<黒曜石の黒い層(神津島)>
今回と次回は、第25・26回のブログで予告した通り、黒曜石とヒスイに言及します。
当ブログでは、古墳時代前期までの海・陸の交通インフラが極めて貧弱だったことを確認してきました。一方、紀元前のはるか昔に、黒曜石・ヒスイ・天然アスファルト・琥珀などの「特定物質」が、想像を超えるような遠隔地まで運ばれていたという考古学的な事実があります。
黒曜石やヒスイなどの原産地と出土地を調べることで、先史時代における遠距離交易の実態が分かってきたのです。
まずは黒曜石が物語ること、これを紐解いてみます。
黒曜石の有用性
黒曜石は黒色の火山性ガラスなので、割れば鋭い刃先となります。
したがって縄文時代よりも前の旧石器時代から、肉や皮を切る時などにナイフとして重宝されてきました。
狩猟のほか、戦闘における生身の相手に対しても、黒曜石などの石鏃(せきぞく)が有効な武器でした。その後に登場する青銅製や鉄製に劣らず......。
しかし黒曜石は重厚な被加工物を加工するのには向いていません。
今日でも、アメリカの一部の外科医は、細密な手術を行なう際に、黒曜石のメスをあえて使うようです。金属メスよりも切開性が優れているからだといいます。
世界中の石器石材のなかでも、その切れ味は超一級です。それゆえ旧石器時代から縄文時代にかけて、古代人は黒曜石の獲得に血道を上げてきたわけです。黒曜石の有用性が広域流通をもたらしたことは間違いありません。
弥生時代以降、黒曜石は鉄などの優れた素材に代替されるようになり、弥生後半までにはその役割を終えます。
黒曜石が物語る古代の交易
黒曜石は産地ごとに元素構成比が異なるため、発掘された遺物を調べると、交易の実態が想定できます。古代史研究にとって大変ありがたい存在です。
日本列島各地に黒曜石の産地がありますが、特に北海道、中央高地、九州が三大中心地として有名です。
例えば、信濃の和田峠一帯は本州最大の黒曜石の産地でした。今でもいたるところに黒曜石のかけらが光っているようです。
他にも伊万里腰岳の黒曜石、北海道産の黒曜石、大分県の姫島産出のもの、離島である神津島・隠岐島のものがあります。
これらの産地の黒曜石が日本各地で発見されているので、石器時代の昔から遠隔地のあいだで、陸路を使った移動や、地乗り航法による沿岸航海があった証拠とされているわけです。
北海道の北東部に位置する白滝産の黒曜石がロシアの極東地域(サハリン・沿海州)からも出土しています。43キロもある宗谷海峡を越えているのですが、これは先史時代の事情によります。250万年前~1万年前、地球は氷河期でした。
約7万年前にはマンモスが北海道に渡って来ていたと想定されています。宗谷海峡は完全に陸地化していたわけです。特に約2~3万年前は、海水面が現在より100メートル以上低かったようです。
ついでながら、宗谷海峡の陸地化はそれ以前にもありました。数十万年前のナウマンゾウやオオツノジカの骨が出土(野尻湖)しているからです。
したがって、200万年以上前にアフリカを旅立った旧人(ホモサピエンスではない)が、ナウマンゾウなどを追いかけて約25万年前~10万年前にかけて渡来していた可能性があります。しかしそれを示す考古学的物証は今のところありません。
いずれにしても黒曜石は、陸地化したと思われる宗谷海峡経由でロシアに到達していたわけです。
原産地から出土地までが陸路だけで移動可能なら、あるいは沿岸航海で移動可能なら、遠隔地交易は想定可能です。人が住んでいさえすればモノは移動するからです。
しかし、神津島や隠岐島のような離島はどうなのか……。
古くは3万5千年前の神津島産の黒曜石が海を越えた本土の遺跡から発見されています。神津島のような離島から本土へ運ばれた事実は捨ておけません。なんとなれば、最近の10万年をとってみても、宗谷海峡のように、神津島と本土の間は陸化したことがないからです。
旧石器時代に何らかの渡海技術を有していたことを裏づけるものであり、次項で確認してみます。
神津島産の黒曜石が海を渡る!
