前回の続きです。
舟形埴輪のフォルムよりもシャープで軽かった準構造船!
準構造船は、刳舟(丸木舟)を前後につないで長くした複材刳舟の両舷に舷側板をつけて深さを増し、積載量と耐航性を大きくしたものと定義されます。
20~30人が乗れた可能性があり、帆船であれば手漕ぎと風力が併用できたともいわれます。しかし古代船は構造上、順風しか受けられないため、帆走は風が吹くわずかな機会を待たねばならず、実用には向かなかったはずです(次回のブログで触れる予定)。
準構造船のフルスケールの出土例はまだありません。断片は見つかっていますが、3世紀以前の遺跡からは断片すら出土していないのです。筆者は準構造船の登場を過大評価すべきではないと考えます。
舟形埴輪が、実在した準構造船を忠実に表現しているのか、大いなる疑問を禁じ得ません。
前回のブログの繰り返しになりますが、筆者は、巷間伝えられるようなフォルムの準構造船はあり得なかったと考えます。
竜骨を使った重心の低い西洋の構造船でなければ、二股構造もゴンドラ構造も成立しません。舟形埴輪や土器に描かれた準構造船は、祭祀用にデフォルメされたものか、内海や池などに浮かべる娯楽用だったとしか思えないのです。
船材の多くは朽ちるか、さまざまに再利用されてしまうと言われますが、いつの日かフルスケールの準構造船の出土という僥倖が訪れることを祈りたいものです。
ただし、「棚板造りの構造船」は中世になるまで存在しないので、古墳時代以降、外洋で大量輸送が可能な船体として、丸木舟よりも高度な構造を持つ「実用的な準構造船」の存在そのものまで否定することはできません。
<丸木舟ベースの準構造船と棚板づくりの構造船(ネットから転載)>
筆者は、外洋航行が可能な「実用的準構造船」として次の2案を提示します。
〇 L対W比が大きく、舟形埴輪のフォルムよりシャープで重心が低く、薄板を多用した軽い船体。形状はポリネシアのカヌーのように細長く、安定性を確保するために、例えば船体をダブルに連結した可能性もあるのでは。考古学的証拠はないのですが……。
鉄製工具が豊富に出回り、打ち割り後の薄板加工技術が進歩すれば、薄い舷側板を2段以上にするなどで船体を大きくできます。すると漕ぎ手を増やせるのでスピードも増します。これこそが、流れの強い外洋を航行するための絶対的な必要条件でしょう。
〇 船底を丸木舟とする以上、原木の太さで制限されるので、大量積載が可能な横幅のある船体は建造できません。
しかし出土した遺物から、5世紀中頃には、船底を3材組み合わせて横継ぎにし、横幅を2メートルほどに増した横継ぎ組み合わせ式船体の存在も考えられるようです(樋渡遺跡で出土の船体資料)。船底部の丸木を半分に割って「おもき」とし、その間にもう一枚の平板の材(かわら)を挟み込むわけです。
3材の結合にはチキリなどが使われたのではないか。また船底を横断して補強するリブ状の材があったとも考えられます。
<石村智氏の著作から転載>
<チキリ(ネットから転載)>
この場合は、準構造船の形状を特徴付けている「竪板」「貫」などの船首船尾構造が不要となります。つまり、横継の組み合わせ船は、厳密には初期構造船として捉えるべきかもしれません。
このような船体が、本格的な棚板造りの構造船が出現する前の5世紀以降中世までの間に使われた大型船体だったのではないでしょうか。
当ブログで使う「準構造船」という用語は、埴輪と相似形の準構造船ではなく、以上の2つのタイプを念頭においていることを強調しておきます。
大量輸送のための実用的準構造船は4世紀から出現
一般的に、準構造船の出現は弥生末期とされているようです。しかしこの時期は、薄板を使用する複雑な造船技術が伝わり、造船の専門家集団が育ち、それに必要な鉄製工具の供給が増える、という条件を欠いています。
