理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

51 木材加工技術と工具・道具

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 古代の舟と航海に言及する前に、「舟の製作に欠かせない木材加工」について確認しておきます。第26回ブログで簡単にまとめてありますが、もう少し詳しく掘り下げてみます。

木材加工道具と刃先の歴史
 木材加工では、斧と鑿(のみ)がもっとも原初的な道具です。縄文時代は木の柄(え)につける刃先は石製で、素材には硬い蛇紋岩や硬質頁岩(けつがん)などが使われたようです。

 樹木を伐り倒す斧は、紀元前3世紀頃までは石製の斧(石斧・せきふ)が主力で、それ以降は徐々に鉄製の斧(鉄斧・てっぷ)が普及していきます。
 鉄製鑿の方は紀元前後の遺跡から出土しています。

 斧と鑿の材質が石から金属へ移行したのは、刃部が鋭利であることはもちろんですが、素材が再利用可能なことも大きな要因でした。
 石の場合は刃部が欠損したり、本体が破損すると廃棄となるが、金属なら加熱して溶かせば再利用できるわけです。

 シナでは紀元前2000年頃に銅の利用が始まったが、銅は柔らかすぎるので、鍛打によって硬度をあげて使用したようです。
 春秋時代(紀元前8~前5世紀)には青銅の利用が始まっています。
 青銅は銅に比べて低い温度で鋳造でき、しかも硬いというメリットがあります。しかし、斧や鑿の素材としては、当然、の方が優れているので、その後、鉄への切り替わりが加速します。
 漢(紀元前202年~)は、当時、世界でもっとも進んだ製鉄国でした。

 紀元前3世紀頃からは、日本でも鉄製工具が増え始めます。
 日本の鉄斧は、当初は、木の柄にあけた穴ないしは溝に鉄部分を装着する形式だったが、古墳時代になると鉄部分にあけた穴に柄を装着する形式も登場します。


巨木の伐採・打ち割り・刳り抜き・材料取り
 縄文・弥生時代の古代人は、丸木舟であちこちに雄飛し、リスクの高い遠隔地への航海もやってのけました。
 当時は鋸もなく、鉄製工具もなかった。丸木舟はどのようにして作られたのだろうか。
 丸木舟を作るには、まず大型の縦斧(柄と刃先が平行の斧)で巨木を伐採、寸断する。その後、丸太にを打ち込んで引き割り、丸太を半分にします。「打ち割り」です。
 昔から「木を挽く」という言葉があるように、鋸はなくとも木を縦に割ることは可能だったのです。 
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 <蛇紋岩の縦斧(若狭縄文博物館の展示から)>

  打ち割られた半円状丸太の後加工が大変です。
 大勢の職人が磨製石斧(刃先と柄が直角になっている横斧)やなどで、半割丸太の内面部分を刳り抜く骨の折れる作業が必要でした。1艘作るだけでも大変な労力と膨大な時間(年単位)を要するため、丸木舟の量産などとても考えられない状況でした。

 丸木舟に付加する部材や、準構造船を構成する板材・角材を製作するためには、石斧で樹木を伐採して手ごろな長さに断ち切り、それをで打ち割って大まかな材とし(材料取り)、(ちょうな)・槍鉋(やりがんな)のような石器で表面を仕上げます。

 基本的な工法は、刃先が石から鉄に代わっても同じですが、鉄製工具の供給に比例して丸木舟の製作能力は上昇していきました。鉄の使用量を削減するため、木製の刃先に鉄を被せるような形状のものが多く見られます。

 複雑な構造を持つ準構造船の量産は、鉄の供給量が飛躍的に増えることが絶対的な条件です。


舟材の要件と適材
 舟材で最も大切な要件は水に浮くことです。
 普通、木は水に浮きますが、どんな木でも浮くわけではありません。比重が1より大きい木もあります。
 吸水性のある木材の比重は、置かれた条件によって変化します。
 生材か、全乾燥か、気乾(大気中で自然乾燥によって水分が減少した状態)か、で変わるようですが、仮に気乾で比重を比べると次のようになります。

〇 バルサ 約0.17 世界で最も軽く模型飛行機の骨材などに使われる。
〇 桐 0.29 国産材では最も軽い。
〇 杉 0.38 
〇 樟(くすのき)0.52
〇 イスノキなど 1.05 国産材で最も重い。
〇 リグナムバイタ(中南米産)1.20~1.35 世界で最も重い。

 

 桐は軽いが、強度の点で舟材としては不合格です。

 杉は比較的軽く、強度的にも合格
 精油分が1%ほど含まれており、防腐・防水の点からも、常に水に接する舟材として好ましい。さらに、日本列島には杉の大木が広く分布木目が素直で柔らかいため、優れた刃先がなかった古代においても加工が容易。

 樟は決して軽い方ではないが、強度的に優れ、しかも大木が得られる。そのうえ数%含まれる樟脳・樟脳油が優れた防腐性を発揮。

 これら比重・強度・防腐性などを総合評価すれば、日本の古代の舟材として杉と樟を使ったことは理に適っていると言えるでしょう。

 『日本書紀』一書第5の中で、スサノオが「舟は杉と樟、棺は槙、宮は檜で作れ」と言っています。この言葉は古代の舟づくりの勘どころを見事に表しています。
 実際、農作業に使われる簡単な舟はおもに杉、物資運搬用の堅固な舟には樟が使われたことが分かっています。

