理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

63 玄界灘沿岸のクニグニ・半島との交易(2)

 f:id:SHIGEKISAITO:20200907155538j:plain <平原1号墓(福岡県糸島市)>

 前回の続きです。

2世紀頃の九州北部
 玄界灘沿岸のクニグニは、朝鮮半島との交易によって栄え、2世紀に向けて伊都国を中心にまとまっていきます。
 その中心的な集落は、まず紀元前後の三雲南小路遺跡で、続いて1世紀頃の井原鑓溝遺跡です。

 『後漢書東夷列伝』西暦107年には倭国王の帥升ら生口160人を献じて謁見を願い出たとされています。この帥升が何者なのかよく分かっていませんが、伊都国王であった可能性はあります。その場合、井原鑓溝遺跡の甕棺墓が伊都国王墓だったのかもしれませんね。

 2世紀末頃から3世紀にかかる頃には、伊都国最後の王墓ではないかとされる平原1号墓があり、40面もの鏡が副葬されています。直径46.5センチの巨大な鏡(内行花文鏡)は伊都国か奴国でつくられた可能性が高いようです。

 この墓には女性が祀られており、卑弥呼の墓に違いないとする研究者も大勢います。伊都国歴史博物館で出土品を見学しましたが、確かに副葬品には武器がほとんどなく、ネックレス やブレスレット等の副葬が多いことから女王の墓と考えざるを得ないようです。
 筆者は邪馬台国九州説なのですが、ここがはたして卑弥呼の墓なのかどうか、これについては情報不足で判断しかねます。

 伊都国では、三雲南小路王墓から井原鑓溝王墓、平原王墓へと続く3王墓で、副葬されていた銅鏡は合計110面に達し、銅鏡を副葬の中心においていたと考えられます。同時期の大和地域の弥生遺跡からは銅鏡は1面も出土していません。
 以上のような遺跡と副葬品の存在からみて、2世紀にはクニの形成と統合がかなり進んでおり、伊都国を盟主とする玄界灘沿岸のクニグニが、後漢からもそれなりのまとまった勢力として認知されるようになっていたと考えてよいでしょう。

 

 朝鮮半島との交易は大変な危険を伴うものでしたが、第53回ブログで確認したように、丸木舟程度の粗末な古代舟(複材刳舟か)でも何とか往来できたものと考えられます。
 かなり早期から、対馬の海辺の集落と朝鮮半島南端部の間には日常的な交易があったようです(『魏志倭人伝』には<船に乗りて南北に市糴す>とある)。
 使われたのは「対馬・壱岐ルート」ですが、福岡の今宿五郎江遺跡、壱岐のカラカミ遺跡や原の辻(はるのつじ)遺跡の果たした役割は大きく、海村ネットワークを形成していたと思われます。

f:id:SHIGEKISAITO:20200907155611j:plain  <ネットから転載>

 

 対馬は島全体の大半が山深いうえに、入り組んだ海岸線のあちこちに狭い平地が点在していたので、浦単位で交易をせざるを得なかったが、平野の多い壱岐では島全体が連携し、その中心となった原の辻では市が開かれていた。

 「原の辻遺跡」は「対馬・壱岐ルート」における重要な交易拠点だった。
 原の辻は、弥生前期から3世紀頃にかけて幡鉾川下流の深江田原(ふかえたばる)平野一帯に展開した広大な遺跡で、紀元前3世紀には大規模環濠集落が誕生した。
 紀元前1~紀元後2世紀頃の最盛期には最大500人程度が集住していたようです。
 現地には「敷粗朶(しきそだ)工法」が使われたと思われる日本最古の船着き場跡が出土し、交易が盛んだったことがうかがえます。  
 ちなみに深江田原平野は長崎県では諫早平野に次ぐ広さです。

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 <一支国博物館から深江田原平野を望む>

 

九州北部のクニグニのその後……
 1世紀半ばに隆盛した奴国は、脊振山地を挟んだ吉野ケ里など5つのクニグニと対峙します。

 吉野ヶ里は、脊振山地と筑後川に挟まれた丘陵地帯に、約50ヘクタールにわたって広がる巨大な環濠集落です。鉄製農具も多数出土していて、農耕の生産性が高く、周辺部を合わせた人口は4000~5000人くらいだったと想定されます。
 復元された吉野ヶ里遺跡公園は、同様の環濠集落を形成していたと思われる邪馬台国の姿を彷彿とさせてくれます。

 2世紀頃の九州北部に存在した政治勢力と、その推移はどのようなものだったのでしょうか。
 『魏志倭人伝』を信ずれば、(筆者想定によれば)2世紀頃の筑後平野付近には邪馬台国が出現します。
 ただし筆者は、古代史を俯瞰するにあたって、邪馬台国の勢力を過大に評価してはいけないと考えています。邪馬台国の人口は数百人という小規模ではなく数千人に及んだかもしれないが、所詮、九州にあった1つのクニに過ぎなかったと……。

 

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 この時期の九州北部について、武光誠氏は、伊都国連合と邪馬台国連合の対峙という構図を描いている。
 1世紀半ば、博多湾岸は奴国、筑後では吉野ケ里の全盛期だった。この時期、吉野ヶ里では日本最古で最大の墳丘墓が造られています。
 2世紀になると、玄界灘沿岸のクニグニが、伊都国を盟主として団結し、伊都国連合を形成した。これに対抗した筑紫平野から佐賀平野にかけてのクニグニは、吉野ケ里の衰退をきっかけに邪馬台国を中心にまとまった。
 倭国大乱はこの二大勢力の争いであった。武光説は、考古学的な証拠はないものの、倭国大乱に関する面白い見立てではないでしょうか。

 これに勝利した邪馬台国は『魏志倭人伝』によれば、九州北部の30のクニを束ねる有力勢力となった。この勢力範囲には壱岐や対馬も含まれていたのかもしれない。
 このような図式が所謂「倭国」の実体でしょう。おそらく......。

 「倭国」はヤマト王権とは何のつながりもない一つの地域政権だったということです。

 この時期、ほかに宇佐を中心とする勢力があり、邪馬台国のすぐ南には狗奴国の勢力、九州南部には曽於や隼人のクニがあったという想定はできます。
 なお、宗像は九州北部にありながら、伊都国連合にも邪馬台国連合にも与しなかったと考えられます。そのことが海北道中ルート」を利用する4世紀のヤマト王権とのつながりを生むことになるんですね。

 筆者は邪馬台国が大和地域にあったとは全く考えません。こじつけが過ぎる考古学的考察や我田引水の文献解釈には与せず、(決定的証拠はないものの)総合的な観点から九州説を採りますが、いずれ当ブログでも特集を組む予定です。


参考文献
『弥生時代の歴史』藤尾慎一郎
『王権はいかにして誕生したか』寺沢薫
『日本の古代史』武光誠
『邪馬台国時代前後の交易と文字使用』武末純一
他多数