理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

62 玄界灘沿岸のクニグニ・半島との交易(1)

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<着陸寸前の機内から海食崖の続く対馬を望む>

 紀元前の古代シナや朝鮮半島の人びとが、九州北部を「倭国」や「倭人のクニ」と認識していたかどうかに関係なく、九州北部にムラが生まれ、やがてクニに成長し、それらのクニグニが朝鮮半島と交易をしていたことは考古学的事実です。

 

玄界灘沿岸のクニの誕生・半島との交易
 もともと、日本列島と朝鮮半島の間では、水田稲作の伝来(第60回ブログ)よりもはるか昔、縄文時代まで遡り、おそらく7000年ほど前から交流があったことが確認されています。朝鮮半島との南北交易の中心は半島に近い九州北部であったことは間違いありません。
 半島南部からは縄文土器が、対馬・壱岐や九州北部からは半島南部の櫛目文土器が見つかっているのが、その証拠です。渡海ルートは間違いなく『魏志倭人伝』に記載のある「対馬壱岐ルート」でしょう。

  第53回ブログで確認したように、漂流・漂着を除けば、古代の丸木舟の航行能力からみてもそれ以外のルートはあり得ません。

 さらに紀元前4~前3世紀頃の弥生土器が半島南部で出土しています。したがって日本列島人は、楽浪郡設置(紀元前108年)以前から、シナの影響を色濃く受けた半島南部の文明に接触していたようです。

 

 このような交易に関与した船乗りは、当初は航海者ではなく海洋漁撈者だったと思われます。原初の交易は漁撈者自ら舟を操って物品を届けていたと思われます。好奇心とフロンティア精神から、彼らは次第に遠距離航海に挑むようになり、航海の専業者が生まれ、広域交易者に育っていきます。舟という移動手段を持つ「海の民」が交易を独占する立場になっていったのです。

 紀元前1世紀頃の時期に、「倭人」が日本列島人と認識されていたかどうかは横に置くとして、この頃から九州の玄界灘沿岸に「クニ」と呼べるような小国が現れます。
 そして交易専業者と航海専業者が分化します。組織だった交易が営まれるようになってきたのです。

 九州北部では早くから先進文化に触れる交易が行われ、多くの有能なリーダーが生まれ、それぞれが河川や丘陵で区切られた小さな平野にムラ・クニを組織したと思われます。
 博多湾に流れ込む河川は数多く、多々良川、須恵川、宇美川、御笠川、那珂川、室見川周辺のいたる所で稲作が行われ、また川舟で海に出ることも奥地に行くことも可能でした。
 川沿いの平野に多くのクニ・ムラが現れる状況は、2世紀後半頃の大和盆地の状況に似ています。大和川に注ぐ竜田川、佐保川、布留川、初瀬川、寺川、飛鳥川、曽我川、葛城川、高田川、葛下川などの支流まわりに多くのムラが生まれるのと酷似していますね。

 弥生時代末期に国という概念はありません。
 このあと述べる伊都国・奴国を現代の感覚でいう、いわゆる国と捉えてしまうと真実から遠ざかってしまいます。リーダーの居館や祭殿のある区画を中核とする、人口数百人から数千人程度の集落(小国)がこの時代の「国」であって、そのサイズは今の町や村、せいぜい郡くらいのものだった。後に「地域国家」としてまとまる前段階としての小国を、本書ではカタカナで「クニ」と表記しています(第22回ブログ)。
 現代でいう国と町とを混同しては、古代史の解釈に雲泥の違いが出てしまうわけですね。


紀元前後の九州北部
 下図は寺沢薫氏の著作から転載(一部改変)したものですが、紀元前後の玄界灘沿岸地域のクニ・ムラをイメージするのに便利。
 吉野ヶ里は神崎(オレンジ色)の位置に相当しますね。
 邪馬台国がもし本当に存在したとすれば筆者は筑後川流域付近と考えており、本図ではそのあたりにも多くのムラが描かれているので、その面からも下図は重宝しています。
 もっとも、寺沢氏は邪馬台国を大和盆地の纒向遺跡あたりに比定しているので、その点、筆者の見解と大きく違うのですが……。

