理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

46 古代人の移動速度(歩行)

 f:id:SHIGEKISAITO:20200113110100j:plain <勧修寺庭園のすいれん>

 人はいったいどれくらいの速度で移動できるのでしょうか。
 ここで論じるのは、弥生時代後期から4世紀頃まで、いわゆる「道」がほとんど整備されていなかった時代の移動速度についてです。
 当時、馬はありませんでした。したがって移動速度とは人の歩行速度を意味します。
 特に集団の移動速度については、古代史を論じる場合、きわめて重要な与件となります。

 本論に入る前に、いろいろな歩行速度をレビューしてみましょう。

 

歩行速度のいろいろ
 まずは歩行速度について、思いつく範囲で列挙してみます。

〇 現代人が平坦地(長距離)を移動する場合は時速4~5キロが相場。

〇 飛鳥・奈良時代に整備された官道を歩く場合は、現代人の歩行速度とほぼ同じでしょう。その頃には馬が登場して荷役の負担が減るので、物流という観点で見れば大きな変革期にあたります。

〇 ワンダーフォーゲル部や山岳部の場合は時速1~3キロ。20キロの荷を担いだ場合、急登や難所を移動する時は時速1キロくらいで、平坦部の歩行ならば時速3キロくらいでしょう。

〇 ボッカ(歩荷)は40~70キロくらいの重さを担いで、一気に数時間の荷揚げをします。でもこれは特殊技能につき、一般化はできないでしょう。

〇 有名な豊臣秀吉の中国大返しでは、備中高松城から姫路城までの100キロを2日で走り抜けています。なかでも沼城から姫路城までの78キロは1日で走破したらしい。
 でも大軍勢の行軍ですから議論百出です。重い甲冑を身に着けていたのか、フル装備ではなく平押しだったのか、道路は整備されていたのか、また途中の兵站はどうだったのか、謎が多く残されたままですが……。

〇 江戸時代の東海道中膝栗毛は時速4キロですが、時には1日に30~40キロは歩いたようです。

〇 陸上自衛隊の場合、毎分120歩で、1歩75センチメートルとすれば分速90メートル、すなわち時速5.4キロという基準があるらしいと聞きました。

〇 古代ローマ軍は通常1日で15キロ、強行軍で20キロは移動したようです。

〇 モンゴル騎馬隊は機動力に優れているといわれますが、それは戦闘の際の進軍の場合です。彼らの長距離移動は、馬を使うので相当速いと思いがちですが、平時は馬に水や食料を補給する必要あり。
 すなわち食事時間に多くを割かなければならず、1日の実移動距離はとんでもなく小さかったというのが実態です。兵站の観点は得てして見落としがちです。

〇 古代の日本は、モンゴルや古代ローマとはわけが違います。彼の地は広大な平地があり延々と続く道路がありました。しかも馬がありました。日本列島は峻険な山や河川が縦横に走り、平地が乏しく道路も貧弱でした。もちろん移動のための馬も存在しません。長距離の移動には多くの日数を必要としました。

〇 次のような茂在寅男氏の見立てもあります。
 徳川時代の日光例幣使は、京都から中山道・倉賀野経由で日光までの往復1140キロを、ほとんど休憩することなく旅を続けたので、1日平均22.8キロ。これが道路の整備されていない古代の旅であれば、1日行程は3分の1で7.6キロくらいか。

 江戸時代の三島・小田原間は馬や籠を用いて箱根峠を越える1日行程。この距離が25キロ。同じ道が不完全な道なき道であれば、連日の疲れを残す体でとても歩き通せない。やはり3分の1で、1日に8キロくらいが精々のところ。

 帝国陸軍の歩兵部隊の標準速度は、徒歩で1分間に86メートル、駈歩で1分間に145メートル。大部隊であれば自ずから遅延し、1キロに13分となり休憩を含むと1キロ平均15分を要す。昼間の1日行程は24キロを以て標準とする。行軍の速度は速くもできるが道路・季節・天候・明暗などが不良の時は著しくこれを減少する、として警告している。

 さて、この辺で道路が貧弱だった時代における歩行を考えてみましょう。

 

