<ギリシャの地形図>
ギリシャの空間構造に似た日本列島の地形
前回のブログで言及した「脊梁山脈の縦貫・分断された国土・狭く少ない平野」に関連して、松木武彦氏による興味深い論考を見つけました。当ブログにとって大切なポイントなので、少々長くなるが要点を記してみます。
日本列島各地に点々と築かれた大古墳のフォーメーションは、各地域に都市国家(ポリス)が林立するギリシャの空間構造に似ています。
そもそも、ギリシャと日本列島とは地形的条件がそっくりなのです。ギリシャは三方、日本列島は四方が海に囲まれ、大平原はほとんどなく、こぢんまりと完結した平野や盆地などの小地域が、分断された形で存在しています。
都市国家や大古墳は、そのような小地域ごとに営まれているわけです。
しかも、これらの完結した平野は周囲の海に向かって開いており、日本海側と瀬戸内海側、日本海側と太平洋側、あるいはイオニア海側とエーゲ海側の各平野は、脊梁の山地をはさんで背中合わせになる形です。
多くの外向きの小世界が背中合わせで並んでいるような社会といえますね。
これは、大平原や大河を真ん中にして互いに向かい合う、メソポタミア・エジプト・シナなどの、言うなれば内向きの社会とは好対照です。
彼の地は平地が多く道路網が早くから発達し、戦闘においては戦車や騎馬が主役でした。
したがって、複雑な地形のため陸上交通インフラが貧弱だった日本列島と、メソポタミア・エジプト・シナとでは、国家統合のプロセスとスピードが異なることが想定できます。
事実、ヤマト王権の地方支配は、シナや中東の国家統合・地方支配のあり方とは大きく異なり、容易くは進まなかったのです。
次項で確認してみます。
ヤマト王権による統一はゆるやかに進んだ!
古代史学界では、神聖化された天皇を頂点として官僚や貴族が一般民衆を支配するという、専制的な古代国家をイメージする傾向が支配的です。
しかしこれは、日本の古代国家の姿が、7、8世紀頃の律令国家のイメージに引きずられて類推されたもので、事実とは異なると言えそうです。
実際、弥生時代末期から古墳時代半ばにかけての政治形態は以下のようであったと考えられます。
日本列島に広く点在する長さが200メートル超の大古墳の存在は、畿内にひときわ強い王権があったとしても、各地域国家にもそれなりの勢力をはった王たちがいたと考えざるを得ないでしょう。
3~4世紀のヤマト国(ヤマト王権)が、地域国家やクニがみずからの王の墓をつくることに口をはさんだり、前方後円墳の築造に認可を与えたり、その大きさを決めつけたりした証拠はありません。
畿内にあったヤマト国が、輸入した物資を集約して各地に配布するような、平和的な仕組みなども持ち合わせていなかったし、有力な地域国家はそれぞれ独自に鉄や先進的文物を求めて交易したり、半島南部に渡海もしていました。
しかし、4世紀後半になると、この構図が大きく変化していきます。
朝鮮半島で高句麗の南下に対抗していた百済が、みずからの存立を維持するために日本と通交関係をうち立てようとします。これを機に、高句麗対日本の戦争が勃発しました。
ヤマト王権が中心となり、朝鮮半島南部の権益に関して利害を共にする各地域国家とともに、対高句麗戦を展開。
当時の渡海能力からみて派兵規模は大きくなかったが、結果は惨敗。
最大の原因は、兵力・装備・兵站・戦法のすべてにおいて騎馬民族の高句麗に劣っていたことはもちろんですが、日本の軍隊がヤマト王権のもとに一本化された軍隊ではなく、各地域国家の軍隊の寄せ集めだったことです。
中央のもとに組織された軍隊ではなく、利害の一致する各地域国家の軍隊が対外的な動機によって寄り集まるという構図でした。
この構図は、対ペルシャ戦争(紀元前5世紀)で古代ギリシャがとった対応(デロス同盟)とよく似ています。
6世紀より前の古墳時代は、おしなべて分権的な政治構造が継続しました。
国の統一というものは、武力が伴わなければ本当の意味での統一には至らないでしょう。自分たちと思想・思考が異なり、独自の神(八百万神)を奉じる勢力を、武力をもちいて配下として繰り込んでいくことで、広域を統治する国家がつくられたと筆者は考えます。
日本民族は平和的な手段で国家を統一したのだと主張する研究者は大勢います。しかし源平合戦や、戦国大名による激しい戦闘、内政をめぐる幾多の確執・殺し合いの事実からは、古代日本においても武力がものを言ったと考えざるを得ません。
ただし戦闘に際しては、中東や欧州・シナ大陸のような皆殺し型ではなく、大将の首取り型で勝敗が決する形が多かったのは日本列島の特徴でしょう。完全な異民族同士の戦闘ではなかったせいでしょうね。この点では確かに平和的とも言えますが......。
