理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

20 2~3世紀頃の人口

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 歴史人口学を専門とする鬼頭宏氏の著書に、日本の人口の変化を詳しく綴った論考があります。縄文から弥生時代にかけての人口推計は小山修三氏の研究がベースになっているようです。今回はこれをもとに、古代の日本列島の姿をイメージしてみたいと思います。

 日本列島の人口推移と文明システム
 同書によれば、人口増減の波は縄文時代以来、現在まで4回あったといいます。

 第1波===紀元前6100年の2.0万人から、紀元前2300年にかけて26.1万人まで増加し、紀元前900年には7.6万人まで減少した。

 第2波===弥生時代末期(西暦200年頃)の59.5万人から、奈良・平安時代にかけて増加し、平安末期には684万人と弥生の10倍以上に増えた。その後、鎌倉時代(1280年)になると595万人に減少した。

 第3波===室町時代(1450年)の1005万人から、江戸時代享保期(1720年)には3130万人まで増加し、享保から幕末までの間は停滞した。

 第4波===幕末の3230万人から2005年までほぼ一貫して増加し、その133年間におよそ3.8倍に増えた。その後は減少局面に入り、現在に至っている。

 このような人口増加と停滞を繰り返す現象は、内外との間で人口移動の少ない「封鎖人口」の場合に顕著で、まさに日本列島に典型的にあらわれたといえます。

 

 この推移を、文明システムの面から比較すると、第1波は人力をエネルギー資源とした自然社会で、「縄文システム」といえる。
 第2波の「水稲農耕化システム」と第3波の「経済社会化システム」は、それぞれエネルギー資源が、それまでの人力に加え、家畜や自然力が加わり多様化した。
 第4波は「工業化システム」で、主要なエネルギー資源は化石燃料や電力である。

 

 新しい技術が生まれれば生産力が高まり人口を増加させますが、さらに生活様式と社会のあり方(文明システム)まで大きく変えてしまいます。狩猟採集社会から農業社会になると、家族の構成を変え、集落の規模が拡大し、国家の形成につながっていきます。

 食料の生産余剰は、生産に従事しなくてよい階級を生み出します。政治的支配者、官僚、軍隊、技術者集団などです。食料生産に勤しむ農民には納税義務が生じ、社会を維持するために、文字、法律、宗教などの道具立てが進み、やがて古代国家の誕生につながっていったのです。

 

 縄文時代には人口は東日本に偏在していました。
 その後、弥生時代の人口は西日本で増加しますが、関東・中部・東海・近畿でも爆発的な人口増が起きています。
 3世紀から8世紀にかけて日本列島の人口はほぼ10倍に膨れ上がりました。この間、東日本に対して西日本の人口増加率が凌駕していきますが、依然として東日本には大勢が住んでいたというのも事実で、古代史の検討には欠かせない与件です。

 

 なお、現代人の感覚からすると少々意外に思うのですが、幕末の頃(1850年)、都市など沿岸部には3300万人のうちの12%程度しか住んでいなかったようです。江戸期を通じて、盛んに沿岸部や内奥の沼地や湿地が埋められ、荒地が開拓されて宅地や新田が増えたのですが、それでもなお大半の人びとが沿岸部から離れて暮らしていたのです。

 近現代の日本列島において、沿岸部へと驚くべき民族大移動が起きていたことになります。


過疎の弥生時代
 鬼頭氏は著書の冒頭に、小山修三氏らが推計したものを改編して、「日本列島の地域人口:縄文早期~2105年(16地域区分)」という表を掲げています。
 縄文・弥生の人口については、小山氏が集落遺跡の分布を手掛かりに、8世紀中頃の人口を参考に統計的処理をして、時期別・地域別に推計したようです。

 同表から、弥生時代(1800B.P.)と奈良時代(725年)の部分をざっくり転記(部分的に抜粋、四捨五入)すると下記の通り。


   弥生時代  奈良時代
全国   594.9千人 4,512.2千人

奥羽     33.4    284.5
関東     99.0    779.7 
北陸     20.7    252.6
東山     85.1    121.9
東海     54.4       488.7
畿内   30.2    457.3
畿内周辺 70.3    503.0
山陰   17.7    350.4
山陽   48.9    439.3
四国   30.1    275.7
北九州  40.5    340.5
南九州  64.6    218.6

