理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

44 3、4世紀頃までの古代道

f:id:SHIGEKISAITO:20200106160044j:plain      <山越えの径>

 『記・紀』を読むと、弥生時代から5世紀初めまでの日本列島で、軍隊や権力集団が遠征したり広域移動する記事が頻出します。難所に遭遇したかのような描写もありますが、その詳細には触れておらず、大集団にしては大した困難もなくスムーズに移動できたようにも受け取れます。
 実態はどのようなものだったのでしょうか。

 

『記・紀』が伝える遠征
 5世紀以前と思われる時期に、ヤマト国・ヤマト王権が関係するものだけでも、以下のような遠征(実は遠征物語?)の記事が見られます。

〇 神武東征における熊野北上
〇 ヤマトヒメの巡行
〇 四道将軍の派遣(会津への遠征など)
〇 ホムツワケの中部地方めぐりと出雲行き
〇 景行の九州遠征、安房行幸
〇 ヤマトタケルによる征西・東征
〇 仲哀の九州行き
〇 神功の九州・新羅遠征
〇 応神の難波への帰還

 当時は馬もなし。
 馬は4、5世紀頃になって初めて輸入された。しかし、それ以降もしばらくの間、馬は人が乗るためというよりは荷をつけて、人が引っぱる使い方が主流だった(馬については稿を改め言及するつもり)。
 古代の陸上通行は人の足そのものに頼るほかなかったのです

 

 道路が十分に整備されていない山野での移動速度について考えてみましょう。

 軍隊のような大集団の場合は、長蛇の列が延々と連なってしまい、平地であっても1日に20キロを進軍することは難しかった。「けものみち」のような道なき道であれば高々10キロくらいだろうか。長蛇の一列縦隊は、先頭が敵と遭遇する時に、後続の集団が戦力に寄与しないことを意味し、リスク大。
 兵站も大きな障害で、そのうえ道路の啓開を伴うならば1日に5キロ進むのも困難だったと思われます。
 この時期の大集団の遠征は、苦難・困難の域を超え、至難とでもいうべきでしょうか。

 

 『記・紀』に記される神武の熊野北上や、ヤマトタケル・景行の遠征には軍隊の具体的な描写がありません。まるで少数の取り巻きと遠征したかのような......。

 通貫する道路が存在しない中で、大王みずからが軍隊を率いるような遠征が可能だったとはとても思えません。
 英雄の遠征物語は、4世紀以前の困難な通行を度外視して、明らかに7(6?)~8世紀の道路事情をもとに描かれています。

 ついでながら、神武の瀬戸内海東航についても、瀬戸内海の航行が一般化した頃の知識によって書かれたものです。

 これらの物語は、事実をそのまま伝えたものではなく、その後のヤマト王権による全国支配のプロセスを遡らせて反映したものと考えられます。

 仮にその頃に、九州や東北南部などへの長距離移動があったとしても、それははるかに規模の小さなものであったとしか言いようがないですね。敵を討つというより、むしろ偵察・情報取集とか、希少品や戦略的物品の入手などではないだろうか……。

 

2~3世紀頃までの陸路のイメージを伝える文献
 4世紀以前の古代日本には道路などという概念はなかったでしょう。
 3世紀前半に九州北部に使者がやって来て、それをもとに3世紀末に書かれた『魏志倭人伝』には以下の記載あり。日本に関して「道路」という言葉が使われた最初の記録でもあり、同時代記録でもあります。

〇 対馬
 <土地は、山険しく、深き林多く、道路は禽鹿の径(こみち)の如し。千余戸有り。良き田無く、海の物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴(してき)す。>

〇 壱岐(一支国)
 <竹林の叢林多く、三千許(ばか)りの家有り。差(いくら)か田地有りて田を耕せるも、猶食するに足らざれば、亦、南北に市糴(してき)す。>

〇 松浦(末盧国)
 <山海に浜(そ)いて居す。草木茂り盛んならば、行くに前人を見ず。>

 

 筆者は、2013年5月、「一宮めぐり」の一環で対馬と壱岐を訪れました。
 その時の印象では、対馬は島のほぼ全域が山で、原生林で覆われた山塊がまるで沈みこむように海に迫っていました。ドライブした細い道路は、複雑に入り組んだリアス式海岸の縁を縫うように通っていました。
 しかし古代にはそのような難所の海岸道路は存在しないはず。「けものみち」のような微かな痕跡だけが山間に通じていたに違いないと心底実感。

 壱岐では、田畑を展開できる平地がかなり見られたが、古代は開墾が進んでいないため市糴(海を越えて穀物を買い入れること)に頼ったのかとほぼ納得。

 