畿内では勢力を拡大できたヤマト国も、交通インフラの整わない遠隔地を容易には征服できず、中央集権化に長い年月を要しました(無論、この間、局地的には政治連合や連携はあり得たでしょうが……)。
このことと、ヤマト国の前方後円噴祭祀に共感した地域国家が多数存在することとは何の関係もありません。
デロス同盟
ギリシャ各地の都市国家は、アレキサンダー大王という外的な権力によって統一支配されるまで、おおむね独立的に存在しました。 この経緯を紐解いてみましょう。
古代ギリシャでは都市国家間の抗争が、政治的な征服や統合にはつながらなかった。一時的な軍事同盟はあったが、ギリシャ全体での統一的な軍事組織ができることはなかった。
このことが5世紀頃の日本列島の状況に酷似しています。
ギリシャは、紀元前500年頃からペルシャ帝国の侵攻を受けました(ペルシャ戦争)。
アテネは、マラトンの戦い・サラミスの海戦でペルシャの猛攻をかろうじて退けます。マラトンの戦い(紀元前490年)では「重装歩兵による密集隊形」が、サラミスの海戦(紀元前480年)では「三段櫂船(ガレー船)」が有名。映画「スパルタクス」や「ベン・ハー」に登場しますよね。
<重装歩兵の密集隊形・ファランクス>
<三段櫂船の断面図>
騎馬軍団が登場しないのは平野が少なかったからです。馬に乗るのは貴族だけで兵士はみな歩兵でした。ガレー船でも漕ぐのは大勢の平民。この平民の頑張りが結果として民主国家アテネにつながるのは何とも皮肉なことです(後には典型的な衆愚政治に陥るが......)。
ギリシャの、数千人から数万人(奴隷は外数)という小さな単位の都市国家群が、共通の敵ペルシャによる再度の侵攻に備えて結成したのがデロス同盟(紀元前478年)です。最盛期には約200の都市国家が参加し、アテネがその盟主となりました。
理想的な民主国家とされているアテネの全盛期の繁栄は、背景に「デロス同盟」の財力があったことによります。パルテノン神殿は、女神アテナ信仰の拠点であると同時に、デロス同盟の金庫でもあったと言われています。まさに繁栄と経済力は表裏一体ということです。
その後、デロス同盟内部でアテネの優越に対する不満が高まり、海軍国アテネと最強の陸軍を持つスパルタという二つの大国が戦ったのがペロポネソス戦争(紀元前431年~前404年)です。
一時、スパルタの覇権となるも、その後も小国が分裂抗争を繰り広げたギリシャは内部から疲弊し、ギリシャ北方に勃興した国王専制型のマケドニアに侵攻されて、その支配下に入ってしまいます(紀元前337年)。
やがてマケドニアのアレキサンダー大王が、ペルシャ打倒に向けて東方に大遠征を行ない、大帝国を築きあげるのです(最大版図は紀元前330年頃)。しかし大王の死後、帝国はあっけなく三つに分裂してしまいます(紀元前301年)。
したがって、アレキサンダーの帝国も「所詮この程度だった」とも言えるのですよ。
ついでなのでちょっと脱線します。
欧米人は、ヨーロッパが初めてアジアに勝ったので「アレキサンダー大王は世界を征服した」と言って喜ぶようですが、史上最大の帝国と言えば間違いなくモンゴル帝国でしょう。
しかし実は、海まで含めた史上最大版図は大日本帝国だったのです。一瞬であったにせよ、(三ツ森正人氏によれば)大日本帝国は全地球の8分の1にあたる史上最大の帝国を築いたわけです。
もしも日本が最終的に大東亜戦争に勝利していたならば、この驚嘆すべき規模まで版図を広げた大日本帝国は、欧米列強の植民地だったアジアを解放したとして、世界史の中で大きな評価を得ていたことでしょう。
この物言い、大東亜戦争の負の面ばかりが強調される今の時代、やはり不謹慎と言われてしまうのかな?
確かに、アジアの人びとに多大な犠牲を強いたことは消すことのできない事実ですから……。
再び古代日本に戻ります。
高句麗との戦争の結果、5世紀の日本はそれまでなかった馬の文化や新しい武器・武具を取り入れ、金属加工・土器・織物・建築などの先進技術や文字文化を積極的に導入します。国家体制の変革という面では王の出自を天に求める降臨神話を導入し、その後ヤマト王権は大いに発展します。このことは第14回ブログの中で溝口睦子氏の論として紹介しました。
ヤマト王権による統合は極めてゆっくりと進行したのです。
今回のブログは、松木氏の次のような言葉を噛みしめて閉じたいと思います。
<完結した小平野や盆地が山塊を背にして並ぶという列島の分節的な地勢に
加え、寒暑、降水の多少、積雪の有無といった風土の多様さもまた、実質上の
広域集権支配の貫徹に足かせをはめるものだっただろう>。
参考文献
『人はなぜ戦うのか』松木武彦
『昇る太陽』三ツ森正人
他