方墳が多くつくられるが、その規模は前方後円墳に比べはるかに小さい。前方後円墳は、ヤマト政権の成立当初から政権を支えてきた地域の首長がつくり、前方後方墳は遅れて政権に加わった地域の首長がつくったものと考えられている。>
 明らかに3世紀後半から国家権力としてのヤマト政権が成立していたかのような論調です。

 その代表的論客は都出比呂志氏です。考古学界の大御所ですよね。
 氏は、座標軸のX軸に古墳の形を、Y軸にその規模を並べた「墳丘の形と規模による身分表示」を提示し、墳形は前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳の順に優位で、それぞれの墳形のなかでも規模の大きいものが優位に立つとしています。
 そして、墳形と規模の二重基準によって被葬者の身分制的秩序ができ、箸墓古墳の成立をもって倭の社会が古代国家の域に到達していたとして「前方後円墳体制」論を展開しました。
 しかし、都出氏の「古墳の階層性」は整然としていていかにももっともらしいが、単に古墳の類別を示しただけであって、これに何らかの政治的意図を当てはめ、「前方後円墳体制」と命名するのは強引です。
 当時のイデオロギーや宗教があまり明確になっていない中で、遺跡・遺物のありようだけから古代の権力構造に迫ろうとすればこういう帰結になってしまいます。筆者はこれに与しません。

 実際には各地に前方後方墳が先に築造されていたことや、列島各地にはさまざまな形の古墳が存在し、しかもそれが長く継続したことなどから、「前方後円墳体制」と言い切ることについては根本的に無理があります。
 3世紀後半の段階では、大和盆地を中心とする狭い範囲での「体制」はあり得る(実はこれも微妙です)が、畿内全体すら統率できていなかったと考えます。

 今後のブログで「技術と交通インフラ」や、(文字の使用を含む)情報ネットワークの視点から、また3世紀もの長い期間にわたって古墳が陸続として造られた意味から、それを証明していきます。


政治連合(共立)説
 「前方後円墳体制」の概念と結びつくのが、各地の豪族が王を共立して纒向に初期国家(初期のヤマト王権)を作ったとする政治連合説ですが、その根拠とされている幾つかについて疑義を呈します。

 一つ目、
 2世紀後半から3世紀にかけて、九州北部が握っていた鉄の調達権をめぐって倭国大乱が起き、大和地域・吉備・瀬戸内勢力による政治連合がこれに勝利し、大和地域が3世紀以降の政治権力の中心になったと言うのですが、これはあり得ません。
 大乱の後も、大和において鉄器の普及を示す証拠は見つかっていないので、この説は今や完全に破綻しています。「見えざる鉄器説」も含め、鉄をめぐる古代史については、稿を改めてどこかで詳述する予定です。


 二つ目、
 纒向集落は3世紀に忽然と姿を現したわけですが、大和の豪族だけでは不可能なので、大和を核に各地の勢力が連合し、総力をあげて宗教都市を作ったに違いないと言います。
 その証拠に、纒向遺跡では、東海・吉備をはじめ広域由来の土器が出土(と言っても全体の15%を超える程度)しており、土器の移動元である各地の豪族が連合して初期の王権を共立したに違いないと言うのです。
 しかし、筆者がすべてを確認したわけではありませんが、地方の遺跡でも、多かれ少なかれ遠隔地域からの土器が出土しています。他の地域も相互に盛んに交易していたのです。
 4世紀以前の交通インフラの貧弱な古代においても遠距離交易は盛んに行われ、モノが移動したことが立証されています。当然、モノを運ぶ人も盛んに移動しました。
 これは何も纒向に固有の特異なことではないのです。例えば、福岡市の西新町(にしじんまち)遺跡では、多くの朝鮮半島系の遺物とともに、九州北部・近畿・吉備・山陰系の広域由来土器も出土しています。でもこのことが直ちに政治的な結びつきや連合を意味しないのは当然ですよね。
 纒向の調査が進んでいるから纏向に集まった土器だけが話題になるが、これは当時、別に珍しい特異なことではなかったのです。


 三つ目、
 纒向に築かれた箸墓古墳と各地域の墳墓との類似が指摘されています。各地の政治勢力が結集して大和の地に政治連合を作った証拠だと言うのです。
 しかしこれこそ考古学が歴史学たり得ない最たるものではないでしょうか。
 特定の地域の墳墓が、「権力が直接関与する形で」大和の前方後円墳につながったとは考えられません。墳墓形状という物理的類似を、短絡的に権力の結びつきにつなげてしまうのは、今の考古学の大きな欠点です。
 畿内・吉備・讃岐・阿波地方に見られる墳墓の特性(筑紫・東海・関東には無い特性)を取り入れて、ヤマト国が独自に設計・築造したと考えても何ら問題はありません。
 また、ヤマト国の祭祀には吉備・出雲の祭祀の影響の痕跡があるともいわれますが、文化・宗教・技術は容易に伝播するのです。

 各地域国家はほとんど同じような時期に、自らの大規模集落を建設し、大規模古墳を築造することに、自らの勢力を割かねばなりませんでした。とても大和に労働の民を派遣するなどの余裕はなかったはずです。ヤマト国は、大和盆地内のお膝元の中小豪族の協力で発祥したものと考えざるを得ません。