 また、九州北部の風俗・慣習を語る場面では、次のような描写も見られます。

 <皆、徒跣(とせん)なり。>
 <下戸が大人(たいじん)と道路に相逢わば、逡巡して草(くさむら)に入る。>

 以上の記事からは、当時の先進地域だったと思われる九州北部であっても、道は「けものみち」の域を出るものではなく、しかも裸足で歩いていたのだと想像できます。

 

 日本列島の道路事情は、九州北部に限らず出雲や伯耆など他の地域でも、クニやムラの中心を一歩離れれば、このような状態に近かったのでは。
 そもそも陸路はそのほとんどが、山野につけられた「けものみち」や「踏み分け道」が出発点でした。点として存在したクニやムラのあいだを結ぶ道は、細々とした痕跡のような生活道路に過ぎず、交通というレベルではなかったと言えましょう。

 2世紀頃は、日本全体の人口が59万人で、先進地域とされる九州でも10.5万人に過ぎない。 20~30人のムラ集落から、最大でも数千人規模のクニ(小国)が点在している過疎の時代です。日常の通行は集落の近辺だけで事足りたのです。

 狩猟生活から農耕生活に代わる頃から、海を持たない地域には、どんな山奥であっても「塩の道」が通っていたようですが、これについては近々稿を改めて言及します。

 

3~4世紀頃の陸路のイメージ
 文献上、4世紀頃の道路建設は、わずかに『日本書紀』応神3年(4世紀半ば)に、蝦夷を使って厩坂道(うまやさかみち)をつくったという記事があるだけです。

 <東(あづま)の蝦夷、悉に朝貢(みつきたてまつ)る。即ち蝦夷を役(つか)ひて、厩坂道を作らしむ。>

 しかし蝦夷を徴用したというのは考えにくい。しかも厩坂道がどこなのか比定地が定まっていないようです。この記事の信憑性に関わります。

 古墳時代後期になると、ヤマト王権に服属しない関東以北の土着民を化外の民として蝦夷と呼ぶようになったらしい。7世紀後半以降、大和政権の征討によって彼らは北方に追われ、しばしば抵抗します。そして中央に服属しない東北北部の蝦夷に対して、城柵を築いて特別の支配体制をとるようになります。

 厩坂道の建設で蝦夷を使ったというが、この記事が書かれた8世紀初めは、大和政権が本格的に蝦夷と対峙している時期です。そこから大幅に遡る4世紀半ばに、本当に蝦夷の徴用があったのかどうか……。
 4世紀半ばといえば、既にヤマト国は先進的文物を求めて大和盆地内から周辺へと触手を伸ばしていますが、その権力基盤は不安定。そのような中で関東以北の蝦夷との積極的接触は考えにくいし、ましてや徴用などあり得ないのでは。

 前出の『魏志倭人伝』の風俗・自然描写がほぼ正しいものと考えれば、そこから間もない3~4世紀頃の陸路は、その描写の延長線のレベルだったに違いありません。厩坂道が、はたして歴史に刻まれるような特別なだったのかどうか。

 厩坂道は飛鳥時代の「下ツ道」の前身だろうという説もあるので、それなら同意できるかな……。

 

 児玉幸多氏は、<山地の多い日本の地勢では、道は海岸に沿って、徒渉の比較的容易な地点を選び、内陸部では、渓谷に沿い、谷間を進み、低い峠を越すなど、地勢にできるだけ順応しなければならなかった>と言います。

 しかし、人が歩くしかなかった古代、実は川沿いの道は意外と少なかっと思います。
 川沿いの道は災害に弱いため、道は高巻きし峠を歩いて越すことも多々あり。そのうえ、谷道はいくつもの枝川を渡らなければならない。当時は橋もない。
 したがって、雨水の心配から解放される尾根筋を通ることもなかなか良い選択だったのです。

 

 縄文の昔から、海から遠く離れた内陸にも人々は行き来し、活発な交易があったことは間違いありません。
 大和、近江、上野、諏訪、津山、筑紫などの盆地の人々は、川沿いの困難な道よりも、海から直接アクセスできる大きな河川そのものを利用しました。河川舟運です。
 そして河川が途切れた所は舟越道を通って交易しました。
 長野正孝氏は、「船は、川を上るだけでなく、陸で曳くこともできる」といいます。このこと自体、すでに宮本常一氏らが語っていたことで目新しくはないのですが、長野氏は具体的に、能登半島横断、丹後半島横断、吉備~出雲、因幡~播磨など、多くの船曳道の存在を指摘しています。
 極めて鋭い洞察で、古代における交易の謎解きに資するところ大いなるものがあります。

 

