理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

64 3世紀頃までの九州北部・山陰の東西交易(1)

 f:id:SHIGEKISAITO:20200908092820j:plain <大社湾越しに三瓶山遠景>

 第38・40回ブログで、日本海側における「広範囲にわたる潟湖の存在は、朝鮮半島との南北交易を地域間の東西交易に転換でき、古代の日本海文明において重要な結節点の役割を担ってきた」と記しました。
 今回は、紀元前1世紀頃から3世紀頃までの日本海側の東西交易と、九州北部や山陰に存在したクニの興亡について、出雲に焦点を当てながら掘り下げてみます。
 「神話かぶせ」が過ぎる古代史では、「天孫族が日本を統治する前に出雲政権があった」というのですが、筆者が描く古代史はそれとは一線を画しています。

 瀬戸内海ルートvs日本海ルート
 古代史学界の多数説は、「弥生時代末期から朝鮮半島と畿内を結ぶメインルートは瀬戸内海だった」という論調です。三角縁神獣鏡や古墳の分布は畿内が最大だが次いで多いのは瀬戸内海沿いであること、また後の世に瀬戸内海を経由する遣唐使などの事例が多いことが影響しているのでしょう。
 しかし、第58回ブログでも言及しましたが、5世紀以前の瀬戸内海の航行はまことに困難なものでした。ヤマト王権の玄関口となる難波津も存在していなかったわけですから……。

 確かに文化や技術は瀬戸内海を渡廊として、尺取虫の歩みのように伝播することも多々あったわけですが、政治的影響を及ぼすような、また大規模物流を可能とするようなハイウエイではなかったということです。
 当時は、多くの潟湖や河口を活用できる「日本海ルート」こそがメインルートだったことを紐解いていきます。
 朝鮮半島系土器の出土状況を子細に検討すると「日本海ルート」の興味深い事実がみえてきます。


紀元前1世紀~3世紀半ば
 日本海ルートは、先史時代から列島のハイウエイとして、黒曜石・ヒスイなどの東西流通を可能にし、また文化や技術の伝播経路の役割も果たしてきました(第40・49・50回ブログ)。潟湖や大河口の存在が沿岸航行を容易にしたことが大きな要因です。

 その土台の上に、紀元前1世紀頃から玄界灘沿岸に、優れたリーダーに率いられた小国(クニ)が誕生し、同じ頃に山陰でも、出雲や因幡に小国(クニ)が誕生し、日本海側の東西流通が盛んになったと考えられます。

 朝鮮半島に近接していた九州北部では、紀元前1世紀頃から吉武高木遺跡(早良のクニ)、1世紀頃から須玖岡本遺跡群(奴国)、三雲南小路遺跡・井原鑓溝遺跡(伊都国)が興り、特に三雲南小路遺跡では朝鮮半島系の土器が多数出土しています。
 山陰でも、潟湖に面した山持(ざんもち)遺跡(出雲市)、青谷上寺地遺跡(鳥取市)で朝鮮半島系の交易用土器が集中して出土しているため、半島との交易が盛んだったことが窺えます。

 同じく壱岐の原の辻遺跡でも朝鮮半島系の土器が多量に出土するので、専門家の間ではこの交易を「原の辻~三雲交易」と呼ぶらしい。

 紀元前1世紀頃から(3世紀前半まで)、朝鮮半島楽浪郡~対馬~原の辻(壱岐)~三雲(伊都国)~比恵那珂・須玖岡本(奴国)~山持(出雲)~青谷上寺地(因幡)の交易ネットワークが機能していたということですね。

 

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  <池淵俊一氏の著作から一部改変して転載>

 

 朝鮮半島系土器には楽浪郡でつくられた楽浪土器と半島南部でつくられた三韓土器があります。
 これらの出土状況を確認すると、九州では、北部の玄界灘沿岸地域や対馬・壱岐で多数出土するが、同じ北部でも内陸部や、九州中部ではほとんど出土しない。
 また吉備や近畿では三韓土器が少数出土するが、大多数は日本海側の山持遺跡、青谷上寺地遺跡に集中しています。
 鉄器についても瀬戸内側よりも日本海側の出土量が卓越しています。
 出雲は紀元後に最盛期となりますが、半島との交易は直接ではなく九州北部を介していたと考えられます。


