<磐船神社・社殿に覆い被さる巨岩>
「山は隔て、海は結ぶ」という言葉がある。古代日本にとって海は重要な交通路だった。海に囲まれた日本は、外国との往来は船に頼るしかない。日本列島を取り囲む海や、強い流れの海流・潮流は自然の障壁でもあったが、古代人はこれを乗り越え、盛んな交流・交易を行なってきた。
シナ大陸が陸運の文明だとすれば、日本は水運の文明だったともいえる。
神話に登場する船・舟
『記・紀』には,船の名称について多くの記述があります。
列挙してみます。
『古事記』
〇 葦船(あしぶね)
〇 鳥之石楠船(とりのいはくすぶね)
〇 天鳥船(あめのとりふね)
〇 无間勝間之小船(まなしかつまのをぶね)
〇 天羅摩船(あめのかがみのふね)など。
『日本書紀』
〇 葦船(あしのふね)
〇 天磐樟船(あまのいはくすぶね)
〇 鳥磐樟船(とりのいはくすふね)
〇 浮宝(うくたから)
〇 熊野諸手船(くまののもろたふね)
〇 無目堅間小船(まなしかたまのをぶね)
〇 天磐船(あまのいはふね)
〇 天鳥船(あまのとりふね)など。
かくも多くの「ふね」にまつわる記事が多いのは、船が重要な交通手段であったという証左でもあります。古代日本はまさに海洋民族国家であったといえますね。
そして紀元前のはるか昔から、海に親和性のある南方の文化の影響を受けていたことの証しではないでしょうか。
朝鮮半島などの大陸系の文化の影響を強く受け始めるのは、鉄の文化が伝わる紀元前3世紀以降でしょう。
文献にみる古代の船と航海術
日本列島では縄文時代から丸木舟が用いられてきました。通説では、紀元後になると丸木舟に舷側板を立て回し、積載量の増加と耐航性の向上を図った準構造船が多く造られるようになったと言われます。
しかし第54・55回ブログで言及したように、準構造船らしき実物は二股構造形式の船の断片が1例出土しているだけなので全体像はよく分かっていません。勢い埴輪などからその構造や操船法を想像せざるを得ないわけですね。
ここでは、『記・紀』に登場する船から推定できることを記してみます。
『記・紀』に登場する船は、おおよそのイメージが湧くものもあれば、想像のつかないものもあります。
葦舟は、葦を編んで作った舟です。イザナキ・イザナミの国生みで、ヒルコが生まれてしまったので、葦舟に入れて流し棄てた。
鳥之石楠船は天鳥船ともいわれ、樟(くすのき)で造った丈夫な船で、鳥と船を結びつける古代人の宗教観が窺えます。このことは『古事記』と『日本書紀』で共通しています。
无間勝間之小船は無目堅間小船と同じ。『日本書紀』に、<所謂堅間は、 是今の竹の籠なりといふ>とあるので、目の堅く詰まった竹籠の船に違いありません。
浮宝は船の美称と考えられます。
熊野諸手船の「諸手(もろた)」は漕法を表していると考えられます。諸手船を両手船の意、二挺櫓(ちょうろ)の早船の意とする説もありますが、ペーロン漕法に見られるように、漕者が櫂を持って掻くことを諸手と表現し、そのような高速の刳舟を諸手船と呼んだのでは。
茂在寅男氏は、丸木舟を横に連結したいわゆるカタマランであるという説を唱えています。「あわせ舟」の操船習俗は日本列島の各地にありました。
次にスサノオの教えについて見てみましょう。
『日本書紀』一書第五によれば、スサノオ は多くの樹種の中から、船材としては杉と樟、宮殿には檜、棺は……と樹種によって用い方を定めたという。
<杉及び樟(くす)、此の両(ふたつ) の樹は、以て浮宝(うくたから)とすべし。檜は以て瑞宮(みつのみや)を為(つく)る材(き)にすべし……。>
すでに第51回ブログで述べたことですが、このことは出土する刳舟からも肯けるし、『記・紀』成立以前から船材として杉と樟が知られていたしたことが分かります。
神話は人間が創作するものですから、神話の中に出てきた舟の名については、ある程度、当時の伝承や現実社会を反映していると考えられます。全くの作り話と考えるのではなく、『記・紀』が編纂された7、8世紀よりはるか昔の、例えば縄文時代から弥生時代に、実際にそのような舟があった可能性があると考えられるでしょう。