4世紀になると交易量が増大する事実から、鍛冶工房を立ち上げた各地域国家が、積載量の大きい準構造船を使い始めた可能性は考えられます。
一方、考古学的には、4世紀の準構造船のものらしき断片が発掘されているものの、必ずしも外洋で使われたものともいえず、全体像は明確になっていません。丸木舟から構造船への橋渡しとなる準構造船は、ミッシングリンクともいえる秘密のベールに包まれた存在です。
『日本書紀』の応神紀に、新羅船の失火が原因で、武庫港に停泊していた日本の船多数が類焼したという記事があります。
そこで新羅王が船匠を献じて陳謝し、彼らを摂津猪名部(いなべ)に住まわせたという。武庫火災事件がどこまで史実であったのかは不明だが、この時期に、朝鮮からの渡来人によって大型船を建造できるようになった可能性は高いのでは。
一方、須藤利一氏によれば、
<これが新羅式造船法渡来の始めと歴史は伝えているが、当時の新羅船がどんな大きさと形と構造をもっていたかはさだかでない。のちに百済式船も造られるが、おそらく朝鮮の船は、もう、この頃は立派な構造船になっていた中国系の船の亜流と思われるから、刳舟を母体とした日本伝統の船とはその構造を異にしたものであった>
という見解です。
ちなみに、この猪名部は新羅系の船大工のことであり、早くから物部氏の配下に属していました。
各地域国家で鍛冶工房が設けられて鉄製工具の供給が可能になったこと、加えて渡来人による造船技術指導で専業の専門家集団(工人)が育ったこと、権力者への富の集中で労役の大量動員が可能になったこと、これらが4世紀に準構造船が登場した背景と言えるでしょう。
『古代史の謎は海路で解ける』を著した長野正孝氏は、「出石の袴狭(はかざ)遺跡から出土した準構造船らしき大船団の線刻画は卑弥呼より前の紀元1世紀頃の日本海沿岸の交易を描いたものだ」といいます。
しかし、その頃は鉄の流通量が少なかったので、準構造船の大船団という捉え方は明らかな間違い。
大船団が展開できるのは早くても4世紀以降だろうと考えます。
ひょっとしたら、その線刻画は単純に祭器としての舟を数隻並べて描いただけなのかもしれません。
神武東征に使われた船のイメージとして準構造船のフォルムがよく使われますが、この時期の準構造船は一つとして出土していません。当時の建造能力からみて準構造船はあり得ません。
重要なことは、1隻の準構造船を建造するにも膨大な労力と時間を必要とするということ。鍛冶工房が少なく鉄製工具の供給が不十分だった3世紀以前に、準構造船が大量に造られたことはないと考えてよいと思います。
準構造船の本格的な大船団航行は6世紀以降
乗員数が多く積載能力の大きい準構造船について、大切なことを確認しておきます。
製鉄の開始が6世紀頃とされることです。それ以前は、鉄の供給が潤沢でなく、準構造船が登場したといっても、大量の建造はできません。
このことは古代史を俯瞰する際の重要な前提条件となります。準構造船の大量建造がなければ、大規模派兵をすることが出来ず、物品の大量輸送も不可能だからです。
『日本書紀』の応神紀に、伊豆で長さ十丈(約30メートル)の大型船(枯野と命名)をつくったという記述がありますが、史実とは認めがたいですね。
仮に事実だとしても、それがあえて記されたということは、それが当たり前の日常ではなく、特異な事象だから書き留められたということでしょう。
その時期の大型船建造を完全には否定できませんが、日常的に利用されるほど多くなかったことが逆にわかってしまいます。仮に建造できたとしても、それが堅牢でなかったことは言うまでもありません。
6世紀、準構造船の船団航行が始まったことで、途切れていた海路がつながり、交易が活発になり、地域間の接触面積が広がり、国家統合のスピードが加速します。こういう側面からも日本の古代史の外堀を埋めていくべきでしょう。
