理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

67 古代のダイナミズムを生んだ海の民(1)

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 弥生時代末期から3世紀頃までの日本海側の交易について概括したので、今回は、第52回・53回ブログで予告した「海の民の活躍」について考えてみます。

チャレンジ精神で交易を担った海民集団
 現在の日本は、4つの大きな島を含め合計6852もの島から成りたっています。
 これだけ多くの島を抱える国は、インドネシアやフィリピン以外にはない。海の民はこれら多くの島を拠点とした。彼らの活躍なくしては、古代日本の発展はあり得なかったでしょう。
 すでに第38回と第53回のブログで言及したように、日本の近海は世界でもっとも厳しい荒海の一つとされます。沿岸に沿って進む「地乗り航法」であればともかく、列島周りの海流は非常に速いので、時速3キロくらいの丸木舟による外洋航海は簡単ではありませんでした。

 それでも海の民は、旺盛な好奇心やチャレンジ精神を持ち、その優れた特性が、シナや朝鮮半島の先進文化・先進技術の獲得に大いに寄与してきたことは今までに述べた通りです。
 海の民は渡来系の海洋民族で、基本的に陸の民とは異なる行動規範を持っていました。古代においては、海上の道は陸上の道よりもはるかに利便性が高く、これを特権的に利用する海洋民族は、地理観や行動もよりダイナミックで、国際性を先天的に身につけていたといえるでしょう。
 また、日本列島内においても、潟湖や河口を利用する「地乗り航法」によって自然の障壁で隔てられたクニや地域国家の間の物流や情報の授受に寄与した。
 彼らなくしては、古代の日本列島は閉鎖空間として静的なまま推移していたでしょう。

 彼らの進取の精神に富んだ遠距離交渉と情報のやり取りによって、地域集団による産物の特化が進んだ側面(第50回ブログ参照)もあります。
 古代のダイナミズムは海の民によってもたらされたと言えるでしょう。

 以下、海という自然の障壁をものともせず、古代の交易に多大なる貢献をし、同時に政治的な影響力を行使できた海民集団の実像について言及します。


海民集団による古代の優れた航海術
 海人族の卓越した航海術については、陸のにおいを感じとったり、目視できない遠方の島の存在を雲の有無と形で予測したり、海流・潮流の存在、季節風の存在、台風に襲われる時期などにも目配りしていたことを、第26回ブログで列挙しました。

 さらに茂在寅男氏は、次のような興味深い指摘をしています。
 海人族が、古鏡(沖つ鏡・辺つ鏡など)裏面の円周を8とか12などの数で分割して、方位盤や太陽羅針盤として使用した可能性についてです。
 方位盤上の現在時刻を太陽の方向へ向けると、方位盤上の子午線で南北方向が確定する。これによって太陽が出ている限り方位を大きく誤ることはなかったというのです。

 古代人は潮の満ち干の時刻も予知できたに違いありません。
 潮汐は大雑把にいうと月の引力によって制御されます。月が自分の位置を通る子午線上にきた時、自分のところは満潮になる力を受けるが、海水は瞬間的に移動することはできません。
 日本の太平洋沿岸ではその時間遅れ約6時間らしい。
 自分のところが実際に満潮になるのは6時間たってからなので、その時はすでに月が西の地平線に没しようとする時になります。
 したがって「月の真上時は港に潮なし」「月の出入りに潮が満つ」といわれたのです。
 太平洋沿岸以外では時間遅れがそれぞれ異なるが、古代人は自分のテリトリーの時間遅れを把握していたようだ。経験的に、潮汐現象が月の支配下にあると承知していたのです。
 『日本書紀』一書第6にある<月読尊は、うなばらの潮の八百重(やおえ)を治(しら)すべし>は、ここからきているのでしょう。


