理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

60 水田稲作の伝来・伝播 

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弥生時代とは?
 藤尾慎一郎氏による『弥生時代の歴史』は、紀元前10世紀頃から紀元後3世紀頃までの日本列島の状況を知ることができる良書です。
 今回は、同書からの抜粋を中心に、池橋宏氏の稲作渡来の論考も加味して、九州北部と本州における弥生時代の景色を眺めてみましょう。

 従来、弥生時代を特徴づけるものとして、弥生土器、水田稲作、金属器(鉄や青銅)の三点セットが挙げられ、弥生時代は紀元前3~4世紀頃から始まったとされていました。
 現在では、土器で時代区分をするのは不合理になって、日本列島に人類が出現する紀元前3万4000年以降のうち、「水田稲作を生活全般の中におくことで、社会的・政治的変化が起きた時代を弥生時代とする」認識に変わってきました。

 弥生時代の具体的な時期は、本格的な水田稲作が九州北部で始まったとされる紀元前10世紀頃から、定型化した前方後円墳が近畿に造られて古墳時代が始まる紀元後3世紀までとする説が主流になってきています。
 つまり弥生時代は1200年間続いたわけですが、この時期、日本列島には北海道の続縄文時代・擦文時代、沖縄の貝塚後期時代も併存しました。それらは当面の論考では対象外とし、九州北部と本州での動きについて、以下にまとめてみることにします。
 まずは水田稲作の故郷について確認しておきます。


水田稲作の故郷
 水田で穀物を生産するという世界的に見ても特異な水田稲作は、シナの長江下流域で始まったようです。
 最古の稲作遺跡は、長江下流域にあった「越(えつ)」の都(会稽)の近くで発掘された、紀元前5000~前4000年頃の稲作集落です。河姆渡(かぼと)遺跡と呼ばれ、高床式住居跡が出土しています。
 水田稲作の発展を支えたのは、越の人びとです。
 シナの古代史では、黄河流域が文明の始まりであり、楚・呉・越のあった長江流域は蛮族の国とされていました。
 楚の中心は長江の中流域(現在の武漢あたり)で、文化的にも比較的成熟していましたが、呉と越は雨量の多い長江の下流域で、長らく未開地域とされていました。
 黄河流域の「中原(ちゅうげん)」と言われる文化圏の外にあった呉や越は、しかしその長江流域という温暖多雨の地で、効率的な水田稲作を発明し発展させ、漁労と一体化して「中原に覇を競う」ほどの勢力に成長します。
 長江流域に、黄河流域に匹敵する、水田稲作を基礎とした独立文明が生み出されたわけです。
 彼の地の習俗は『魏志倭人伝』に描かれた倭人の習俗に極めてよく似ています。


水田稲作の伝来
 日本列島への水田稲作の伝来については、古来、様々な説が提示されてきました。なかでも、次の説は古代史研究者の間でも結構人気がありました。
 紀元前500年頃から紀元前330年にかけて「呉越の争い」が起こる。呉と越は互いに勢力を伸ばして覇を争ったが、越は紀元前468年に呉を倒す。しかし、紀元前334年に越は楚に滅ぼされ、越人は船に乗って四散した。この時、一部の越人が大勢日本に渡来して稲作が伝来弥生時代の始まりに関わったというのです。今でも根強く語られています。

 長江流域から船を出して、西風に恵まれれば容易に九州に達するというが、当時にあっても帆走は大変困難であったし、大勢を乗せて東シナ海を横切って直接渡来できる船は存在しませんでした。彼らの船は平底です。
 第一、後述する通り、日本列島での稲作開始はそれよりも相当遡ることが明確になっていて、今やその説は破綻しています。

 稲作伝来に関して可能性が高いと思われるのは、呉や越の稲作民が、優れた稲作技術を携えてシナ大陸の沿岸を北上、山東半島付近へ進出したというものです。山東半島の沿岸は古代稲作民の領域の北端だったらしい……。
 池橋宏氏らが仮説として提唱しています。
 彼らは、東シナ海に面した幾つもの河口付近に小さな拠点を作りながら、長い時間をかけて徐々に北上し、山東半島付近に達したようです。その後、朝鮮半島南西部を経由して日本列島に達したわけです。もちろん徐々に少しずつ。

