理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

68 古代のダイナミズムを生んだ海の民(2) 

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  <住吉大社 第二本宮本殿>

 前回に続いて、海の民について言及します。

 津守氏について
 安曇氏や宗像氏は、先進地域であった朝鮮半島から鉄器をはじめとする文物の輸入に深くかかわることでヤマト王権の権力基盤の強化に貢献してきました。
 しかし6世紀になると、鉄の国産化が本格化して朝鮮半島との交易の重要性が薄れ、さらに562年、交易拠点だった伽耶が滅亡することで、海部を独占していた安曇氏の凋落が始まります。

 これに乗じて海部だった諸氏が台頭した。
 名古屋辺りを拠点に尾張氏、丹後には海部(あまべ)氏が、さらに膳(かしわで)氏(のちに高橋氏)が若狭や志摩を支配して王権への水産物供給者の地位を確立、安曇氏から派生した凡海(おおしあま)氏が丹後や周防を拠点に活動するなど、海の民を出自とした豪族が台頭した模様。

 いずれ詳しく言及しますが、5世紀に葛城氏は、瀬戸内海を東進し大阪湾に構えた安曇氏と連携して水運・海運網の掌握に力を入れていた。ところが5世紀末になると葛城氏が雄略大王から狙い撃ちされて急速に没落。やがて中央での海人族の統率権は安曇氏から派生した凡海氏(大海氏)に移行します。

 天武天皇が大海人皇子(おおあまのみこ)と呼ばれていたのは、幼少期に凡海(おおしあま)氏に養育されたからと言われています。大海人皇子は尾張氏のもとで養育されたことから、当時の海部一族の伴造(とものみやつこ)であった凡海を名乗ったらしい。大海人は凡海のことです。
 壬申の乱では尾張の豪族たちが主力となって近江朝廷軍を破ったことは有名。この一事をもっても、凡海氏が天皇家といかに深いかかわりがあったかを物語っています。

 6世紀初頭には継体大王が中央に進出します。
 継体の盤石な政治基盤は、越前での実績を力の源泉として尾張氏・息長氏らの豪族と幅広く関係を結んだことによってもたらされた。そこで継体の中央進出にあわせて尾張氏系の豪族もこぞって中央に進出した。尾張氏系と近かった津守氏も当然のごとく大阪湾の住吉付近に進出します。
 そこで、安曇氏の後を引き継ぐように、津守氏は住之江津に拠点を構え、ここが後に住吉大社となるわけです。

 

 「記紀神話」においては、安曇氏の奉じる「ワタツミ三神」と同時に生じたのが「底・中・表筒之男(つつのお)神」、すなわち住吉三神で、神功の三韓征伐の成功を支えたとされます。
 岡田精司氏によれば、「底筒之男」の「ツツ」はツツで一つの語とみるべきではなく、上のツは助辞と見て、下のツは港津の津と解釈して、つまり難波津の神として理解すべきとしています。

 住吉大社の当初の祭神は住吉三神であって、7世紀後半になってから神功皇后が合祀されました。
 住吉大社は、大阪湾に向けて、第三本宮、第二本宮、第一本宮と、三神の一柱ごとに社殿を縦列に並べた異色のレイアウトで、神功を祀る第四本宮だけは、いかにも後から付け足したように第三本宮の横に配置されています。

 脱線しますが、古代史を考えるときに神功はまことにややこしい存在で、豊前にある宇佐神宮も、当初は八幡大神と比売神の2座だけだったのが、平安時代の823年になって神功を合祀して3座にしたものです。
 神功に関しては、数百年も後になって何らかの政治力が働いているんですね。この不思議については、「古代史本論・4世紀」のブログで深掘りする予定です。

 元に戻ります。
 住吉では当初、安曇族が海人族の神(底・中・表のワタツミ三神)を祀り、葛城氏のサポートを受けていた。その後、海人の神は津守氏による海神信仰に引き継がれていったということになります。