準構造船の登場で、馬が輸入(第48回ブログ参照)されるようになったことは特記すべきです。積載量と推進力が増し、停泊を繰り返さずに一気に渡海することが可能になったことによります。
但しこの場合でも、「馬の大量輸出入」の説明がつきにくいですね。馬の大量積載には、日本の「丸木舟・準構造船・構造船系列」とは異なる、百済舟かシナのジャンク船のような、巨大な構造船が往来していたのかもしれません。
つまり、5世紀以降は、「丸木舟ベースで軽くシャープな準構造船」と、「横継ぎ組み合わせ式構造船」、そして「百済舟のような大陸系の構造船」などが併存したのではないか。
ともあれ、その後、馬は長いこと物流の担い手として利用されたが、日本で戦闘に本格的に使われるのは武士が誕生してからです。
「交易のための海上交通」は早くから存在しましたが、その後の陸路の整備に加え「海上交通の高度化」により国の統合は加速していくのです。
本格的な構造船の出現は中世になってから
15世紀以降、刳舟の材料となる巨木が減少するとともに、板を継ぎ合せる造船技術が発達して、準構造船は衰退していきます。そして、遅くとも16世紀の中頃までには、準構造船の船底の刳舟部材を板材に置き換え、それを並べて船底とした「棚板造りの構造船」が出現します。
大陸系構造船とは別の、日本独自に発達した構造船といえます。
最大のメリットは船体の幅が広くなったことです。
これは、室町時代以降、縦挽き鋸の製造が可能になって板材の製材が容易になり、あわせて接合のための舟釘も多用される(釘着船・ていちゃくせん)ようになったことによります。
17世紀には構造船が広く普及し、弁財船や北前船などの和船も多く建造されます。
安達裕之氏によれば、板などの結合には通釘(とおりくぎ)を用い、釘の胴を打ち抜いて、緩まないように「尾」つまり先端を曲げて打ち込む。「尾を取る」とか「尾を返す」というらしい。長い船底や棚板は縫釘や鎹(かすがい)で接(は)ぎ合わせた模様。
しかし、こうして建造された構造船でさえも、外洋では毎年多くの船が遭難したのです。
準構造船や構造船の出現により、外洋の航海が容易になったという思い込みは危険です。
現代においてすら、突発性巨大波(三角波)による大型船の破壊事故がしばしば起きています。鋼鉄製の「尾道丸」や「かりふぉるにあ丸」の海難事故などが有名ですね。
ましてや、古代の構造船・準構造船では頻繁に海難事故が起きていたことは想像に難くありません。10メートルくらいの大波が来ると、船首が持ち上げられ、波を乗り越える時に船首から落下して海面に叩きつけられ、船体が破壊する。小さな構造船なら木端微塵になってしまったでしょう。
三角波とは、沖からくる波と海岸からの反射波のように、進行方向が反対の2つの波がぶつかってできる峰のとがった波で、現代でも、船乗りからは大変恐れられています。船が下から繰り返し短い周期で突き上げられ、揺れ幅がみるみる大きくなり、あるいは予測不能なタイミングで突発的に突き上げられ沈没させられてしまうのです。拙劣な技術で木材をつないでつくられた準構造船はもとより、遣唐使船でさえ三角波の前ではひとたまりもなかったわけです。
遣唐使船について
せっかくなので、遣唐使船についても整理しておきます。
<『吉備大臣入唐絵詞』部分>
構造船は、遣唐使船の建造が端緒とされますが、考古資料はありません。
今に伝わる最も古い史料は、最後の遣唐使派遣から400年も経った鎌倉時代の『吉備大臣入唐絵詞』に描かれた船です。しかしこれは当時の宋の船を真似て描かれたものらしく、とすればそれはジャンク船でしょう。
ジャンク船とは、板材を並べた平底の船底部と、そこから垂直に立ち上がる舷側板で構成される箱型の船。巨大な箱なので、荒れる外洋においては波切り性能が不足し不安定。船体内部は複数の隔壁による水密構造になっています。
ジャンク船はいかだ舟が起源のようで、日本の準構造船とは系統が異なります。