古代の大型船
『日本書紀』崇神紀には、
<船は天下(あめのした)の要用(むねつもの)なり。今、海の辺の民、船無きに由りて甚(にへさ)に歩運(みちはこび)に苦ぶ。其れ諸国に令して、船舶を造らしめよ、とのたまふ。冬十月に、始めて船舶を造る>
とあります。
わざわざ天下に号令するわけですから、この船舶は、縄文時代から存在する丸木舟ではなく大型船を意味していると考えられます。
しかし、今までのブログでも確認したように、もしも崇神が3世紀後半の王だとすると、この物語は事実を語ったものでないことは明らかです。
5世紀頃から準構造船が造られるようになり、渡来人によって造船や航海の技術が進歩したことを、後世の『日本書紀』編纂者が遡らせて記したものでしょう。
『古事記』仁徳記には、
<この樹を切りて船を作りしに、甚捷(いとはや)く行く船なりき。時にその船を號(なづ)けて枯野(からの)と謂ひき>
という記事があり、速く走る船を枯野と表記しています。
「枯れた野原」ではまったく意味が通りません。『日本書紀』応神紀では、枯野では意味が通じないので「軽野」ではないかと注釈しています。面白いものです。
軽野船の長さは十丈といいますから、30メートルに相当する大船になります。第55回ブログで述べた通り、これも明らかな誇張です。
史実かどうかは横に置くとしても、7、8世紀の編纂者が「速い」と記すからには、軽野船はカヌー型としか考えられませんね。
茂在寅男氏は、「軽野」や「枯野」は当て字であって、元は北太平洋還流に関係する南方系の「カヌー」や「カノー」という言葉につながるのではないか、としています。面白い見立てですが、筆者にはよく分かりません。
飛鳥時代の船
飛鳥時代の大船と思われる記事を『日本書紀』から抜き出してみます。
〇 推古26年(614)
<河辺臣(かはへのおみ)を安芸国に遣はして、舶(つむ)を造らしむ。山に至りて舶の材(き)を覓(ま)ぐ>
つむ(大きな船)を造るために大きな木を必要としている。「舶」は大船なので、準構造船と解釈できますね。そのための大木を探す必要があったということでしょうか。
〇 皇極元年(642)
<大舶(おほつむ)と同船(もろきふね)と三艘(みつ)を賜ふ。同船は、母慮紀舟(もろきふね)といふ>
「つむ」と「もろきふね」は別の船で、記述順から「もろきふね」は「つむ」より一回り小さな船であった可能性が考えられます。
「もろきふね」は「諸木舟」のことで、多くの木材を接合して造った船なので、もしかしたら「船底を刳舟から横継ぎ組合せ式に代えた」構造船(第55回ブログで言及)を意味するのでしょうか。
構造船なのに準構造船の「つむ」より小さいのは、組み合わせ式船体の強度の不足であり、大型船の建造ができなかったためと理解したい。
そう言えば「もろきふね」は「脆き船」にも通じるのでしょうか。初期構造船は脆い船であったと……。大型構造船の建造には大型船釘など、より強度が得られる接合技法が必要です。
〇 白雉元年(650)(孝徳)
<安芸国に遣わして 百済船二隻造らしめたまふ>
百済船とは弥生時代以来の和船の系列とは構造的に異なる船であろうか。となれば韓国船が想定でき、それが日本で造られていたことになる。
大型の百済船2隻の建造をあえて記したということは、当時の特殊な事例と理解するべきでしょう。
この百済船は遣唐使船として使われた可能性が高いのですが、全長30メートルといわれる遣唐使船にしても、平安期の絵巻物や渡航人数から逆算した推測に過ぎず、本当にそれだけの大きさがあったのか、真実は闇の中です。
〇 『常陸国風土記』
ここには超大型船の存在が記されています。天智の時代になるが、長さ45メートル、幅3メートルの大型船で、応神紀の「軽野」船より5割も大きい。
