理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

65 3世紀頃までの九州北部・山陰の東西交易(2)

f:id:SHIGEKISAITO:20200908093738j:plain  <宍道湖北岸の蕎麦畑>

 前回の続きですが、古代の出雲と因幡について補足します。

出雲政権はあったのか?
 古代史を検討する際に避けて通れないのは、「出雲の隆盛と国譲り」に関する論考です。
 まずは、「3~4世紀の大和政権誕生に先立って、西日本全域を支配した出雲政権があった」という説は、明確に否定しましょう。これは『記・紀』の記述がもとになってつくり出されたトンデモ古代史です。

  政権中央が編纂した『記・紀』の神代巻、とりわけ『古事記』では出雲神話をかなり特殊な視点で扱っていて、出雲地方で編纂された『出雲風土記』とは内容が大きく異なります。
 『出雲風土記』の出雲神話には国譲りの話は載っていません。スサノオとヤマタノオロチの神話も載っていません。
 肥後和男氏は、「載っていないのは、出雲の人々がその土地で、この話を語っていなかったからで、話そのものはむしろ大和で成立した思われる。その舞台が出雲に求められていることは、何かの歴史的理由による」と言っています。筆者もそう思います。

 また門脇禎二氏は、「神話に出雲のことがよく出てくるので、出雲の古代史を考える場合に、とかく神話を通して出雲を見るという見方が強くなるが、神話以外の文献史料や遺跡、遺物も重視すべき」とも言っています。大賛成!

 大和政権誕生に先立つ出雲政権という幻想は捨て去りましょう。
 弥生末期までの日本に、日本の広域を支配する大王などは、当然存在しません。各地に優秀なリーダーに率いられた多数のクニが存在しましたが、列島レベルで眺めてみればスカスカの状態です。出雲に限らず大和であっても広域統治は不可能です。偏に広域支配に欠かせない交通インフラが未熟なままだったからです。

 仮にニギハヤヒがヤマト王権以前の先住者だったとしても、それは、せいぜい河内から大和盆地でのことです。仮にオオクニヌシが君臨したといっても、それは出雲地方という地域限定の王であった。
 地域ブロックの中でのローカルな説話・伝承であれば、面白くもあり、それを古代史に落とし込める可能性もあるのですが……。
 「国譲り」は、西日本の広域を治めていた出雲の政権を大和系が奪取したというような大規模な政権交代ではありません。

 

 紀元後には四隅突出型墳丘墓が日本海沿岸に点在するようになります。
 四隅突出型墳丘墓は、方形墳丘墓の四隅がヒトデのように飛び出した特異な形の大型墳丘墓で、その突出部に葺石や小石を施しています。

 出雲地方がもっとも多いが、伯耆や安芸にも分布し、丹後を通り越して遠く北陸地方(福井・石川・富山の各県)にも分布しているので、あたかも出雲政権があったかのように思いますが、これをもって出雲による日本海政権があったとするのは無茶です。四隅突出型墳丘墓が広域に分布するのは単なる伝播の結果です。
 ただし出雲は、九州北部から北陸方面までを含む交易の中心的な存在であり、日本海文化交流圏の盟主であったとは言えましょう。無論、文化交流圏の盟主であって日本海政権ではありません。
 出雲の栄枯盛衰と出雲神話との関係については、稿を改めていずれ論究するつもりです。


古代出雲の地勢
 筆者は、2013年10月、3回目の出雲ドライブ旅行をしました。
 出雲大社に参拝した後、日御碕、雲州平田と回り、宍道湖北岸を経由して佐陀、松江、美保関まで向かい、帰りは境港を起点に弓ヶ浜から松江までというコースです。翌日は神魂神社・熊野大社他の有名古社に参拝し、大雑把に言えば宍道湖と中海のまわりを巡ったことになります。
 佐陀では大社造本殿が三殿も並立することで有名な佐太神社に参拝できました。

 島根半島の背骨となる高さ200~500メートルの丘陵を背景にしたそば畑の風景が印象的。ブログトップのアイキャッチ画像はその時のものです。
 当地では、宍道湖まわりに限らず山間にも小さな平野があちこち広がるのを確認しました。そういう場所に興ったであろうクニやムラを思い浮かべてみました。なかでも出雲平野が広い。現在の斐伊川(ひいかわ)はこの広々した出雲平野を下って宍道湖へと注いでいます。

 

 しかし、古代出雲の地勢はいったいどんな状況だったのでしょうか。
 約1万年前の島根半島は中国山地側の陸と一体化していて、宍道湖や中海は形成されていません。7000年前頃には海面が上昇して、西から古宍道湾が、東からは古中海湾が入り込み、中国山地側と切り離された島根半島の原形が出来上がったようです。f:id:SHIGEKISAITO:20201018172614j:plain 
 <須藤定久氏の著作を一部加工して転載>