 住吉三神は津守氏の氏神ではなく、津守氏は当初は港湾の管理をする一族で、あくまで王権の伴造(とものみやつこ)として奉祀したわけです。
 少々ややこしくなりますが、津守氏の氏神社は大海神社(だいかいじんじゃ・住吉大社の摂社)です。津守氏の氏神と、字面が同じ凡海(大海)氏との間につながりがあるのかどうかはよくわかりません。

 安曇系が没落する中で、住吉三神の信仰は全国に広がり、津守氏も勢力を増し、外交・交易に手を染める有力な豪族になった。摂津・住吉の他にも和泉、讃岐、豊前などにも分布していた模様。

 ところで津守氏は、尾張氏や丹後の海部氏と同じアメノホアカリを祖としています。
 こうした伝承から、安曇氏の海部独占から抜け出して台頭した海洋交易者たちは元来同根だった可能性があります。


四住吉とシーレーン
 「一宮」としての住吉神社は3社あります。
 以前、筆者は「一宮めぐり」をするにあたり、創建の事情について種々考えました。そして『古事記』の記載から、壱岐の住吉を含めた住吉4社の創建は壱岐、筑前、長門、摂津の順と考えていました。
 『古事記』によれば、神功皇后は、住吉大神の和魂を体に、荒魂を水軍の先鋒とし、朝鮮半島に渡航した。その荒魂を新羅に鎮め、壱岐国に「住吉神社」を創建した。
 そして筑紫に凱旋した時に筑前国に(筑前の住吉神社創建)、また長門の豊浦宮を拠点にした時には穴門(長門)の山田の地に住吉三神の荒魂を祀り(長門の住吉神社を創建)、さらに難波に進攻した時には、目的達成の御礼に摂津に創建(住吉大社)したという。

 現に、壱岐の「住吉神社」の神社由緒略記によれば、
 <当神社は神功皇后御帰陣の際御親祭の由緒深き古社にして即ち住吉神社の草分けとも奉るべき日本最初の住吉神社総本宮なり、次いで御鎮斉あらせられたる長門摂津、筑前の住吉神社と共に日本四住吉の一にして古来式内名神大社長崎県下筆頭の古社として知られたり>
とあるわけです。

 今回、創建順について改めて調べてみると、それら四住吉は互いに関連性がなく、独立的に創建されていたようなのです。
 摂津にある住吉大社歴代宮司の津守氏は、安曇氏との血縁関係はなく、住吉三神を祖神と仰ぐ一族の末裔でもありません。
 また筑前の住吉神社は佐伯氏、長門の住吉神社は穴門氏で、社家は津守氏と別系統です。

 各地の港(津)を守る男神(筒男神)を祀るため、地域ごとに朝廷により氏族が配置されたが、その中で摂津の津守氏が国家祭祀を行う住吉大社宮司として力を持つようになったと考えられます。

 住吉三神のもともとの祭祀氏族は不明です。
 つまり住吉は、特定の海民集団の祀る氏族神をその起源とするのではなく、外征や海事海運政策を進める際の国家守護の神としてヤマト王権が祀り育んだものと考えたい。
 住吉の社に課せられた役割は、海民一族の繁栄や安全ではなく、公的な船舶の航海の無事を祈ることにあったということです。

 また『延喜式神名帳』に記載がある住吉7社のうち、陸奥を除いた6社は、摂津、播磨(加古川)、長門、筑前、壱岐、対馬と点在し、住吉神が難波から朝鮮半島に至る重要な港湾の管理や海運統制、それにシーレーンの安全確保を担う神であったことが窺えます。

 『日本書紀』神功皇后紀の伝説的記事を別とすると、確かな史料による「住吉」の文献上初見は『日本書紀』686年で、紀伊国国懸神・飛鳥四社・住吉大神に弊が奉られたという記事になります。
 住吉大社は特定氏族の氏神ではない点で性格を異にし(神職津守氏の氏神は大海神社)、伊勢神宮・石上神宮・鹿島神宮とともに古代王権にとって国家的機関の位置づけにあったと考える説もあります。