海の民・海人・海部
 縄文の昔から海の民によって広域にわたる交易が行なわれてきたが、当時は国家という概念がなかったので、かえって制約なく自由に雄飛できたようです。航海術を磨いた海の民が集団として組織だって活躍するのは紀元前後からでしょう。
 海の民は、やがて海人(あま)とか海部(あまべ)と呼ばれるようになります。

 ヤマト王権が人制(ひとせい)を導入して海人として組織化したのは5世紀後半の頃。
 部制(べせい)成立の6世紀以降、海人は海部に改組され、ヤマト王権の直属組織となって政権に取り込まれていきました。
 こうした統制の動きの中心的役割を担ったのは安曇氏です。

 10世紀編纂の『和名抄』には、海人の住んだところは海(あま)または海部(あまべ)として記されています。安芸・阿波・淡路・紀伊・尾張など9ヶ所の他、九州北部に宗像・那珂など4ヶ所、日本海側に丹後など4ヶ所、合計17ヶ所が確認できます。
 それらの地域にはその数百年前から海人が居住していたに違いありません。

 海の民がすべてこのように組織化されたかというと、実態は少々違うようです。宮本常一氏の論考にあります。
 瀬戸内海東部や九州西部では、陸に上がらず海上漂泊する漁民が少なくなかった。彼らは漁撈専業で、生活の糧を陸に依存しないので陸地の占有権も認められず、「海部郷」が成立しなかったということです。


主な海人族の性格
 おもな海民集団には、外洋航海型海人族である宗像海人族と、沿岸航海型の安曇族やその傍流である住吉系の流れがあります。
 彼らは海洋展開能力を活かし、海部の名で全国に雄飛した。こうして陸上交通が機能しない古代にあって、遠隔地同士でも海上交通で結ばれ広域経済圏を形成できたのです。

 

 宗像族は玄界灘に浮かぶ沖ノ島を中継点に朝鮮半島に至る海上交通路で活躍し、また日本海側の出雲や石見ともつながり、一部は瀬戸内にも展開しました。
 安曇族は瀬戸内海を東進し、また日本海方面を北上した。
 住吉系は瀬戸内海を東進して摂津を拠点とした。彼らの一部は紀伊沿岸から伊勢湾、東海地方、伊豆、房総、常陸まで雄飛した。

 元来「安曇(アヅミ)」は「ワタツミ」であって、漁撈から航海の安全まで広く海全般を司る神だったが、のちに役割分担が進み、安曇は漁撈や航海に従事する航海民・海民たち・海産物の神としての性格を強めていったのに対し、航海神の役割は宗像神や、ヤマト王権が庇護した住吉神が担うようになります。
 安曇氏が海部の統制という役回りを担ったのはそのためでしょう。

 宗像の神と住吉の神は、ヤマト王権が海外に進出する過程で重要視された航海の安全に関わる海神といえます。

 

 宗像は、北九州を拠点とする海民で、出雲や石見との関係が深い勢力であったが、九州に進出したヤマト王権が4世紀後半以降、積極的に朝鮮半島に進出する過程で、日本海航路及び九州と朝鮮半島の往来、つまり外洋航海の安全を司る海民として王権が重視し、宗像という地方神を国家神として取り込んでいったものです。
 外様の出自を持つ宗像に対して、住吉の神はヤマト王権自らが作り出した国家神的性格の非常に強い海神であり、日本全域(特に瀬戸内海と太平洋岸)及び難波から朝鮮半島に至るシーレーンや各地の港湾・航路の管理安全を担う国家海運統制の神ともいえるでしょう。

 海民集団の海部は各地で政治的な力を蓄え、日本各地に足跡を残した。
 5、6世紀にはその一部が、宗像氏、尾張氏、津守(つもり)氏、丹後海部(あまべ)氏など、クニや地域国家を取り仕切る豪族に成長した。
 地域国家も彼らの協力なくしては交易することができなかった。
 以下、彼らのプロフィールをもう少し詳しく確認してみましょう。

 