神津島は伊豆七島の一つで、伊豆半島の東南部約60キロの海上に浮かぶ小島です。
神津島の黒曜石は、今でも船に乗って沖から海食崖を見ると、黒い石の層がずっと横に連なっているのが見えるようです(ブログトップのアイキャッチ写真参照)。
神津島産の黒曜石は、旧石器時代に海を渡り、内陸を運ばれて、200キロも離れた本州各地にもたらされ利用されていました。
世界的にみても原初の舟は丸木舟ではありません。エジプト・インダスでは葦舟、メソポタミア・黄河では皮袋の筏でした。
いずれも複数の浮力体からできているので、不沈という面での安全性は丸木舟と同様に問題ありません。
しかし、神津島付近は黒潮の流れる海域です。速度が出ずコントロールのきかない葦舟や筏などでは、目的地にたどり着けず漂流してしまうでしょう。
筆者は今まで、旧石器時代に(縄文時代の)磨製石器に匹敵するような道具は存在せず、丸木舟の製作は極めて困難と考えていました。
はからずも、2019年7月の実験航海(第27回のブログ参照)では、当時の製作技術でつくられた丸木舟で、200キロの海を横断することが決して不可能ではないことが立証されました。
石斧も、全面磨製ではなく刃先部分だけの局部磨製石斧であれば、3万年前にも存在した可能性が高いようです。したがって丸木舟で神津島から渡海した可能性もあながち否定できないのかもしれません。
でも、「舟の製作と航海に関する現代の実験」というものについてよくよく考えてみると、縄文時代ならともかく、旧石器時代に丸木舟を製作できたのかいま一つ確信が持てないのも事実です。神津島には大木がないので、伐採するなら伊豆半島だけど......。
道具に恵まれず知見もない中で、大木から舟を削り出すという革命的な発想が旧石器時代に生まれるものだろうか。縄文時代以降の丸木舟を知っている現代人だから、旧石器時代も同じと思うだけなのかも……。
もしかしたらイヌイットが用いたカヤック(木の枝などで骨格を作り外側に動物の皮をはった皮舟)のような舟で渡海したのかもしれない。これなら簡単な道具さえあれば比較的容易に製作できた可能性があります。
移動手段についてはひとまず置いて、神津島から本土までの海域を確認してみます。
人の目の視認距離は晴れ渡った澄み切った日で、50キロと言われています。
神津島近辺で神津島産の黒曜石が見つかっているのは利島、伊豆半島の河津、伊豆大島の3ヶ所です。
特に河津での発見が多いので、河津を目指す場合の中継ポイントを確認してみます。
神津島~式根島10キロ
式根島~新島 3.5キロ
新島~利島 10キロ
利島~河津 33キロ
したがって、中継ポイントを目視で確認しながら漕ぎ進むことは可能ですね。
次に、伊豆半島の南東部に位置する伊豆諸島海域での海流を確認してみます。
西から東へ時速約7キロで流れる黒潮本流は蛇行し年々ルートを変えますが、相模湾沖の黒潮ルートは八丈島と御蔵島や三宅島間を通ることが多く、例外はあっても神津島以北の島々には黒潮本流が流れることは滅多にないようです。黒潮の速い流れも、神津島以北では緩やかになるということか……。
黒潮に流される分を計算して逆に漕げばちょうど辿り着くが、この匙加減を間違えれば、そのまま黒潮の流れに乗っかって遠く東太平洋に流されて海の藻屑と化してしまいます。
このほか、利島から伊豆大島経由で三浦半島や房総半島に渡ることも考えられます。
旧石器時代には現在の海面よりも100メートル程度は低かったと想定され、いくつもの小島が海上に顔を出すか、島自体も大きかった可能性があり、航海は現代人が想像するよりも容易だったのかもしれません。その後、縄文海進が進み海面は現在よりも3~5メートル高く(紀元前4000年頃)なり、その後の縄文海退で現在の海面に落ち着いているのです(第39回ブログ参照)。
隠岐島の黒曜石
本土から70キロ離れた隠岐島後(どうご)産の黒曜石が中国四国地方をはじめ広範囲に出土しています。
石器時代に舟を使った交易が可能だったのか確認するため、「からむしⅡ世号」という全長8メートル超の丸木舟を製作し、実際に15キロの黒曜石を積み込み知夫里島から松江市美保関までの実験航海に成功しています。
こうした事実からは、本土からはるかに離れた離島とはいえ、隠岐は古くから人・モノ・文化の交流があり、決して絶海の孤島ではなかったことが想定できます。
このほか九州で採掘される黒曜石が遠く沖縄まで運ばれた例があります。黒潮の流れに完全に逆らっています。縄文時代には海流に逆らう航海も可能だったようですが、これについてはまったくの謎です。
次回はヒスイについて言及します。