遣唐使船は、100人以上を乗せたと言われます。
丸木舟をベースとした準構造船では、東シナ海を横断するような大型の船は造れません。
全長30メートル、幅10メートルとも言われるその大きさは、平安期の絵巻物や『続日本紀』に記載された渡航人数から逆算した推測に過ぎず、本当にそれだけの大きさがあったのか、真実は闇の中。
ただ、百済船2隻を建造した記録が『続日本紀』650年にあることから、実際は、遣唐使派遣のために百済船を建造したのでしよう。
朝鮮からの技術導入なので、舟釘を用いず平板を突き合わせる組立構造で、きわめて脆弱。
ジャンク船と同様に竜骨がなく、厚い外板の内側に仕切り板のような補強材か、左右の外板をつなぐ梁を入れた構造で、帆柱2本を立てていたもよう。
平底箱型構造のため、当然ながら波切りが悪く不安定で、強風・波浪・横波に弱かった。『続日本紀』には、悲惨な遭難事故の様子が描かれています。
造船技術が未熟なうえに航海術においても、乗船者から海人族を排除する一方、非科学的な陰陽師を重用したため季節風の利用や台風の回避などができなかったからでもあります。
準構造船とは、結局のところ……
準構造船に関して、2回にわたり言及してきました。問題提起と結論をまとめてみます。
〇 3、4世紀以前
鉄器の供給が十分でないため、舟形埴輪と相似形の準構造船は構造が複雑すぎて技術的に建造できなかった。
〇 5世紀以降
国産鉄器の供給が増えるため技術的に建造は可能となるが、船底の刳舟の大きさで制約される準構造船では積載量を増やせず、しかも構造的に不安定。
実際に外洋を航行して交易や軍事に供することは困難。建造された船が遊興や宗教儀礼に使われた可能性は考えられる。
〇 5世紀以降、中世までの間
5、6世紀頃以降の交易・軍事の活動量からみて、中世(棚板づくりの構造船の誕生)まで間に、何らかの大量輸送が可能で安定性の高い船体を想定せざるを得ない。
筆者は、「L対W比が大きく薄板を多用した準構造船」と「船底を刳舟から横継ぎ組合せ式に代えた船体(初期構造船?)」が大量輸送を可能にしたと考えます。もちろん竪板や貫という妙なものはつきません。
このほかにも「弥生時代以来の複材丸木舟」と「百済船、ジャンク船のような、和船とは別系列の大陸系構造船」などいろいろな船体が併存していたのではないでしょうか。
以上から、古墳時代前期頃までは、モノの大量輸送や大量派兵は不可能だったと考えます。
筆者は、第23回ブログで、「統治の規模・範囲が一定以上に大きくなると、人的余裕が生まれ、企画・管理・軍事作戦などの専門特化層が生まれる」と言及しました。高度な構造を持つ準構造船の造船技術についても同様に、社会集団の成熟が前提だと考えます。やはり5世紀がエポックメーキングということでしょう。
池橋宏氏が的確な解説をしているので、その言葉を噛みしめて準構造船の論及を終えます。
<造船のような技術が社会に定着するには、専業の人々が技術を伝承しながら、活動していくことが必要である。そのためには基礎として農耕の安定があって、人口が多く、その中で分業によって手工業が発展していなければならない。航海の技術についても、同じように専門家集団による技術の継承と発展がなければならない。(中略)古墳時代にみられる(準)構造船への変化は、単に技術の進歩の問題ではなく、社会の組織の拡大と、分業の発展によっていたと考えられる>。
参考文献
『ものと人間の文化史 船』須藤利一・清水潤三
『ものと人間の文化史 和船1』石井謙治
『日本海で交錯する南と北の伝統造船技術』赤羽正春
『組み合わせ式船体の船・・・古墳時代の構造船』横田洋三
『昔の日本の船事情』岩本才次
『よみがえる古代の港』石村智
『海に生きる人びと』宮本常一
『古代史の謎は海路で解ける』長野正孝
『古代日本の航海術』茂在寅男
他多数