理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

61 クニの始まりと倭人について

 f:id:SHIGEKISAITO:20200907144658j:plain <鏡山頂上から虹の松原を望む(唐津市)>

 <夫れ楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国と為る。歳時を以て来り献見すと云ふ>。
 これは『漢書地理志』に記された有名なフレーズですね。シナの史書における「倭人」という言葉の初出とされます。
 多くの古代史本で、この一文を日本のクニの始まりとして採り上げ、「紀元前1世紀頃の日本が百余国に分立し、漢に定期的に朝貢していた」と解説しています。
 
 それらの古代史本を思いつくまま挙げてみます。
〇 高校教科書 日本史B
〇 詳説 日本史図録(山川出版社)
〇 図説 日本史通覧(帝国書院)
〇 岩波新書 シリーズ日本古代史②ヤマト王権
〇 もう一度読む山川日本史
〇 一度読んだら絶対に忘れない日本史の教科書

 他にも今人気のある百田尚樹、出口治明、佐藤優の各氏による著作など、枚挙にいとまがありません。
 でも、ここでいう「倭人」は本当に日本列島人を指していて、しかも紀元前からシナに朝貢していたのでしょうか。定期的に毎年、貢物を満載した丸木舟を漕いで対馬海峡を渡っていたということでしょうか。

 楽浪海中とは?
 楽浪郡は紀元前108年に、前漢の武帝が朝鮮半島に設置した出先機関4つのうちの1つで、朝鮮半島の西北部、現在の平壌あたりにありました。   
 おそらく楽浪海は今の黄海を指すのでしょう。したがって「楽浪海中」は黄海及びその周辺地域を指していると考えるのが自然です。

 倭人を日本列島人と解釈すると、黄海とはまったく見当違いの方向と位置に日本列島が存在することになってしまいます。どう考えても変です!
 筆者は、ここで言う「倭人」は実は日本列島人を指してはいないのではないかと考えた。このことをまっさらな状態で確認してみたい……。

 

 筆者はすでに、紀元前から紀元後に変わる頃の古代史を紐解く際は、「倭人」と九州西北部の「倭国」を区別して使う必要があることを、第37回ブログで言及しています。再掲してみます。

 「倭人」を単純に「日本列島人」と思い込んでしまうと、古代史の見方を誤ってしまう。倭人は九州北部、西日本の島嶼部、朝鮮半島南部から遼東半島付近で活躍していた海洋民族の総称と捉えるべき。紀元後しばらくの間は、この一帯に国家や国境という概念はなく、人びとは縦横無尽に移動していた。「倭人」とはこれらの地域をカバーする同一的な文化を持った地域集団と位置づけるべき。

 今回は、この「倭人」「倭」「倭国」についてさらに掘り下げてみます。

 紀元前3世紀頃の『山海経』(せんがいきょう)には、
 <蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。倭は燕に属す>
とあります。ここにも「倭」が登場します。紀元前3世紀頃の状況です。

 蓋国とは何か?
 蓋国の具体的な位置については諸説あります。鴨緑江の北部とする説、遼東半島つけ根にある蓋州とする説、山東半島の蓋とする説、シナ北東部から朝鮮半島北東部にかけて存在した濊とする説、朝鮮半島南西部とする説など。
 それら諸説の違いによって解釈は多少違ってきます。

 は、渤海北岸を取り巻くように遼東半島までを版図とした大国。鉅燕は巨大なる燕国の意。現在の北京付近に都を置き河北省から遼東半島までを支配していた。

f:id:SHIGEKISAITO:20200907144821p:plain <ネットから転載>

 

 これだけの予備知識をもとに『山海経』の一文を解釈すると、当時のシナは、まだ「倭人」を日本列島人とは特定しておらず、「倭人」については勃海沿岸から遼東半島・朝鮮半島西部沿岸地域に住む人たちを指していた可能性があります。
 そもそも古代シナの感覚では、後漢(西暦25年~220年)の頃でさえ朝鮮半島が東夷の果てとされていたので、歴史的にも前漢(紀元前220年~紀元前8年)のシナが日本列島人の情報をきちんと把握していた可能性は少ないと考えられます。

 『山海経』や『漢書地理志』にみられる「倭人」については、必ずしも日本列島人を意味しないことを認識しておきたいですね。したがって、『漢書地理志』の「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国をなす。歳時をもって来たり献見すという」の一文をもって日本の始まりとするのは少々無理があると思います。
 百余国の「百」は単に「多くの」という意味しかありませんし、現に紀元前の日本列島人が漢に朝貢したという証拠はどこにもありません。

 

紀元後に登場する倭人とは?
 3世紀末に編纂された『魏志倭人伝』には、
 <倭人は帯方の東南の大海の中に在り、山嶋に依りて国邑を為す。>
という文言があります。

 帯方郡(2世紀末頃に楽浪郡の南部を割いて設置)は、朝鮮半島中西部にあるので、そこから東南の方向に位置する「倭人」は九州あたりを指していると考えられます。

 この文の後に続く対馬や壱岐、松浦の存在からも、この「倭人」は、間違いなく九州北部の列島人を指していますね。2世紀末から3世紀前半の頃の古代シナには、九州西北部に倭人の国があったという認識が生まれていたとみて良いでしょう。

 5世紀に編纂された『後漢書東夷列伝』によると、西暦57年には倭奴国が朝貢して金印を下賜されており、107年には倭国王の帥升らが生口160人を献じて謁見を願い出ているので、紀元後にはシナが日本列島人を倭人と認識するようになっていたという解釈は確かに成立します。
 しかし『後漢書東夷列伝』は、3世紀末頃に編纂された『魏志倭人伝』の記述をほとんどなぞっており、紀元後間もなくの時期に本当に「倭」を日本列島人に特定していたのかはよく分かりません。「倭」イコール「九州西北部」と理解してしまうのは早計のようです。

