理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

66 3世紀頃までの九州北部・山陰の交易(3)

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 前回の続きとして、四隅突出型墳丘墓と青谷上寺地遺跡について補足します。

四隅突出型墳丘墓
 ヒトデのような格好の四隅突出型墳丘墓ですが、これら出雲の墳丘墓と吉備の楯築墳丘墓は、ほぼ同時期に存在したと推測されています。
 そして、西谷3号墳丘墓の埋葬施設が楯築墳丘墓と同じような構造の木槨墓であり、埋葬儀礼に用いた土器の中に吉備の特殊器台・特殊壺や山陰東部や北陸南部からの器台・高杯などが大量に混じっているのです。
 西谷3号墓から吉備で作られた特殊器台が発見されているということは、出雲と吉備とのあいだの深いつながりを暗示しています。

 その一方、吉備地方では四隅突出型墳丘墓が築かれていないことも見過ごせません。深いつながりがありながら、なぜ、吉備地方には四隅突出型墳丘墓が築かれなかったのでしょうか。

 四隅突出型墳丘墓は、紀元後に出雲地方を中心とする山陰で造られた墳丘墓ですが、その経時的変化を眺めると、概ね三次→伯耆・因幡→出雲→北陸→東北(古墳前期)の順になっています。
 すなわち、出雲地方より伯耆地方の出現時期の方が早いのです。こうしたことから、伯耆地方まで連続的な文化的つながりがあると考えられるため、特に弥生期では出雲と伯耆(鳥取県西部)をまとめて出雲文化圏とする向きもあります。
 また、丹波・但馬・若桜(わかさ)地方には存在しないことも見逃せません。


 山陰では、出雲のほかにも因幡・丹後あたりが隆盛し、因幡の青谷上寺地などの大きなクニが存在しました。
 ちょっと飛びますが東海地方などでも近江の伊勢遺跡に見られるように大きなクニが幾つか存在しました。この時期、大和地域にも多くのムラが存在しましたが、纒向遺跡は影も形もありません。ムラもない無主の地だったと思われます。

 

青谷上寺地遺跡
 因幡の青谷上寺地集落(鳥取市)も日本海ルートを介した一大交易拠点だった。かつての青谷潟湖に面して広がっていた低湿地帯に形成された。
 土器の出土状況から、北陸など日本海側東部沿岸地域の窓口として、九州北部を介さずに直接、朝鮮半島と交易を行なっていた節があります(池淵俊一氏)。
 朝鮮半島系土器や九州北部の土器の出土は少ないようです。代わりに出土した土器は、吉備・丹後・北陸のもの多い。
 こうしたことから、同じ日本海沿岸でも東部地域との関係が深かったと推定されています。

  一方、半島でつくられた鉄器が多量に出土することから、池淵俊一氏は、九州北部を介さずに直接朝鮮半島と交易していた可能性もあるとしています。これは、同じ山陰でも出雲の山持遺跡とは交易のあり方に大きな違いがあるわけです。
 
 出土した人のDNAを調べた結果、調査できた32人のうち母系は31人が渡来系で縄文人は1人だけ、一方、父系は4人のうち3人が縄文系で1人が渡来系だったといいます。母親は大陸にルーツを持つ渡来系という極めて特殊な構成で、これが何を意味するのか大きな謎ではありますが、確かに青谷上寺地は大陸との交流の一大拠点であったのかもしれません。

 青谷上寺地遺跡は閉鎖的な集落ではなくて、列島各地との交易拠点であったとも推定されているようです。鉄器、木工品が豊富に出土することもそれを裏付けている。なかでも木工品は青谷ブランドと呼ばれるほど精巧で技術力の高さが特筆される。

 鋳造鉄器に加えて、紀元後には鍛造鉄器が加わり、鉄器の量が増え始めます。
 鍛造鉄器の産地として有名な半島東南部の弁辰地域では、濊、馬韓とともに倭人がやって来て鉄を買っていたとされている。この倭人とは、列島にいた弥生人か、半島南部から九州北部一帯に居を構えた海洋民の可能性が高いと思われます。
 