 このように、4世紀以前もさまざまな工夫で、陸路を使う交易や人の往来はありました。
 しかし重要なことは、広域を一貫して通れる幹線道路はなく、そのため物流はまことに不便で、大集団から成る政治勢力や軍隊の移動には対応できなかったということです。このような観点で古代史を見直してみると、まったく違った景色が見えてきます。


 それでは、前回のブログで確認した飛鳥・奈良時代になるまで、「道路らしい道路」は全く存在しなかったのでしょうか。

 『日本書紀』の雄略紀(475年頃)には、
 <呉の客の道を為(つく)りて、磯歯津路(しはつのみち)に通ず。呉坂(くれさか)と名(なづ)く>
とあり、住吉津から東へと向かう、今の国道479号に相当する道を敷設したようです。

 475年といえば、技術革新の5世紀です。
 国産鉄器も相当量が出回るようになり、渡来人によって進んだ土木技術が伝えられ、道路の建設も進んだのではないかと想定されます。したがって、この雄略紀の道路建設が絶対になかったとまでは言えません。
 ただ、文献上の記述を証明する道路の遺構というのはなかなか発見されないので、その頃の実像はなかなかつかめないのが実態です。そういう意味では次項の葛上(かつじょう)斜向道路の痕跡は、大変に意義ある発見です。


5世紀頃の道路建設
 古代において、物流に向く堅固な道路の建設には、鉄器の存在が不可欠でした。したがって鉄が潤沢に出回るようになる5、6世紀には産業革命がおこり、高水準の道路建設が進んだ可能性は高いと考えられます。
 古墳時代の道路です。

 近江俊秀氏によれば、古墳時代の道路跡が見つかることは非常にまれなことらしい。
 しかし、氏は幸運にも古墳時代につくられた葛上斜向道路の痕跡を発見した。  
 それは葛城氏の本拠地を通る道路で、7世紀半ば以降の官道と同じような工法でつくられた本格的な道路だという。軟弱な地盤の箇所は、土の入れ替えや路面に砂を入れたりして、崩れにくくぬかるみにくい道路としたらしい。

 5世紀の道路建設は、鋤などの木製作業具の先端に鉄製のU字刃を取り付けるだけで、工事の効率が飛躍的に高まった。葛城氏は本拠地の南郷遺跡群に多くの渡来人を住まわせ、製鉄に注力していた模様。

 

 葛城氏は、朝鮮外交をリードした葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を祖に持ち、ヤマト王権の外戚として5世紀のリーダーの地位を築いた豪族です。
 葛城氏がヤマトの王を凌ぐほどの勢力に成長した理由の一つが、葛上斜向道路の建設にあるとも言われています。

 葛上斜向道路は、和歌山の紀水門(きのみなと)から、葛城氏の本拠地を経由して大和盆地の泊瀬(雄略の宮)に通じていた。葛城の地と紀ノ川沿いの集落とは、葛城氏が誕生する前から交流があり、往来を繰り返すうちに自然に道ができたのでしょう。葛城氏はその自然発生的な道に手を加え、必要物資を安定して輸送できる堅固な道路に改造したのです。

 紀水門は難波と並ぶ外交の窓口で、シナ・朝鮮半島・山陰山陽からもたらされた文物は、紀水門で陸揚げされて大和へ運ばれるはずなのに、葛城氏がみずからの本拠地に取り込み力を蓄えた。葛上斜向道路は葛城氏の隆盛を支える大動脈だったというわけですね。

 5世紀のヤマト王権は難波津を直接支配し、大和へ向かう難波大道を押さえた一方で、紀水門から大和へ向かう道路には手が出せず、ほとんどの文物が葛城氏の手中に取り込まれてしまったわけです。やがて雄略による攻勢で葛城国は衰退しますが、同時にヤマト王権は、葛城の地を経由しない巨勢道を開削し、紀水門から最短で大和に至るルートを確保します。
 権力の交代とセットになる幹線道の交替といえますね。

 

 陸上交通を支配することは、物流や文化を含むあらゆるものの支配に繋がります。
 鉄器の出回る5世紀以降は、地域国家の豪族によって、地域ブロック内であたかも競争するかのように多くの道路建設が行なわれたと思われます。
 そして、7世紀頃から七道駅路の原形が整備され始めたということは、ヤマト王権の政治力が地方に及んだことの証左といえるでしょう。陸上交通を押さえて、人・モノ・情報のネットワークを完全に掌握することは、統治の完成を意味します。

 

 この頃になると、斉明の九州遠征、壬申の乱における天武の転戦などの軍事行動があるが、そのための道路もかなり整備され、また山野を啓開する技術も進歩しているので、これらの移動を史実とみなしてもなんら問題がありません。