 

 当資料の作成は1983年頃。弥生時代以前については、B.P.(before the present)で表示してあるので、弥生時代の1800B.Pは西暦180~200年くらいに相当します。

 つまり、2~3世紀における日本列島全体の人口は約59万人で、うち畿内(ほぼ現在の奈良・大阪・京都)に約3万人、畿内周辺(ほぼ現在の滋賀・三重・和歌山・兵庫)に7万人、九州は全体で約11万人が住んでいたことになります
 弥生時代末期に最も先進的だったとされる九州は全体でも11万人でした。

 

 一方、2~3世紀の人口については、『魏志倭人伝』に記載された邪馬台国7万余戸、伊都国千余戸、奴国2万余戸、 投馬国5万余戸など8ヵ国の合計戸数15万9000余戸をもとに人口を算出する試みもあります。
 1戸あたり10人として8ヵ国全体で159万人余、戸数記載のない21ヵ国も加味すれば180万人余、さらに東日本の人口も加味すれば当時の日本の総人口は220万人内外となるというものです。
 鬼頭氏自身も、今から35年ほど前の著書では220万人説を主導していたようです。北條芳隆氏も、『前方後円墳はなぜ巨大化したのか』という論考の中で、古墳時代の人口を推計する際、始発点に『魏志倭人伝』を置いています。

 しかし、これだと70万人規模の邪馬台国を是認することになり、これは現在の島根県や高知県レベルの全人口に相当してしまうので、とても許容できません。邪馬台国時代の「クニ」は、遺跡の調査によれば現在の「町」や「村」、せいぜい「郡」のサイズであって、人口も環濠内で1000人内外、環濠外まで含めても高々数千人のレベルのはずです。

 

 『魏志倭人伝』の記載はかなり膨らませた数字だと言えるでしょう。

 ほかに適当な人口推計もないので、当ブログでは2~3世紀の人口を59万人と置いて、今後の論考を進めます。

 

  仮に、弥生末期(59万人)と律令期(451万人)の2つのポイントを比較的曲率の大きな「下に凸の内挿線」で結べば、5世紀中頃の人口は、列島全体で約200万人、うち畿内で約17万人、畿内周辺で約23万人ということになりますね。しかし、4世紀頃までの人口の伸び率はかなり低いと考え曲率を大きくとれば、5世紀中頃の人口は120万人くらいとも見積もれます。かなりアバウトな試算ですが……。


ムラやクニが散在していたという事実
 紀元3~4世紀以前の古代史を扱う場合、最も重要な前提とすべきことは、山河や海で隔てられた地域にムラやクニが散在していたという事実です。
 九州の11万人は一人当たり33万㎡にあたり、畿内の3万人は一人当たり34万㎡に相当します。
 現在の感覚からみると、とんでもない過疎です。
 無論、一人ひとりが均等に散らばって住んでいたわけではなく、紀元後に集住規模が数千人のクニも生まれていた事実を加味すれば、互いの集住地域(クニ、ムラ)の間隔は非常に離れていたことになります。
 集住可能地域は、険しい山岳地帯を除く水辺や川沿いとかに限られるので、実際には山岳地帯を省いて考えてみる必要もありますね。

 これらの集住地域を結ぶ交通路はきわめて細く不便極まりないものでした。山、川、海で切り離され、互いに遠く離れた閉鎖空間にかたまって集住していたわけです。

 おそらく、弥生末期の日本は、数十人規模のムラから最大で数千人くらいのクニまでのさまざまなまとまりが列島各地に分散立地していたのでしょう。まさに過疎の列島でした。当時は人口密度が極めて低く、交通インフラも未整備だったので、近隣同士の小競り合いならともかく、西日本全域を巻き込むような広域の戦闘は発生しようがなかったということでもあります。


参考文献
『人口から読む日本の歴史』鬼頭宏
『図説 人口で見る日本史』鬼頭宏