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<紀元前後の九州北部のクニ・ムラ>
《本図の凡例にあるクニ(大共同体)・国(大共同体群)は、それぞれ当ブログのムラ・クニに相当》

 
 紀元前1世紀末には、福岡平野の西側に隣接する早良平野には、室見川を挟むようにして、いくつかのムラが集積します。室見川西岸の比較的上流には、吉武高木遺跡の王に率いられた早良のクニ(小国)があったと考えられます。
 当地では、楽浪郡から輸入された銅鏡やいくつかの武器が出土しています。いずれも青銅製です。朝鮮半島系の土器も出土しています。
 王墓は王個人の墓ではなく、一族の祖先を祀るような形をとっていました。

 紀元後の1世紀半ばになると、吉武高木遺跡の考古資料が貧弱になってくるので、早良のクニは衰亡したと想定できます。
 代わりに、早良平野の東隣に奴国(那のクニ)、西隣に伊都国(クニ)が興り隆盛します。早良のクニは奴国と連合したか軍門に下った可能性があります。
 1世紀半ば頃は奴国の全盛期だったと思われます。

 西暦57年、奴国王は漢から国王の号と金印を受けたというのが歴史の定説ですが、第10回ブログで述べたように、ことは簡単ではない……。出土した金印は今や贋作の可能性が高いですし。
 福岡市のすぐ南の春日丘陵にある須玖岡本遺跡群は奴国の中心地とされています。
 須玖遺跡群内からは青銅器、鉄器、ガラス製品のほか、生産関連遺物がたくさん発見されており、「奴国」が当時の最先端技術を持ったクニだったことがわかります。
 奴国には、須玖岡本遺跡よりも早い紀元前3世紀頃から、大規模な比恵那珂遺跡が交易センターとして出現しています。

 比恵那珂遺跡の一部には那珂八幡古墳がありますが、築造は3世紀前半から半ば頃で、纒向の箸墓古墳よりも古い勝山古墳(帆立貝型)と同時期と見られます。
 2019年には纒向の帆立貝型とは異なる九州独自の形状であることが確認されました。ということは古墳時代の初期(3世紀半ば)に、ヤマト王権による地方支配があったという構図が成立しないことの傍証になります(ヤマト国の版図拡大の時に詳述します)。

 

 須玖岡本遺跡の甕棺墓は奴国の王墓と推定されているが、副葬されていた鏡の年代から紀元前1世紀頃に造られたものらしい。つまり、金印を下賜された紀元後の奴国王よりも数世代前にあたります。
 金印を下賜された時の奴国王墓はいまだに発見されていません。

 漢委奴国王の金印と言えば、なぜ奴国の中心部から遠く離れた志賀島の田んぼに埋まっていたのか、これは大いなる謎ですね(第10回ブログ)。

 

f:id:SHIGEKISAITO:20200907153516j:plain <細石神社>

 2016年4月に筆者が所属する勉強会で九州北部から壱岐まで研究旅行をした際、糸島の三雲南小路遺跡・井原鑓溝遺跡を見学したついでに、隣接する細石神社(さざれいしじんじゃ)に参拝しました。メジャーではないので、私たちの以外の参拝者はおらずひっそりしていました。そこで印象に残っているのが、同社に宝物としてまつられていた漢委奴国王の金印が江戸時代に流出したという伝承です。
 この類の伝承はどこまでが真実なのかまったく分かりませんが、あれこれ考えを巡らせてみるのも旅をする楽しみのひとつです。

 次回は2世紀から3世紀の状況について確認してみます。


参考文献
『弥生時代の歴史』藤尾慎一郎
『王権はいかにして誕生したか』寺沢薫
『日本の古代史』武光誠
『邪馬台国時代前後の交易と文字使用』武末純一
他多数