 漁労と強く結びついていた越人が舟の使い手であったことが、大陸沿岸を伝って稲作技術が北上することを可能にしました。長江下流域から山東半島の沿岸には風待ちのできる入り江が点々と続いています。第40回ブログで言及した日本海側の潟湖のようなものです。入江の近辺は、小規模な水田稲作も可能なので、生活拠点があったと考えられます。

 紀元前11~10世紀には朝鮮半島南部で水田稲作が始まっています。しかし、半島南部で根づいた証拠がなく、半島南部はほとんど素通りするようにして、九州北部に伝わったと想定されます。言い換えれば、江南の水田稲作技術が、地理的には朝鮮半島を経由して九州へ渡来したということですね。

 水田稲作の伝来については、従来から、①東シナ海経由の直接渡来説、②南西諸島の島伝い経由説、③朝鮮半島経由説がありますが、今では3番目の説が確定的となっています。

 この説で真っ先に頭に浮かぶのは、山東半島北岸から遼東半島先端部までのルートです。150キロくらいしかないので距離的には最短で、しかも点在する廟島(びょうとう)群島を伝って遼東半島先端まで行けるので渡海は容易です。ただ気候の寒い朝鮮半島北部を経由することになり、水田稲作の伝播経路として考えにくいですね。
 華北から渤海北岸をぐるりと回りこんで半島北部を経由、半島南部に伝わったと考えることは気候の面からさらに無理で、残る経路としては山東半島から黄海を渡って朝鮮半島西岸に到り、半島南部に伝わったと考えざるを得ません。

 問題は山東半島先端部から朝鮮半島西部までは300キロ以上もあるので、池橋氏も、この間の航海をどのようにしたのか、検討課題としています。でも、第27回ブログで言及したように、黒潮の流れる海でも200キロ程度であれば、丸木舟で渡ることは決して不可能ではなかったことからも、黄海横断ルートに可能性がないとは言えないと思います。

 東シナ海を横断する直接渡来は航海術の面から見て無理、南西諸島経由も考古学的証拠に乏しいことから、黄海をどのように越えたのか不明であっても、たとえ朝鮮半島で稲作が根づいた証拠が見つからなくても、朝鮮半島経由しか考えられないのです。

 さて、以上のような経緯を経て、いよいよ日本列島へ稲作が伝来するわけです。

 縄文時代からの在来民は宗教的な施設を造る時以外は、自然を大規模に改変することはなかった。大切な森を根こそぎ伐採して、そこに水路を引いて水田を造るという仕業は、まさに渡来の発想です。
 日本における水田稲作の開始には、渡来の人びとが関わっていたことは間違いないでしょう。


水田稲作の開始時期
 縄文時代とは次元が異なる水田の開発に、縄文人が主体的に関わることは考えにくく、渡来人が主導した可能性が高い。でも渡来系稲作民が縄文人を蹴散らして制圧したようなイメージは考古学的なエビデンスからは認められません。
 渡来人たちがまずコロニーを形成して稲作を始め、周囲の縄文人たちも少しずつ稲作を受け入れ融合していったという経過が受け入れやすいですね。

 紀元前10世紀頃、縄文時代から暮らしていた在来民の居住地域に、海を渡ってきた水田稲作民が植民したのでしょう。佐賀県唐津の菜畑、福岡市の那珂・江辻・板付などです。対馬海峡の渡海については第53回ブログで述べました。

 従来、水田稲作は紀元前4世紀頃(紀元前334年の越滅亡が契機)から始まり、九州北部から日本各地に瞬く間に広がったと考えられていました。
 しかし、水田稲作の開始時期が紀元前10世紀頃に早まったため、最近の学説では、列島各地にゆっくりと拡散し、東北北部には紀元前4世紀、関東南部には紀元前3世紀に到達したと考えられています。