安曇族について
 海民集団の代表的な存在は、「ワタツミの神」を信奉する安曇一族です。
 神話のうえでは安曇氏は、綿津見命の子にあたる穂高見之命の子孫で、天皇家と出自を共有する名門ということになるわけですが、それはともかく祖先が海の民であったことは間違いないでしょう。

 彼らは、シナ大陸南部の越地方の海上漂泊民に起源を持ち、東シナ海を北上し、山東半島から遼東半島、朝鮮半島西岸を経て玄界灘に至り、志賀島を本拠地としたとされています。志賀島には彼らが祀る志賀海神社があります。

 『日本書紀』応神紀によれば、方々の海人が騒ぎたてて天皇の命に従わない。そこで安曇連の祖である大浜宿禰をつかわして平定させた。そのため海人は大浜宿禰につき従うようになったという。
 安曇族に率いられた海の民は、新興勢力であったヤマト王権と早くから結びつき、ヤマト王権の勢力拡大に貢献した。ヤマト王権は豊後・阿波・紀伊・尾張などに海部(あまべ)を置き、海の民の組織化を図りますが、その中心となったのは安曇氏です。

 安曇氏はヤマト王権の海外進出や交易に貢献してきたが、663年、安曇連比羅夫を総大将として臨んだ白村江の戦いで大敗し、半島との交易による権益を失い窮地に陥る。
 それでもなお海部の統率者として水産物供給の機能を束ね続け、海人族として皇室の食膳に関わりを持ち続ける。奈良時代になると、天皇の奉膳(ぶうぜん)には、高橋、安曇の両氏が任用される。
 御食国(みけつくに)との関わりは、高橋氏が志摩国と若狭国、安曇氏が淡路国および瀬戸内と色分けされます。
 792年の太政官符で、高橋氏を席次上位とする太政官令が出されたが、安曇宿祢継成はこの裁定(太政官令)に従わなかったため、佐渡へ遠流の刑となりました。裁定以後、天皇家の食事は高橋氏が独占し、安曇氏は中央政界から姿を消し完全に没落してしまいました。
 この間の経緯は、すでに第13回ブログの中で、「高橋氏VS安曇氏の確執」として言及しました。

 志賀島付近を根拠とした安曇族本流は没落するも、それ以前に一族は広く列島各地に雄飛していたようです。信州の安曇野、滋賀県安曇川、三河の渥美、伊豆半島の熱海などにその名残が見られます。安住・安積・尼崎などもその可能性があり、奄美も、という研究者もいます。

 安曇氏に率いられた海人の海村は各地にあったが、瀬戸内海東部の大阪湾沿岸・淡路島・播磨灘沿岸・阿波などにはおびただしい海人が住んでいた。
 6世紀、朝鮮半島の交易拠点であった伽耶を放棄してからは外征もなくなり、海人が多すぎて漁撈のみで生計を立てることは難しく、生活は困窮に。
 平安時代になると、彼らは海賊まがいの行動に出る始末に陥った模様。


宗像氏について
 安曇氏が海産物を獲るのに長けていたのに対して、宗像氏族は外洋航海型航海術に長けており、安曇氏の拠点であった志賀島から30キロほど東の鐘ヶ崎など宗像一帯を拠点とした。「むなかたの神」を信奉し、拠点は後に宗像大社として発展します。古代は大社の脇を流れる釣川の上流部まで海が入り込み、交通の要衝地でした。

 なぜ宗像の地が繁栄したかについては、長野正孝氏の論考が参考になります。
 縄文海進の名残で、現在の宗像市から福津市の沿岸部には、海岸の内側に大きな潟、内湾がつくられ、それが東西に繋がり、荒れる玄界灘と隔絶した穏やかな内海を形成しており、丸木舟で容易に往来できた。
 伊都国があった糸島半島も、当時は半島ではなく島で、内海、潮が入る温かい湾があったと言います。
 玄界灘は、冬は無論、夏でさえも荒れればどんな漁もできないが、穏やかな潟や内海での素潜り漁や丸木舟を使った漁が可能だったわけです。