 国家神へと昇格した住吉の神は、遣唐使や遣渤海使の守護神としても信奉されます。神職である津守氏は、遣唐使や遣渤海使の主神をも兼帯しました。


阿多隼人族
 薩摩半島の南西部は、昔は阿多と呼ばれ、隼人族の居住地でした。
 彼らは後に大和政権に服属するわけですが、「海幸山幸神話」においては、勝者の山幸が後の天皇家に繋がり、敗者の海幸が阿多の隼人の祖ということになっています。  

 もっともその舞台とされる笠沙町は、近代の地名は西加世田村で、大正時代になってから笠沙と命名されたようです。『古事記』神話からの逆採用です。

 海幸彦は漁撈者集団を象徴化したもので、彼らは九州より南の海域を生業の場とした海民集団です。

 紀元2~4世紀頃、南の巻貝(ゴホウラ・オオツタノハ・イモガイなど)で作られた首輪・腕輪が西日本各地や朝鮮半島南部の遺跡から出土しています。
 九州北部を本拠地とする安曇族がこの南方の海域まで活動範囲を広げていたとは考えにくいので、この加工交易には阿多の海人族が関与していた可能性が高いと思われます。

 

 阿多隼人族の痕跡は奄美、沖縄まで認められるので、トカラ列島の海域にある七島灘という最大の難所を乗り切る航海術を持っていた模様。したがって彼らは黒潮に乗って南から島伝いに九州までやって来た南洋系種族の末裔の可能性があります。

 習俗の近似から考えれば、阿多隼人は黒潮に乗ってやってきたオーストロネシア系の人々ではないかという仮説があるので、以下、検討してみます。
 第36回ブログで言及した「グレートジャーニー」のうちアジアに達したグループの動きをさらに追いかけてみます。
 5万年前に東南アジアに達したホモサピエンスは、インドシナを経由して4万7000年前にはオーストラリアに達します。
 6000年ほど前には、シナ大陸から渡った一部が台湾から南北に散っていった。南下したグループはフィリピン、パプアニューギニアを経由して未踏の地であるタヒチなどの南太平洋に達し、最後の地であるニュージーランドには9世紀から12世紀頃に定住してグレートジャーニーは終わることを確認しましたね。

 一方、台湾からは南下だけでなく黒潮に乗って北上したグループもいたようです。
 台湾東海岸の花蓮にはアミ族がいて、彼らの伝統舞踊が観光の目玉となっています。
 筆者も現地でその舞踊を見学したことがあるが、ハワイなどの舞踊との共通性を感じました。彼らはオーストロネシア系の人種の一部とされているようです。
 彼らは先島諸島までは考古学的な痕跡を残すが、それより北の沖縄、奄美では痕跡が見つかっていません。沖縄・奄美で見つかる痕跡はどれもが九州方面からのものばかり。

 3万年ほど前の沖縄本島には台湾方面から先島諸島を経て渡ってきた湊川人などの存在が認められるが、彼らは現代に繋がる沖縄人の祖先ではない。沖縄人は九州方面から南下した阿多隼人の一族と考えられている。
 阿多隼人族がオーストロネシア系の末裔という仮説は、今のところ考古学的な痕跡がなく、決定打に欠けるようです。

 

 次回ブログでは、丹後を拠点に勢力を拡大した海の民、丹後海部氏について言及します。


参考文献
『海に生きる人びと』宮本常一
『古代史の謎は海路で解ける』長野正孝
『一宮ノオト』齋藤盛之
『海の古代史』布施克彦
『古代日本の航海術』茂在寅男
『神社の古代史』岡田精司
『住吉と宗像の神 海神の軌跡』上田正昭編
『大和王権の生成と海洋力』西川吉光
『薩摩から日本史を覗く』中村明蔵
『隼人の古代史』中村明蔵
他多数