 つまり100キロの長さの出雲水道が出来たわけで、これが縄文時代の交通・交易に大きく寄与します。その後、海面がやや下がり、西側の神門水海(かんどのみずうみ)と呼ばれる潟湖と東側の古中海湾の間に古宍道湖が出現しました。

 紀元後まもなくの斐伊川は出雲平野を北から西へ屈曲し神戸水海に注いでいました。
 その後、斐伊川神戸川(かんどがわ)が中国山地から多量の真砂を流下させ、宍道湖低地帯を埋めて広い三角州平野(出雲平野)を形成します。

 その斐伊川は土砂の大量流出で暴れ川と化し、江戸時代初期の大洪水により、現在見られるように東方の宍道湖へと向かうようになったわけです。神門水海も干潟化が進み、小さな神西湖(じんざいこ)となり、神戸川も神西湖を避けて日本海に注ぐように付け替えられて現在に至っています。
 一方、日野川からは多量の真砂が美保湾へ流出し、それが強い沿岸流に流されて弓ヶ浜半島が形成されました。


日本海交易の要所だった古代出雲
 縄文時代の島根半島は、海進の影響で中国山地側から切り離され「半島」ではなく「島」であった。
 出雲平野と松江平野は水没していたので、日本海を西から進んでくれば、大社から中海を経て境水道まで東西を貫く100キロの出雲水道が、交通・交易上の大きなポテンシャルだったわけです。この水路は冬でも穏やかなので、丸木舟を使う交易が容易だったわけです。

 古代出雲が強国であったその力の源泉は、東西100キロの島根半島が天然の水路を形成して「鉄の道」、「翡翠の道」の中継地となり、勾玉がこの道に乗って東西に運ばれていたことにある、と語るのは長野正孝氏です。
 但し、長野氏の言う「強国」という表現はいただけません。それと「鉄の道」として使われる時には、出雲水道の西側は閉じていました。

 弥生時代後期以降、斐伊川から流れ出る土砂が堆積して沖積平野をもたらし、湿田を開発する集落が増加し、やがて農業共同体が生まれます。
 また斐伊川・神戸川の土砂によって大社湾に発達した砂嘴が形成した潟湖(神門水海)の存在が、交易に大きな役割を果たします。
 出雲が日本海ルートにおいて重要な役回りを演じ始めるのは紀元前1世紀頃からですが、最盛期は紀元2世紀から3世紀初め頃です。

 

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      <紀元前後の出雲平野>

  古代出雲が栄えた理由は、まず日本海ルートの九州北部から北陸までの東西の中間点に立地していることです。中継点機能に相応しく、灯台的な役割を持つ日御碕と美保関が日本海に突き出していました。
 対馬海流が東進してまずさしかかる大きな岬が杵築で、そこには神門水海があって重要な港の機能を果たします。
 そこを押さえた現地の勢力は、出雲西部地域にとどまらず、日本海ルートの東西に広くつながる世界にも勢威を誇ったわけです。
 神門水海に流れ込む斐伊川・神戸川の周りには集落が形成され、農業が営まれます。海運・舟運に便利な立地が選ばれたわけです。
 やがてクニの規模となる墳墓群のある有力な集落が展開します。


古代出雲の全盛期は紀元2世紀頃
 一口に古代出雲の全盛期と言っても、出雲王国のような大層なイメージを思い浮かべると実態を大きく見誤ります。
 律令制で言うところの出雲国の範囲に、統一された勢力があったわけではなく、「クニ」の規模の集落がいくつも存在していたわけです。点在ですね。
 その点在するクニやムラを大きくくくれば、西部地域と東部とでは様相がかなり異なっていました。

 西部地域は、今の出雲市を中心とする斐伊川下流域や神戸川付近を指し、東部地域は、意宇川周辺を中心として、安来市、米子市、大山町や、勾玉づくりの玉造のあたりまでも含みます。
 古代出雲には、いくつものクニ・ムラに相当する集落があったわけです。
 九州北部で奴国・伊都国・早良国と呼ぶが、筑前と呼ばないのと同じです。

 

〇 出雲地域西部
 まず西部ですが、西部地域の斐伊川下流域では、第64回ブログで言及したように、紀元前1世紀から3世紀前半までは 潟湖に面した山持遺跡、3世紀後半からは、神戸川に面した古志本郷が栄えます。


 出雲西部の斐伊川下流域や神戸川が流れる神門郡一帯は、荒神谷遺跡加茂岩倉遺跡などが残され、紀元前からの青銅器文化の繁栄をしのばせます。

 荒神谷遺跡からは、銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が同じ場所から出土しました。全国で出土した銅剣の数をはるかに上回る大量の銅剣が整然と4列に並べられた状態で出現しました。
 加茂岩倉遺跡からは銅鐸39個が出土しました。
 これら青銅器の製作時期は紀元前2世紀頃かとも推定されていますが、埋納時期は紀元前後から後1世紀頃までとされているようです。