数値を信用するとすれば、船幅の15倍という細長い超大型船となる。この細長い形状は当時の技術としては刳舟部を縦に継いで長くした船と想定するしかなく、超大型の縦継ぎ準構造船ということになります。
茂在氏によれば、L対Wが15のような極端に細長いフォルムはカヌーのような丸木舟の形で、幅が3メートルもあることから、丸木を船底として舷側板をつけた準構造船だという。
天智の治世になるとこれだけの大船が存在したというわけですが、これが記事として残るということは、長さ45メートルもの巨大な準構造船が一般化しておらず、象徴的で特殊なケースだったともいえます。
無論、強度の面から実用に供したのか、はなはだ疑問ですね。
ちなみに大型船の大きさの限界であるが、木材は連結強度が弱いので、100メートル近い木造船をつくるのは不可能です。近世になって、船の構造材に鉄を使う木鉄交造船が登場するまで待たねばなりません。
横田洋三氏の言葉を借りてまとめると、
7世紀の船には「つむ」「もろきふね」「百済船」と構造的にみても多様なものが存在していたと想定できる。それは刳舟、準構造船、初期構造船(第55回ブログでは準構造船の範疇に含めた)が混在していたことを意味します。
7世紀代、日本と朝鮮半島は盛んに行き来し、おびただしい数の船が造られ航行する。古墳時代中期に「組み合わせ式船体の構造船」が登場していたとすると、7世紀中頃、日本海を北進した阿倍比羅夫の船団も、白村江の戦いで百済復興のため朝鮮半島に送り込んだ船団の船も初期構造船であった可能性がでてくる。
白村江の戦いに派遣された船団
663年の白村江の戦いの派遣規模について考えてみます。
過去には神功の三韓征伐などの伝承はあるが、史実とは考えられません。実際の軍船による本格的な戦闘は白村江の海戦をもって嚆矢とします。
『日本書紀』によれば、第1次派兵として1万人が送られるが、どうやら白村江の戦いには参加することなく帰国したらしい。豊璋の送還が目的だったようです。
続く第2次派兵として、2.7万人もの大軍を新羅に向かわせたといいます。
この派遣規模2.7万人はどんなものなのか。
1隻に30人が乗れる軍船(準構造船)だったとしても、1000隻以上の大船団!
天智天皇の頃なら、オールジャパンで取り組めばこのくらいの隻数は建造・調達できた可能性があるのかな?
しかし、それらをどこで建造し、どのルートで集結し、どのように船隊を組んで半島に向かったのだろうか。
1000隻以上もの大船団は、統率もままならない烏合の衆のようだったに違いない。途中の壱岐や対馬で停泊すれば、港から離れたはるか沖合まで船団が埋め尽くす。びっしりと埋め尽くされた中で各船が旋回して隊列を組むだけでも難儀です。出港するまでに数日はかかってしまう。
それとも各豪族集団がばらばらに朝鮮半島を目指したのでしょうか。
この大船団が時速3~4キロくらいで対馬海峡の潮の流れを横切っていくわけです。船団の総延長も数キロ、いや場合によっては10キロくらいに達したのではないか。
大船団の対馬海峡渡海は何とも悠長な進軍風景で、想像することすら困難です。本当に2.7万人も渡海したのか、と……。
『日本書紀』によれば、この第2次派遣軍は、旧百済領ではなく新羅に向かっています。新羅攻略のためなのか、単に牽制するためか不明ですが、白村江の戦いに参加した証拠はありません。
『日本書紀』には、続く第3次派兵として白村江に向かった1万人の始末が描かれています。
対する唐軍(新羅軍ではない)は軍船170隻を率いて白村江に陣を敷きます。唐軍の軍船は楼船と呼ばれる巨大船で、楼閣のような3層の甲板を備え、数百人の兵士が乗船していた模様です。
8月27日に日本の水軍1万人と会戦、相まみえた結果、日本は唐軍に挟撃されて大敗を喫します。おそらく長い帯のように連なった300隻ほどの船団が次々と唐の水軍が待ち構える中に突っ込んでいったため、挟撃されたときには船首を回転させることすらかなわなかったと記されています。