4世紀頃までの通行路「みち」とは?
 古代の陸路をイメージする時は、飛鳥、奈良時代以降や近現代の「道路」「道」の概念から離れなくてはなりません。ほとんど「けものみち」に近いような「道なき道」が古代の道です。
 通行の痕跡がわずかしか残っていないような古代の通行路は、「みち」と表記するのが良いのかもしれません。そのイメージはあえて漢字で書けば「」に近いのでしょう。それも藪漕ぎを伴う「みち」、あるいは半ば湿地に沈みかかったような「みち」です。

 4世紀頃までの古代日本には道路などという概念はありませんでした。
 第44回ブログでも言及したように、当時の先進地域とされた九州北部の末蘆国ですら、<山海に浜いて居す。草木茂り盛んならば、行くに前人を見ず>
という状態でした。

 列島の道路事情は、クニやムラの中心を一歩離れれば、このような状態に近かったのではないでしょうか。

 そもそも陸路はそのほとんどが、山野につけられた「けものみち」や「踏み分け道」が出発点だったと考えられています。

 縄文時代よりはるか以前から、人は、動物が作った「けものみち」を辿れば獲物を見つけやすいと考え、「けものみち」を辿って歩くようになったと考えられます。もちろん人は、動物が通る道すべてを通れたわけではありませんが……。

 また、集落や住戸間を行き来するうち、自然と踏み分け道ができたとも考えられます。それらに手を加え、歩きやすく幅広く作られて径(みち)となり、さらに改良されて道路となっていったわけです。

 もちろん、最初から人がつくった道もありました。最初に道をつくる人は石の鉈や斧で木を伐り、何とか人が通れるところを拓きました。いったんそこが通路になると、人はそこを通り、次第に踏み固めていったと考えられます。その道がいつまでも残っているためには、人がそこを通り続けなければなりません。人が通らなくなり、やがて草に埋もれ木に埋もれて消えていった道も多かったでしょう。

 点として存在したクニやムラのあいだを結ぶ「みち」は、細々とした痕跡のような生活道路に過ぎず、交通というレベルではありません。
 2世紀頃は、日本全体の人口が59万人で、先進地域とされる九州でも10.5万人に過ぎませんでした。20~30人のムラ集落から、最大でも数千人規模のクニ(小国)が点在している過疎の時代です。日常の通行は集落の近辺だけで事足りたわけです。

 以下、具体的に古代の「みち」を歩行する速度について考えてみます。


古代の「みち」を歩行する速度
〇 1人または数人という少人数で移動の場合
 平坦路における日常的な歩行(長距離)は時速4キロ

 現代人より身長の低い古代人が、20キロの荷を担いで平坦路を長時間歩行する場合、足腰が頑健だったとしても時速は3キロくらい(現代の山岳部やワンダーフォーゲル部と同じレベル)でしょうか。

 20キロを担いで山岳地帯や悪路を長距離歩行する場合は、時速1~2キロ1日に歩けるのは高々10キロがいいところでしょう。


〇 行軍などの集団移動の場合
 行軍などの集団移動は時速1~2キロで、毎日連続して8~10時間も歩行するのは無理。1日に実質的に5時間を歩行できたとしても高々10キロ。1日に20キロも進むのは困難だったでしょう。

 先ほどの茂在寅男氏は、条件が良くて、歩兵のように行軍の訓練の行きとどいた帝国陸軍でさえ、1日行程が24キロであることを思えば、古代の道なき道では、「著しくこれを減少する」の条件に該当し、3分の1の8キロという数字になる、と言います。

 さらに、山岳地帯や、九十九折の悪路、アップダウンの激しい悪路、藪漕ぎの必要な悪路においては、様々な渋滞メカニズム働き、1日に5キロ進むのも困難だったと思われます。

 最大の問題は兵站です。
 水場の少ない山越えや峠越えは水を担ぐ必要があります。河川から離れると大変です。
 食料・水の補給、さらに軍隊の場合は槍・弓などの武器、そして身の回り品や炊事道具も携行しなければならず、兵站要員は集団全員の半分弱は必要だったと考えられます。