 

 『後漢書東夷列伝』西暦57年には、
 <建武中元二年、倭の奴国、貢を奉りて朝賀す。使人は自ら大夫と称す。極南界なり。>
とも記されています。

 この極南界には「当時の漢が認識していた倭の国の範囲の最南端にある」という意味合いがあります。
 この西暦57年の記事が史実だとすると、逆に言えば、奴国の北に対馬・壱岐以外にもさまざまな倭のクニ(小国)があったと言えないか……。


 『海の古代史』を著した布施克彦氏は、韓国の博物館の学芸員諸氏から得た感触を、「任那の実在性について尋ねた時、任那の存在を認める発言はなく、その地域にあったのは伽耶ということで統一されている。」「当時倭人が朝鮮半島南部にいたことは確かだが、それらが大和政権の出先だったとは思わない」とまとめています。

 また「韓国人研究者の間では、広開土王碑文に出てくる倭人は、大和王権の派遣軍ではなく、朝鮮半島南部に住む人たちであったと考える説も有力らしい」としています。

 もっとも、学芸員・研究者たちの声は少々値引いて評価しないといけないかも。彼らは古代に日本人が半島を占拠したとは考えたくないでしょうから。

 

 『魏志韓伝』には、
 <韓は帯方郡の南にある。東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す。およそ四千里四方。三種あり、一は馬韓と言い、二は辰韓と言い、三は弁韓と言う。>とあり、
 また『魏志倭人伝』には、
 <(帯方)郡依り倭に至るには、海岸に循(したが)いて水行し、韓国を歴(へ)て、乍く南下し、乍く東し、その(倭の)北岸の狗邪韓国に到るに、七千余里。>とあります。

 三韓の南は海のはずなのに、海を隔てず直接倭と接していると記しているわけです。これは倭人の住む地域が、朝鮮半島南端部にもあったということを意味していませんか。

 

 『山海経』は、周(紀元前1027年~紀元前771年)の時代に書き始められ、その後何度か加筆されて成立した地理書で、内容の多くは史実を反映したものではないとされています。
 しかし少なくとも「倭人」に関する認識は、『山海経』だけでなくその後の『漢書地理志』、『後漢書東夷列伝』においても同様です。この認識は、紀元後の長い期間にわたって、おそらく4、5世紀頃までは影響を及ぼすことになります。亡霊のごとく……。
 例えば、朝鮮半島の記録で「3~5世紀頃に倭人が攻めてきた」とあっても、日本列島人だと即断できないのですよ。

 

 以上の深掘りから得られる結論は、倭人すなわち日本列島人とは必ずしも言えず、倭人は朝鮮海峡を挟んでその両岸に広く住んでいたことになります。クニの体裁が整って定住者が現れる頃には、広域に活躍する海の集団を指す「倭人」という言葉は残りつつも、九州西北部の倭人たちのクニが強く認知されていったということでしょう。

 当ブログでは、「倭人」「倭」「倭国」は日本列島人や日本を指しているという古代史学界の通説とは異なる解釈のもと、古代史を紐解いていきます。


 紀元後から7世紀末頃に国の号を「日本」に変更するまで、日本列島の政治勢力も「倭」もしくは「倭国」と自称していたため、後世の古代史研究者がこれに引っ張られる形で、『漢書地理志』に記された「倭人」を日本列島人と解釈してしまったのでは……。
 ちょっと長すぎる深掘りになってしまいました。


海の民として広域に存在した「倭人」の習俗
 福永光司氏が古代シナの文献を検証したところ、
 <漢語としての倭人は、背が低く、猫背で、かがみ腰の人を意味する。そもそも中原人のいう倭人とは、朝鮮半島沿岸部から渤海湾、黄海に至る沿海地区、さらには東シナ海に至る広大な海域にまで居住範囲が及び、水辺の生活文化をもつ集団を指していた。『史記』李斯伝によれば、倭人は浙江省から西は広東・広西、雲南、越南におよぶ広汎な海域に居住しており、種族の多種多様さから百越とも呼ばれるに至っている。
 彼らは海原や海に注ぐ河川流域に住み、漁労もしくは水田稲作農耕を営み、米と魚を主食としていた。漁労に従事するので、サメやワニなどの危害を避けるために頭髪を短く切り体に刺青をする。海にもぐり水田で田植えや草取りをするので、裸や裸足になることが多く、しばしばしゃがみ腰で作業をする。日常生活では、交通の手段として欠かせない船をあやつるのに体を柔軟に屈折させる。同じく屋舎内でもあぐらをかくなど膝や脚を曲げて坐る>。

 厳密に細分すれば複数の民族がいたのだろうが、このような海の民が広義の倭人であり、長江河口を含む東シナ海沿岸部から朝鮮半島北部の沿岸地域まで広範囲に居住し、漁労と水田耕作を営んでいた。
 そしてこうした人たちが居住する広域の沿岸地域が「倭」とよばれていた。国が定まる以前、自由に移動していた時代の倭人ですね。各地でクニ・国が作られるとそれぞれが各クニ・国の構成員となっていくわけです。

 ともかく「倭人」の定義がどうであれ、紀元前から九州北部にムラが生まれ、やがてクニに成長し、朝鮮半島と交易が行われていたことは考古学の面からも事実とされています。
 次回は、この間の事情について言及します。

 

参考文献
『馬の文化と船の文化』福永光司
『現代語訳 魏志倭人伝』松尾光
『日中韓の古代史』武光誠
『海の古代史』布施克彦
『王権はいかにして誕生したか』寺沢薫