 「前方後円墳体制」や「政治連合」という説が否定されると、ヤマト王権による3世紀後半からの広域支配説は破綻します。

 

大和政権中心史観から脱する!
 『記・紀』だけを深掘りしても、記事がヤマト王権の周辺にとどまっているので、日本全体の歴史を把握することは困難です。地域独自の歴史や文化のありよう、ヤマト王権と地域国家の競合関係を冷静に分析し、各地の考古資料を最大限に活用する姿勢が大切です。
 4世紀まではもちろん、おそらく5世紀前半頃までは、日本海側の諸国は日本海交流圏を形成し、近畿周辺の近江・尾張などもヤマト国と同等ないしはそれ以上の勢力を持ち、それぞれ独立勢力として割拠していたにちがいありません。このような景色は『記・紀』を紐解くだけでは決して得られません。

 肝に銘じなければならないことは、下の時代の歴史がわかっているから、はるか古代に生じたさまざまな事柄を、すべてその後の大和政権の誕生や発展につなげて思考することです。こういうバイアスを「大和政権中心史観」と言い、古代史の論者であれば最も避けるべきことです。
 にもかかわらず、文献史学者や歴史作家をはじめ、(もっとも科学的であるべき)考古学者まで含めて、大和政権中心史観にとらわれている研究者は数多く存在します。
 上野誠氏の言にも、「後世の眼で、史実を繋ぎ合わせると一直線に見えてしまうのだが、そこには、紆余曲折が常にあるということである」とあります。
 弥生末期の邪馬台国のあった時代から、律令国家が誕生する奈良時代までの歴史が、運命のような一本のレールの上に乗っていると考えるべきではありません。


ヤマト王権が勢力を拡大するのは4世紀後半以降
 大和朝廷が、古墳時代の初期(3世紀~4世紀前半)にかなりの広域を支配していたという通説は成立しないし、大和地域が当初から突出していたわけでもありません。ましてや、その前史として、さまざまな英雄が日本列島を雄飛したという奇説・珍説もあり得ません。

 

 河川や山などの障壁を突破できる交通路が貧弱だったため、どのクニや地域国家も、軍略に訴えて一挙に広域に勢力拡大することは出来ませんでした。ヤマト王権(の初期の勢力)も同様です。
 つまり、4世紀半ばまでは広域を支配できるような大勢力は発生しようがなかったのです。今後、詳述する予定ですが、4世紀頃から鍛造鉄器が出回るようになり、武器が進歩し、交通路や交通手段も目に見えて進化します。
 近畿中部に位置する大和地域が、近江や丹後などの鉄製品製作の先進地から鉄鋌や鉄製品を調達して、大きく飛躍するのは、4世紀半ば以降からでしょう。
 日本列島の統一は、製鉄技術の進歩や交通インフラの整備に比例して、7世紀頃にかけてゆっくり進んだというのが古代史の正しい理解です。


 加えて、ここからは想像の領域ですが、いかなる国でも企業でも、勢力が強大になるには優れた王や創業主の存在があります。また王や創業主を支える戦略スタッフ層の存在も大切です。
 2世紀までは後進地域だった大和地域が、4世紀半ば以降、他の地域を尻目に突出していくのは、多くの偶然が作用したからにほかなりません。
 大勢を養える広大な大和盆地と、豊沃で流通の便に優れた淀川流域の平野と、瀬戸内航路の要である河内の沿岸を結び付けられる地政学的な利点、すなわちネットワーク上での大きなポテンシャルと、これを生かせるだけの優れた王(大王)とこれを支える分厚い豪族層(後の大伴、和珥、物部、葛城氏など)の存在が大きかったのでしょうね。大和一円は野心的で優秀な豪族層がひしめく梁山泊だったと言えそうです

 

 団栗の背比べから頭一つ抜け出すと、さらなる欲望が生まれ、加速度的に勢力が拡大していったのでしょう。ゆっくりと長い時間をかけて、武力制圧、優位な交易、宗教的権威など様々な手段によって王権は支配地域を広げていったに違いありません。

 この頃の戦争は、民衆全体を対象にするというよりは、小国ないしは国の王(首長)を服属させることであって、各地域の民衆はヤマト国(ヤマト王権)に間接的に隷属しました。大半の民衆にとって、ヤマト王権の拡大は日常に大きな変革をもたらすものではなく、そのことが比較的スムーズな王権の拡大を支えたとも言えます。


 問題は、各地の豪族の協力、各地の豊富な労働力を得て纒向の地が作られたのでないとすれば、巨大な箸墓古墳を如何にして築造できたのかということです。
 しかし、纒向の地はすでに3世紀前半から開かれ、纒向石塚、ホケノ山、東田大塚、勝山などの80~110メートル級の古墳が陸続と造られてきた実績があり、その技術的蓄積の延長線上に、280メートルの巨大古墳が築造されたとしても、何ら不思議ではありません。不連続的な革新や規模拡大は技術の世界ではよくあることです。

 本件は人工(にんく)に関して研究・試算中のため、いずれ筆者の見立てを示したいと思います。


参考文献
『越境の古代史』田中史生
『列島の古代史3 社会集団と政治組織』松木武彦
『戦争の古代史』倉本一宏
『弥生時代の歴史』藤尾慎一郎
『歴史哲学への招待』小林道徳
他多数