 彼らの祖は、インドネシア系の海の民で、縄文時代に黒潮に乗ってフィリピン、奄美、南九州経由でやって来た隼人の一派が宗像に至ったという説があります。
 宗像氏の系図では、オオクニヌシ6世の孫にあたる吾田之片隅命の子孫とされますが、吾田は阿多に通じるので、阿多隼人族とのつながりが指摘されているわけです。
 阿多一族から分派したグループが九州北部に移動し、ヤマト王権の成長期に乗じて勢力を拡大したと……。しかしこの説の真偽については何とも……。

 彼らは鐘ヶ崎に定着した後、潜水漁撈と航海技術を携えて列島各地に進出した。
 特に鐘ヶ崎は舟で日本海沿いに北上するには最適地。
 そこで日本海側に進出し、出雲や石見との往来で濃密な関係を結び、また5世紀後半には瀬戸内海航路にも関係し安芸(厳島神社のもともとの祭神はイチキシマヒメ)辺りにも進出した模様。

 8世紀末に没落してしまった安曇氏と異なり、宗像氏は16世紀後半まで勢力を維持します。大宮司家は次第に武士化し、戦国時代には九州北部の戦国大名としても活躍します。
 瀬戸内海航路でも活躍したことから、中世の水軍である伊予の越智氏、そこから派生した河野氏、さらには豊後の緒方氏は、宗像氏と源流が重なるのかもしれません。
 宗像氏が大きく成長したのは、航海術を駆使して大陸との交易に乗り出したことにありますが、釣川の流域に豊かな穀倉地帯という後背地を確保し、経済的な支えとなったことも大きな要因です。


 宗像氏を語る場合に避けて通れないのが玄界灘に浮かぶ沖ノ島の存在です。
 4世紀以降7世紀にかけてヤマト王権が朝鮮半島に進出した時期には、半島への外征と航海の安全を祈るために、沖ノ島の女神がヤマト王権の信仰を集め、宗像は祭祀者だけではなく交易者としても勢力を拡大し大きな権益を得たのです。
 秀吉によって領地を没収される16世紀後半まで勢力を維持できたのも当然でしょう。

 宗像大社の祭神は、アマテラスとスサノオの誓約(うけい)から生まれたイチキシマヒメ・タギツヒメ・タゴリヒメの宗像三女神とされますが、これはもちろん神話の上での話です。
 事実は、沖ノ島の女神信仰が6世紀の後半に3分割されて、九州本土の辺津宮・大島の中津宮・沖ノ島の沖津宮に祀られたわけです。
 また宗像が、オオクニヌシ6世の孫にあたる吾田之片隅命の子孫として、オオクニヌシと関連づけられるのも、出雲との濃密な関係から、後世に作られた話でしょう。
 宗像氏がヤマト王権のみならず出雲から見ても重要な一族であって、一定の存在感を持っていた証しと言えます。

 8世紀になると南路の東シナ海航路が開かれ、王権の使節が玄界灘を通って渡航する必要がなくなり、沖ノ島祭祀は沈静化します。
 沖ノ島祭祀と宗像氏については、ヤマト王権による版図拡大(九州北部への足掛かり)を論じる時に、深掘りすることにします。

 次回は、住吉の神と海人族、阿多隼人の実像について掘り下げてみます。


参考文献
『海に生きる人びと』宮本常一
『古代史の謎は海路で解ける』長野正孝
『宗像大社・古代祭祀の原風景』正木晃
『一宮ノオト』齋藤盛之
『海の古代史』布施克彦
『古代日本の航海術』茂在寅男
『神社の古代史』岡田精司
『住吉と宗像の神 海神の軌跡』上田正昭編
『大和王権の生成と海洋力』西川吉光
他多数