 その後、平安時代に入ると律令制がほころび、大和政権の統制力も弱まり、駅路の保持が困難になります。人びとは、生活圏を離れて無理に通された直線道路ではなく、身近な生活道路を利用するようになり、駅路は次第に縮小し、10世紀後半から11世紀の初めには廃絶してしまうのです。
 この国道の衰退に拍車をかけたのが平清盛です。彼は瀬戸内海航路の重要性に気づき、大輪田泊を大修復するという先見性を持っていました。

 一旦廃絶した街道が、再び全国規模で整備され道中奉行支配のもとにきちんと管理されるのは江戸時代になってからのことになります。

 葛上斜向道路のほかに5、6世紀の遺構は発見されていないが、部分的とはいえ、このような高規格道路の建設が始まったことは、おそらく間違いないでしょう。

 

5、6世紀頃でも、地方はまだこの有様!
 前回のブログで確認したように、幹線道路が造られ始めたのは7世紀頃からで、8世紀には七道駅路という幹線道路網が造られています。
 幹線道路は、重要度から山陽道と西海道の一部が大路、東山道・東海道が中路、そのほかは小路とされました。

 東海道の中路の位置づけは、現代からみると意外のようですが、当時は「都と東国との関係」が、瀬戸内を経由する「都と九州大宰府との関係」よりもはるかに劣位であり、少しも不思議ではありません。
 東海道が曲がりなりにも整備されるのは、戦国大名の今川氏や北条氏が領内の交通に注力してからです。

 

 7世紀頃から造られた幹線道路も実は幅2メートルほどのものが多く、その他の支路は推して知るべし、ましてやそれ以前の5、6世紀の地方は依然として畦道のような径ばかりで通行不能箇所も多かった可能性すらあります。

 それを物語るように『日本書紀』には、英雄が微かな痕跡しかないような道に遭遇するいくつかの記事が見られます。

〇 河内
 <路狭く嶮しくして、人並み行くことを得ず>。
 これは、河内に着いた神武一行が徒歩で竜田に向かおうとするが、並んで歩けないため行軍が不可能と判断、東の方の生駒山越えを決断する場面。

〇 熊野
 <山中険絶、行くべき路なし>。
 神武一行が熊野を北上する場面。
 <道路絶塞、通るべき処なし>。
 神武の敵エシキの拠点、磐余邑で。

〇 信濃路
 <是の国は、山高く谷幽し。翠き嶺万重れり。人杖倚ひて升り難し。巌嶮しく磴紆りて、長き峯数千、馬頓轡みて進かず>。
 ヤマトタケルが東征の帰途、信濃に立ち寄った場面。

〇 吉野路
 <其の土は京より東南、山を隔てて、吉野河の上に居り。峯嶮しく、谷深くして、道路狹く山獻し。故に、京に遠からずと雖も、本より朝來ること希なり>。
 応神が吉野に行幸した場面。

 

 これらは時間軸に落とし込むと、文献上は2~4世紀頃の事象なのですが、7、8世紀の編纂者が自らの生活実感から類推して執筆した、と筆者は考えます。
 おそらく、この記事に似たような状況が、7、8世紀から少々遡った時期、おそらく5、6世紀の地方には多く存在した思います。


道路が貧弱な時期は国境も不明確
 陸上交通の貧弱な時期は、便宜的に吉備国や出雲国と言っても、後の律令国家のように国境が明確ではなく、地域国家の境界は大雑把で、域内はスカスカの状態でした。

 道路の整備が加速し始める5、6世紀以降になると、地域国家に国境らしきものが現れ、統治や政治統合という言葉が実質的な意味を持ってきます。

 道路は統治に欠かせない基本的なインフラです。

 4世紀頃までの交通は水運が先行しました。
 ある程度の重量物は丸木舟に載せて櫂(かい)で漕いだ。潮の流れが立ちはだかっても、古代人はひたすら丸木舟を漕いだ。川は平底船を使い櫂、櫓(ろ)、棹(さお)で操船した。川上に遡上する時は川の流れが立ちはだかった。それでも陸上の通行よりは楽だったでしょう。

 5世紀以降は道路のウエイトが高まっていきます。
 洋の東西を問わず、中央集権国家の維持には、中央と地方で緊密な情報のやり取りができ、有事の際には軍隊を急派できる道路の存在が不可欠です。
 その種の道路が存在しない3世紀半ばからヤマト王権が地方の広域を支配していたと、さまざまな理屈を駆使して強弁してもむなしさだけが残ります。

 

参考文献
『日本交通史』児玉幸多
『道路の日本史』武部健一
『交通と通信の歴史』坂本太郎
『古代の駅と道』坂本太郎
『日本古代道路の復元的研究』木下良
『現代語訳 魏志倭人伝』松尾光
『道が語る日本古代史』近江俊秀