 これらの事実から、紀元前後の出雲地域が九州北部と肩を並べる青銅器文化の先進地域であることが認められますが、これをもって「出雲王国があった!」と、いわゆる「王国」という言葉をもって出雲地域の全域を支配するような単一の権力があったかのように考えるのは誤りです。

 木村博昭氏の著書には「これらの遺跡は古代出雲王国が確かに実在したことを証明するだけでなく、ヤマトが建国される前の1世紀から2世紀に日本で最も影響力を持つ国に成長して、邪馬台国やヤマト建国を主導した可能性を否定できない」という文言が載っています。ファンタジーそのものですが、この類の論考はかなり多くの古代史本に見られます。

 この時期の出雲地域には、九州北部と同様に様々なクニ・ムラが存在していて、やっと統合の流れが加速し始めるところです。
 それはともかく、動機は謎とされていますが銅鐸や銅剣の大量埋納をもって青銅器祭祀が終了したのは事実のようです。1世紀末までのことです。

 

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 <加茂岩倉遺跡から出土した銅鐸>
 
 青銅器祭祀の終了後には王墓祭祀が始まったようです。
 2世紀には四隅突出型墳丘墓が出現し、以後、陸続と築造されますが、3世紀半ばの西谷9号墓を最後に突然、途絶えます。その後、斐伊川下流域では4世紀後半まで古墳が築造されません。

 

〇 出雲地域東部
 
一方、東部では、紀元後1世紀から2世紀後半、米子からほど近い大山山麓の晩田山丘陵全域に、妻木晩田(むきばんだ)が防御性の高い大規模な高地性集落を展開します。妻木晩田のクニは伯耆から米子にまたがり、吉野ケ里の3倍(~5倍とも)の大きさがあったようです。
 これをもって、西日本の広域を巻き込む倭国大乱があった証拠という研究者もいますが、倭国大乱は九州北部の地域ブロック内での戦いです。

 妻木晩田は、弥生時代に大山山麓に存在したであろうクニやムラの中心的な大集落であったと考えられます。1世紀前半~3世紀前半にかけての、竪穴住居跡約450棟、掘立柱建物跡約510棟、山陰地方特有の形をした四隅突出型墳丘墓などの墳墓39基や、環壕などから成っています。

 環壕が掘られ、四隅突出型墳丘墓が出現したのは1世紀中頃です。四隅突出型墳丘墓は、中国山地の三次(安芸)に次いで、出雲西部ではなく、東部の米子で出現したことになります。
 その後、ムラの人口が増えるにつれて住まいの範囲は広がっていき、妻木晩田遺跡は2世紀後半が最盛期で、その後、少しずつ衰えていき、古墳時代の初め頃には住まいがほとんど見られなくなるのです。

 

 その後、意宇(おう)を中心とする出雲東部でも、2、3世紀から四隅突出型墳丘墓が出現します。中仙寺墳墓群、宮山墳墓群、塩津山墳墓群などです。
 東部では「国引き神話」が生まれ、熊野大神や神魂神(かもすのかみ)が崇拝されるなど、独自の文化があった。同じ出雲でも東部と西部ではかなり歴史的様相は異なっていたのです。

 

 以上を総括してみれば、3世紀頃までの古代出雲では、
 西部では西谷(にしだに)墳墓群を核とするクニ、東部では塩津山(しおづやま)墳墓群を中心としたクニが、近隣の中小勢力(小規模なクニやムラなど)を傘下においていたと思われます。しかしグリップは強くなく、様々なクニ・ムラが並立し、互いに交易していたと考えられます。これが古代出雲の実像です。

 6世紀後半になると、西部では今市大念寺古墳、上塩冶築山古墳などの前方後円墳が築造されます。
 一方、東部では前方後円墳ではなく、山代二子塚古墳などの前方後方墳が集中します。この不思議!

 4世紀後半から6世紀は、ヤマト王権が日本海ルートに進出し、出雲にも足掛かりを築く時期です。西部は神戸氏が物部氏と結びつき、東部は意宇氏が蘇我氏と結びつくが、587年の丁未(ていび)の乱で、物部が蘇我の軍門に下ると、出雲西部に大きな地殻変動が起きます。

 このあたりの、出雲地方が国としての体裁を作り上げていく歴史については稿を改めて深掘りしたいと考えます。

 次回、四隅突出型墳丘墓と青谷上寺地遺跡についてもう少し掘り下げてみます。

 


参考文献
『よみがえる古代の港』石村智
「邪馬台国から古墳の時代へ」『古代史講義』吉松大志
『出雲と日本海交流』池淵俊一
『出雲平野と宍道湖・斐伊川の砂』須藤定久
『海の向こうから見た倭国』高田貫太
『神話・伝承と古代文化』肥後和男
『古代日本の地域王国とヤマト王国』門脇禎二
他多数