 ついでながら、木材を完全に圧縮してしまえば、樹種によらず比重は約1.50になってしまい、どの樹種であっても水に沈んでしまいます。


鋸の使用について
 弥生時代の鋸の出土例はありません。
 日本における鋸の初見は4~5世紀の出土品です。この鋸の刃は10センチ程度の長さで金切り鋸のように細かい。鹿の角などの加工用であって、広く実用に供したものではありません。
 鋸の製作は精密な技術と多大な労力が必要とされるため、日本での普及は遅かった。しかも室町時代より前は横挽き鋸しか使われなかったようです。

 木を縦に割って板材・角材を大量に準備できる「打ち割り」は時間的にも迅速で、木目に沿って無理なく切断するので、本来の木の性質から見れば合理的な加工法だったとも言えます。
 このため準構造船や家の板材としては打ち割りし易い針葉樹が好まれたわけですが、長大な板を得ることは高価なものにつきました。

 しかし、室町時代の頃になると、乱伐が進んだため、船や家を作るのに檜や杉の良材不足が顕著になります。
 木目の乱れた欅や松を使わざるを得なくなるが、楔で打ち割っても長い板はとれません。そこで木目に平行に切る縦挽き鋸(大鋸・おが)が求められるようになり、導入が加速したわけです。

 f:id:SHIGEKISAITO:20200415140311j:plain <大鋸(志村史夫氏の著作から転載)>

 それ以降は、節の多い材や、木目の入り組んだ材であっても、角材や板材に加工できるようになり、木材は大きくコストダウンします。

 宮本常一氏によれば、縦挽き鋸が出現したことで、マツの板や柱が建築材として盛んに使われるようになったが、マツはヤニを噴き、虫が食う。そこで防虫のために外側をベンガラで塗ったりしたという。中世の知恵ですね。

 長く薄い板材を大量に使用する構造船(棚板づくり)が登場するのは、縦挽き鋸の使用と軌を一にします。中世になると、絵巻物に大鋸(おが)が登場するので、この頃から、実用的な縦挽き鋸が普及し、建築現場や造船で使用されるようになったとされているわけです。

 

部材の結合・組み立て
 紀元後になると、単材刳舟だけでなく多くの部材から構成される「複材刳舟・縫合船」が考案されました。
 双胴船(ダブルカヌー)やアウトリガー付きの船体もあったのかも。
 当然、板材・角材の切り出しだけでなく、部材同士の結合・固定技術が必要となります。しかし、古代舟(船)の組みたてに舟釘が使われることはありませんでした。

 部材の接合・固定には、穴をあけて縄や蔓で縛る、木釘を用いる、鉄板で繋ぐ、などの方法がとられました。
 継ぎ目からの水漏れ防止のため、接合面を叩いて柔らかくして合わせる「木ごろし」、ヒノキの皮の埋め木を間に埋め込む「巻ハダ」コケや水草のパッキング漆やアスファルトの塗布などの技法がとられました。
 当然、このような水漏れ対策を施してもなおかつ、古代舟の航行には淦(あか)の汲み出しという大きな負担が伴いました。

 さらに強固な結合法として、ほぞ穴にほぞを通す「ほぞ継ぎ」が使われます。簡易だが比較的強固な結合が得られる方法です。
 「ほぞ継ぎ」は、「貫」をつくる板材加工技術と、「ほぞ穴」をつくる穴加工技術のうえに成り立つ組立技術ということです。

 しかし、住居などの静的構造物には良くても、ほぞ継ぎで組み立てられた構造船(ないしは準構造船)で大海を横断するのはやはり非常に困難でした。
 中世まで舟釘が存在しなかった事実を無視して古代史を語ることはできません。
 次項で確認します。


舟釘について
 舟釘は断面が扁平の特殊な形で、一旦、打ち込んだら絶対に動かせない。先端が微妙に膨らんでおり、12センチほどの長さの全長にわたって表面が凹凸になっているためです。大型船の建造には必須ですが、その実用化は相当に遅かった。

 

f:id:SHIGEKISAITO:20200412114308p:plain <舟釘>

 舟釘の登場前は、前述のように板材 を蔓や縄で縫合する、あるいは木釘・木栓を使用して接合するなどの方法がとられました。奈良時代以降でも、角材・板材同士の接合には、(実用化前のため)舟釘を使わずに、鉄の平板を使いました。  
 遣唐使船に乗った円仁が、「遣唐使船の平鉄が波のために悉く脱落した」と、その旅行記の中で記しています。

 室町時代になると舟釘が実用化され、構造船への道が開けます。
 倭寇との交渉に功績のあった大護軍李芸も、
 <江南・琉球・南蛮・日本諸国の船はみな鉄釘を用いていて、堅緻軽快である。耐用年数も2、30年は大丈夫である。それに比し、朝鮮の船は木釘を使用しているから軽快でなく、耐用年数も8、9年にすぎない。よろしく鉄釘を使用すべきである>
と言っている。

 この文面からは、この頃に日本が朝鮮よりも造船技術において先行したことが見て取れます。

 古代の日本は、シナや朝鮮から商品の原型や製作技術を学んだとよく言われるが、日本はそれを導入したうえで品質改良を重ね、斬新なデザインを考案し、より高い水準に持っていくことに長けていました。

 日本に伝わった後、しばらくすると日本の方が凌駕してしまう多くの事例があります。古墳の築造、金属の細密加工、青銅製品の生産技術、石器や貝器のアクササリー、稲作技術など……。
 土器ははるか昔に伝わったと思いますが、縄文土器は、朝鮮はおろかどこの誰にも真似できない世界に冠たるジャパンオリジナルですよね。
 単純に、古代の日本は朝鮮やシナよりも劣っていたと考える自虐史観は拭い去りましょう。

 木造船の建造にかかわる木材加工に触れたので、次回からは「船・舟」について連載していきます。


参考文献
『大工道具の文明史』渡邉晶
『古代日本の超技術』志村史夫