 しかし、青谷上寺地は4世紀半ばまでには、衰退してしまいます。西新町の廃絶や古志本郷の衰退と軌を一にしています。
 これはヤマト王権が、九州北部が介在する「博多湾交易」によらず直接、朝鮮半島南部との交易に乗り出したためと考えられます。

 青谷上寺地遺跡から散乱状態で見つかった100体を超える人骨。そのなかに見られる10体以上傷ついた人骨。これは何を意味するのでしょうか?
 倭国大乱の証拠とする研究者は大勢いるようです。筆者はこれに異を唱えますが、いずれ邪馬台国に言及するときに詳述したいと考えます。

 古代の交易に関する5回にわたるブログを終えるにあたって、「交易の対価」について興味深い論考を引用します。


交易の対価は何か?
 出口治明氏の論考に、次のような興味深い一節がありました。
 <交易を理解する上で最も重要なキーワードは、「決済」です。当時の日本が鉄をもらった代わりに何を差し出していたのか、わかりますか?
 それは人です。
 おそらく傭兵です。紀元前1世紀から6世紀まで、それは変わりませんでした。(中略)ヤマト王権が6世紀にかけて、日本全体を統合していきました。
 このように日本の状況は相当に変わっていったにもかかわらず、傭兵を出しては鉄や先進文化を得る交易が続き、それで日本の屋台骨を支えられたのはなぜか。
 それはその間ずっと中国大陸でも朝鮮半島でも戦争が続いていたからです。(中略)特に4世紀半ばから朝鮮半島では、高句麗、新羅、百済の三国が常に角逐していました。(中略)日本の傭兵はどこでも大歓迎されました。
(中略)古代の日本は朝鮮半島に積極的に軍事介入をしていたと思われていますが、傭兵を送り込み、その見返りに鉄や先進文化を得ていたのが実際のところでしょう。>

 確かに、倭国王帥升の時代(107年)から「生口」を差し出していたという記録がありますね。4世紀頃には盛んに倭が攻めてきたという半島側の記録もあります。

 一方、北條芳隆氏は、異なった観点から交易の対価について述べています。
 <富の源泉はいつの時代でも交易であり貨幣であった。
 では倭人社会における貨幣とは何か。
 それは疑問の余地なく稲束と稲籾であった。(中略)水稲は、食糧としての使用価値だけでなく、遠隔地との交易でも高い交換価値をもち、貨幣としての機能を担ったといえる。
 (中略)弥生時代の日本列島各地での様相をみれば、こうした稲束や稲籾がもつ現物貨幣としての特質をいちはやく活用したのは北部九州地域だったといえる。(中略)大規模灌漑跡は、稲籾を朝鮮半島や琉球列島との交易の原資として活用する動きの一環であったと捉えられる。
 稲は南海産の貝殻に応じる貨幣であったし、青銅器や鉄器にたいしては劣位な商品側におかれ、相手側の提示する価格に沿った取引を余儀なくされたであろうが、奴隷を添えれば稲籾での購入も可能だったと推定される。>


 私たちは、ともすれば鉄や先進技術・文化などの獲得の方だけ注目しますが、相手側に十分な対価を提供できた勢力が、日本列島における合従連衡を勝ち抜けたということでしょうね。

 

 3世紀頃までの九州北部から山陰までを一通りなめてしまったので、邪馬台国に触れないわけにはいきませんね。
 このあと邪馬台国関連にアプローチしたいのですが、その前に九州北部と山陰の交易に深く関与した海の民(海人集団)について言及しておくことにします。

 

参考文献
『よみがえる古代の港』石村智
「邪馬台国から古墳の時代へ」『古代史講義』吉松大志
『出雲と日本海交流』池淵俊一
「交易から見れば通史がわかる」『日本史の新常識』出口治明
「前方後円墳はなぜ巨大化したのか」『考古学講義』北條芳隆
他多数