組織や用兵、兵站の点で雲泥の差があった。武器や軍船の質においても彼我の差は大きかったようです。
『日本書紀』によれば、日本は「我等先を争はば、敵自づから退くべし」という極めてずさんな戦法でした。
しかし、以上のように日本が大敗する戦闘場面は、肝心の『唐書』には一切載っていません。「白村江の戦い」での誇るべき勝利が、紀伝体で書かれた正史に載っていないのです。
唯一、列伝の「劉仁軌」個人について書かれた軍記にだけ、「日本の軍船1000隻のうち400隻が焼き払われた」とか「煙焔は天に漲り、海水皆赤し」などとあり、この記事から日本が大敗を喫したことが定説のようになっているのです。
個人の伝記に載った(誇張されたかもしれない)描写はどこまで信用に値するのでしょうか。何しろ白髪三千丈の世界ですからね。
それにしても、『日本書紀』が記すように本当に日本は1000隻規模の軍船を派遣し、2.7万人を送り込んだのでしょうか。しかもたった一度の海戦に敗北しただけで全面的に撤退したというのですが……。それほどの大敗だったのでしょうか。シナの列伝だけでなく『日本書紀』の記述も淡白すぎて疑問符がつきます。
この派兵について倉本一宏氏は、戦争に負けても構わないから、それを国内政治に利用するという別の目的があったのではないかとも指摘しています。
唐にとっても、白村江の戦は正史にも載っていないので、戦略的に重要な意味がなかったのではないかと思われます。
『秘伝・日本史解読術』を著した荒山徹氏の『白村江』はよくできています。面白くて一気に読んでしまいました。
荒山氏は同書の中で、第2次派兵について、豊璋送還の親衛隊副官として現地に渡った沼崎蛭足に、「渡海した兵力は、公称2万7千とのことだったが、とてもそのような数には見えなかった。せいぜい5千がいいところ」と言わせています。
ちなみに同書はまとめとして、白村江の敗戦には天智天皇の秘めたる策があった可能性を指摘しています。臨場感があって実に面白い!
ついでに、527年の磐井戦争に触れてみます。
瀬戸内海を大船団が航行したと推定できる文献上の確かな記録は、527年、任那復興のため近江毛野が兵6万人を率いて九州に進軍したという磐井戦争の記事(『日本書紀』)でしょう。 しかし、これは関ヶ原の天下分け目の戦いの輸送量に匹敵し、兵站を考えれば規模は過大と言えます。
何しろ1877年の西南戦争時に明治政府が九州に7万人の兵を送るだけでも難事だったのですから。
第57回ブログで、瀬戸内海流通ネットワークが出来上がるのは、難波津が整備され、雄略が吉備勢力を弱体化させ、磐井戦争後の屯倉の設置によるところが大きいとしました。
磐井戦争のときには、準構造船の大船団に必須とされる港湾の整備がいまだ不十分で、瀬戸内海を進む6万人の軍勢はどう考えても解せません。
おそらく当時の軍隊は中央に集められていたわけではなく、各地の豪族傘下の兵士を徴発するかたちだったので、仮に6万人が正しいとしても、大半の兵は九州北部に拠出を求めたものだったのでは(謎多き磐井戦争については継体に言及する際に詳述する予定)。
白村江の戦いも磐井戦争も、文献からだけでは、その実態を読み取れないのでは……。
『蒙古襲来』を著わした服部英雄氏は、「文献自体が巨大な神話の構成素材になる」ことに警鐘を鳴らしています。であるならば、古代の文献において詳細が書かれていない戦闘(いずれ詳述します)など、実態がどのようなものだったのか捉えようがないのではないでしょうか。
遣唐使船については、第55回ブログで言及したので、ここでは割愛します。
今回まで58回、「古代の技術と交通インフラ」について、ひと通り言及しました。次回からは「古代史の本論」!
弥生時代、邪馬台国、ヤマト王権の発祥、纒向、神武東征の虚実......と続けていく予定です。
参考文献
『昔の日本の船事情』岩本才次
『古代日本の超技術』志村史夫
『組み合わせ式船体の船・古墳時代の構造船』横田洋三
『白村江』荒山徹
『戦争の日本古代史』倉本一宏
他多数