 水田稲作の地域別開始時期を年代順に列挙すると下記の通り。
〇 九州北部の玄界灘沿岸は紀元前10世紀後半頃。
〇 九州東部・中部、瀬戸内海沿岸は紀元前8世紀末。
〇 鳥取平野は紀元前7世紀前半。
〇 四国徳島は紀元前6世紀。
〇 大和盆地、つづいて伊勢湾沿岸域で開始されたのは紀元前6世紀。
〇 その後、気象が温暖となり、日本海側から急速に北上、紀元前4世紀に東北北部へ。
〇 太平洋側では、中部高地、関東南部が紀元前3世紀に開始。


クニの成立
 第23・24回ブログで、弥生前半までの人々は生命維持に必須とされる水際の地に居を構えていた述べました。一方、稲作の開始によって、集団の生命・生活維持のために 水利権が大きなウエイトを占めるようになります。この状況は九州北部でまず起こり、九州北部から列島各地に、次第に東へ、また北へと広がっていきました。

 まず、水田稲作開始後、間もなく水田稲作の協業に向けて、各地で数十人~数百人の小規模集落(ムラ)が作られた。河川流域ごとに水辺に臨む台地か微高地に立地し、竪穴式住居数軒に高床式倉庫1棟の組み合わせがいくつか集まって構成されたようです(農業を核としたムラ共同体)。

 九州北部の玄界灘沿岸地域では水利権をめぐって戦争が始まり、ムラ共同体の間に政治的な上下関係が生まれ、さらに有力者集団がまとまって集住規模の大きな「クニ」が生まれます。当地域に「クニ」が出現するのは紀元前1世紀頃からと推定されています。
 これらの「クニ」は、律令国家の「国」を構成する「郡」の半分ないしはもう少し小さな規模で、多くのムラから成立しています。邪馬台国や伊都国や奴国などが有名ですが、次回以降に詳述します。

 このような集住規模の拡大は、稲作の伝播とともに列島各地に拡散していきます。
 少し下りますが、九州北部が水田稲作技術の拙劣、戦争による支配被支配関係が進んで集住規模が拡大し、多くのクニが隆盛した2世紀後半から3世紀前半に、大和盆地では水利権をめぐるムラの合従連衡が最終局面にありました。九州北部と異なるのは、激しい戦争という形をとることなくまとまっていったことです。

 今回の内容は、考古学の面からもほぼ証明されていることゆえ、筆者も納得、したがって淡々と記しました。
 筆者が通説に異を唱え、声を大にして叫びたいのは、このあと、倭国大乱や邪馬台国が登場するところからです。また、3世紀後半には纒向のクニが誕生するわけですが、この成立に関しても考古学界では大きな論争があるわけです……。


 藤尾氏の『弥生時代の歴史』は面白く読み進めました。しかし、最後の最後、第5章の6「前方後円墳にとりつかれた人びと」には拍子抜けしましたね。近畿中央部に政治・祭祀的な中心が成立した理由を、おおむね次のように述べて全体を結んでいますが、邪馬台国の所在地を大和に断定しているからです。
 
 <2世紀以降、玄界灘周辺地域では鉄が生産力を保障する必需財となっていたが、近畿を中心とする東方では鏡などの威信財を重視する段階だった。この時期、鉄などの必需財と青銅器祭祀圏の再編成とは異なる動きを見せていた。銅鐸祭祀圏が収斂していくのが鉄素材などのハードウエアではなく、墳丘墓上で行われるまつりや威信財などのソフトウエアであったことが、古墳成立の鍵だ。なぜ大和に前方後円墳が造られるようになったかというと、無主の地だったから、祭祀・政治の中心だった邪馬台国の所在地だったから、列島の中央という地の利を活かして外来物資の流通ネットワークを主導できたから。この3つの説が当てはまる地域は大和しかない。>

 結局、藤尾氏は邪馬台国大和説なのか……。がっかり。残念!
 これに関する筆者の見解は、いずれ「纏向遺跡と箸墓古墳」として稿を改め述べてみたいと思います。


参考文献
『弥生時代の歴史』藤尾慎一郎
『稲作渡来民』池橋宏