 このような道では1列縦隊にならざるを得ず、さすれば長蛇の列となるのは不可避。
 接触・渋滞・けんかが頻発し、体調不良で一人が停止したらもちろん大渋滞。
 休憩・食事・用足しの時間ロスも半端ではない。
 敵地での偵察活動ロス、命令の徹底やフィードバックなどの情報連絡ロスも。

 例えば、大人であれば、前後に1.5メートルほどあければ一列縦隊でも歩けないことはありません。しかし「けものみち」のような難路を武器などの荷を背負って歩くのであれば、前後でしばしば接触が発生し行軍は乱れてしまうので、2メートル以上はあける必要がありそうです。

 この前提では、300人が行軍すれば行軍の長さは600メートルになり、全員が通過するのに18~36分かかり、1000人が行軍の場合は長さが2000mになるので、全員の通過に1~2時間もかかってしまいます。
 1000人もが一列縦隊で行軍すれば、横から土蜘蛛などの敵に不意打ちを食らい、大混乱です。先頭が敵と遭遇した場合でも、後続部隊は戦力に寄与できず、大混乱に陥ってしまいます。

 極端な試算をしましたが、古代における道なき道の集団移動や行軍が困難を極めたことは間違いありません。


4世紀頃までの英雄による遠征物語は虚構
 『記・紀』が編纂された7、8世紀頃は、官道などが整備され始め、道路の概念が明確になってきた時期です。そういう環境の中で、ヤマトタケルの征討物語や神功皇后の征西物語が描かれました。

 『日本書紀』によるとヤマトタケルは、景行27年10月13日(16歳の時)に大和発、12月に熊襲国に到着して熊襲を征伐、景行28年2月1日には大和に帰還している。この間、3か月強という強行軍です。ちょっと考えられませんね。そして景行40年10月2日(29歳の時)に大和を発つが、30歳の時に能褒野で死ぬので、1年くらいで、東北南部までを征討したことになります。
 東征からの帰途で、ヤマトタケルが新治から酒折までの日数を聞くと、火焚の者が「夜は9日、昼は10日」と答えているので、茨城の石岡から甲府までの200キロを9泊10日で進軍したことになります。
 年月日が明示されているのでもっともらしいが、この行程を見ただけで4世紀の行軍でないことは明白です。4世紀前半の陸路を軍隊が進めるのは平地で1日に高々10キロ、山中であれば1日平均5キロくらいしか進めません。遠征物語の行程は、『記・紀』が編纂された頃の交通事情をもとに編み出されたもので、史実とは言えないのです。

 景行も、大和から山口県佐波まで20日間で移動しています。当然、大軍勢でしょう。とても無理です。しかも熊襲征伐のために7年間も都をあけています。この時期の大和の地には多くの豪族が存在し、国の基盤は必ずしも盤石ではなかった。王の長期に及ぶ不在はヤマト国自体の存亡にかかわるので、とても史実とは考えられません。


 『日本書紀』の神功皇后紀によると、
 治世3年春1月3日、誉田別皇子(応神)を立てて皇太子とし、大和国の磐余に都(若桜宮)を造った(中略)。治世13年春2月8日、(神功は)武内宿禰に命じて皇太子に従わせ、敦賀の笥飯(けひ)大神に参らせた。17日、皇太子は敦賀から戻った、
とあります。
 2月8日から17日の中8日で往復したと書いてあるから、片道4日間で磐余から敦賀までのおおよそ200キロを歩き切ったことになります。冬季に、1日に50キロ進むのはどう考えても無理でしょう。これもやはり軍隊を含む大集団での移動でしょう。
 7、8世紀でも困難だったと思いますよ。ましてや4世紀のことです。

 

 紀元4世紀頃までは鉄製道具の絶対量が少なく、道路らしい道路の造成はほぼ不可能……。古代の「みち」を通るしかなかったのです。
 結論として4世紀頃までは、遠隔地を含む広域戦闘や、大規模政治勢力による遠距離移動などは極めて困難だったという事実に注目しましょう。これは大切なことです。

 以上のような理系的視点にもとづかない古代史は、「真の古代史」とは言えず、「単なる物語」や「神話を過度に取り込んだトンデモ古代史」に過ぎません。