3世紀半ば~3世紀後半
 ところが3世紀後半になると、朝鮮半島との交易は、西新町(博多)を窓口とする交易に移行したと考えられます。このフェーズでも出雲は重要なポジションを維持します。
 九州北部で楽浪土器が激減、代わって半島南部の三韓土器が主体となります。
 交易拠点も、伊都国(糸島)のウエイトが低下し、博多湾やその後背地である福岡平野がウエイトを高める。博多湾では西新町(にしじんまち)遺跡が中心となり、博多湾岸が一大交易地に。
 この時期、山陰の比重はさらに増し、出雲平野でも山持遺跡から古志本郷(こしほんごう)遺跡にウエイトが移ります。
 専門家の間では博多湾交易」と呼ぶようです。
 このネットワークは、朝鮮半島楽浪郡~対馬~原の辻(壱岐)~西新町~比恵那珂(奴国)~古志本郷(出雲)~青谷上寺地(因幡)ということになります。

 西新町遺跡では、多くの朝鮮半島系の遺物とともに、九州北部・近畿・吉備・山陰系の広域由来土器も出土しています(第18回ブログ)。でもこのことが直ちに西新町を中核とする政治的な結びつきや連合を意味しないのは当然ですよね。
 大和の纒向で広範囲の土器が多数出土するので、土器の移動元である各地の豪族が連合して初期の王権を共立した(第18回ブログ)という政治連合(共立)説がありますが、纒向の調査が進んでいるから纒向に集まった土器だけが話題になるが、これは当時、別に珍しい特異なことではなかったのです。それとも西新町にも共立された権力主体があったというのでしょうか。そんなことはありません。

 3世紀末~4世紀前半は、西新町遺跡に半島系土器や列島内諸地域の土器の出土が増え、博多湾交易の最盛期を迎えます。
 何と言っても多いのが山陰系土器で、文様の特徴から出雲が中心となっていたようです。山陰系土器は朝鮮半島でも出土しているので、博多湾交易においては出雲が重要な役割を担っていたと推定できます。
 畿内の土器も一定量存在しており、大和地域の勢力が関与を始めた兆候と考えられます。


4世紀半ば以降の交易
 4世紀前半になると、西新町は突如として廃絶し、古志本郷や青谷上寺地も衰退します。博多湾交易に依存しない新たな大陸との交易体制へ移行していったと考えられます。
 この頃、日本海側には丹後から石見にかけて一斉に前方後円墳が出現します。また玄界灘の沖ノ島で海上交通祭祀が始まります。これらは初期ヤマト王権などの畿内勢力が交易ルートに関与し始めた証拠と認められます。

 したがって、4世紀半ばの「博多湾交易」の衰退は、その前の「原の辻~三雲交易」も含めた「倭人伝ルート」に代わり、伊都国・奴国を介在しない新たな「海北道中ルート」(宗像から沖ノ島、壱岐、対馬を結ぶ)が機能し始めたことによると見られます。
 大和の勢力が九州北部の交易機構を介さずに直接、半島南部、とりわけ伽耶との交易に乗り出したのです。

 日本海ルートへの大和地域勢力の積極進出により、やがて日本海ルートで重要な地位を占めていた出雲の没落が始まります。
 ヤマト国や葛城など大和地域の豪族がこぞって日本海ルートへ進出し、九州北部を介することなく直接、朝鮮半島との交易に向かうことになっていきます。

 この時期、大和・丹後・石見・宗像は交易面から強く結びつくわけですが、やがて大和は政治的にも大きな影響を与えていきます。これについては、ヤマト王権の版図拡大のブログでの中で言及したいと考えています。


 次回、稿を改め、古代山陰の雄、出雲について補足します。


参考文献
『よみがえる古代の港』石村智
「邪馬台国から古墳の時代へ」『古代史講義』
『出雲と日本海交流』池淵俊一
『海の向こうから見た倭国』高田貫太
他多数