<佐賀平野を吉野ヶ里遺跡へ向かう(前方は脊振山地)>
令和3年になりました。
初夢というわけでもないですが、正月にふさわしく、「楽しい?」テーマを取り上げてみようと思います。
筆者は、日本の古代史を俯瞰する際、邪馬台国の所在地はもちろんのこと、邪馬台国の存在そのものについてもあまり重視していません。しかし、世の中の喧騒をよそにまったく触れずに過ごすわけにもいかないので、今回から数回は邪馬台国関連ということで綴ってみます。
筆者が「邪馬台国」に関心を持つようになったのは2009年、「一宮めぐり」を始めた直後ですが、奈良の「大神(おおみわ)神社」に参拝した折、箸墓古墳が卑弥呼の墓所だという論拠に違和感を持ったことがきっかけです。
そして、2012年秋、「一宮めぐり」の一環で九州各地を訪れた際、吉野ケ里遺跡と西都原古墳群を見学したことで、いよいよ「邪馬台国」への関心が強くなりました。
その後、精力的に研究しましたが、所在地を大和盆地に比定しようとする考古学者を中心とした強引で不毛な動きに嫌気がさし、今や筆者の中では大きな関心を占めるテーマではなくなりました。
古代史のブログを始めたので、今回、久しぶりに今まで蓄積したことを綴ってみようと思った次第です。
邪馬台国論争とは?
邪馬台国は、2世紀半ばから3世紀にかけて存在したとされています。
邪馬台国に関係する「金印下賜」とか「倭国大乱」を始めとする多くの話は、日本の古文献からは一切確認できず、古代シナの文献『魏志倭人伝』で初めて知ることのできる事象です。しかも、同文献にはそれほど詳しい情報は載っていません。
それなのに、倭国といえば、さも畿内から九州までを含む西日本の広域を指し、邪馬台国と言えば3世紀頃の日本列島の中央政権であったという大前提を置いて古代史を組み立てる、その神経が筆者には到底理解できません。
大和盆地の纒向の地で最初期の大型建物遺構が発掘されたり、シンボルとなる巨大な箸墓古墳が存在することが、そういうベクトルを生むわけでしょう。
しかしまず思い浮かべるべきは卑弥呼や邪馬台国ではなく、『記・紀』に記された三輪山三代(崇神・垂仁・景行)の王や初期ヤマト国のはず。
なぜすぐに纒向の地を卑弥呼や邪馬台国に結びつけてしまうのか。卑弥呼と同時代に大和で邪馬台国より栄えた国があってはまずいというセンスが理解できません。
筆者の思いは突き詰めてしまえばこの一点につきます。
邪馬台国にまつわる論争は多岐にわたりますが、その所在地どこなのかという数々の仮説と論拠が論争の最たるものでしょう。
所在地については、大和盆地内の纒向地域に求める大和説と、九州北部の筑後川流域に求める九州説が存在することは、古代史ファンなら誰しもが知るところです。もちろんこのほかに珍説も数多く、所在地候補は30以上にものぼります。
距離・方角を論拠とする所在地論争は意味がない
「大和説」「九州説」の両説とも、対馬国・壱岐国はもちろん、末蘆国・伊都国・奴国の3ケ国までの位置はほぼ確定しています。
この先の投馬国・狗奴国・邪馬台国について諸説が存在するわけで、『魏志倭人伝』の距離・方角をめぐって多くの説が提示されています。どの論拠も、みずからに有利になるように原文を脚色し、牽強付会の解釈をして自説に誘引しています。
しかし距離・方角について、いくら精緻な検討をしてみても真実は見えてこないでしょう。
そもそも『魏志倭人伝』に記された数字や量、方角などが、どれほど正確なものなのか、また記述が古代シナのどのような世界観を背景にしたものか明確でない以上、距離・方角に関する詳細な検討や理屈づけはほとんど意味をなさないのではないか。倭人伝2000文字の中の都合の良い距離や方角だけを読み解いてもまったく意味はありません。
距離・方角以外にも、考古学、文献史学の面から論拠を挙げて、邪馬台国の所在地を推定する試みも盛んです。
今や大和説は、考古学界や在野の研究者の多くが、いや、ほとんどが賛同する状況になっています。しかし筆者は、大和説のほとんどの論拠が、「はじめに纒向ありきの決めつけ・こじつけ」と見ています(第17回ブログ参照)。
今回は、大和説と九州説を取りあげ、比較検証してみます。
強引なこじつけだらけの大和説
「畿内説」と呼ぶ研究者が多いようですが、そのほとんどが大和盆地の纒向を指しているので、ここではわかり易く「大和説」と呼ぶことにします。
はじめに確認しておきたいことは、大和説であれば邪馬台国はほぼ西日本全域を対象とする広域政権ないしは連合政権で、九州説であれば邪馬台国は九州北部に位置する一つの地方政権(クニ)に過ぎないということです。
以下に、大和説の無理さ加減を、思いつくまま順不同で列挙してみます。
〇 邪馬台国が大和にあっては伊都国と往来し、またシナと通交することは実質的に不可能。当時は西日本全域を統治したり、政治連合を機能させるための「人・モノ・情報のネットワーク」が不十分だった。特に瀬戸内交通路が整備されていないので、西日本統一政権や連合政権を前提とする大和説は成立しない。
「一大卒」の性格については、魏の出先機関とする説と伊都国に置かれた日本側の窓口とする説がありますが、どちらであっても、遠く離れた場所(畿内)から一大卒(伊都国)と連携できるわけがない。しかも当時、牛馬はなし。交通や連絡網が未発達な中ではタイムリーな情報の授受や人の往来はできません。
邪馬台国はある程度、伊都国の近くになくてはならない。
〇 邪馬台国の時代の列島各地の考古資料は大きく異なっていて文化的なばらつきがある。当時の列島に統一国家的なものがあったとは考えられず、大和説に不利。大和と九州の途中には文化的にも異質な吉備や出雲という大勢力が存在していたことは事実。西日本統一国家や、共立された統一政権の存在は想定しにくい。
〇 『魏志倭人伝』の記述通りに辿ると、朝鮮半島の帯方郡から対馬・壱岐・松浦・伊都・奴までは場所を特定できるが、その先も記述通りに進むと、邪馬台国の位置は九州の遥か南の海上となってしまう。そこで『魏志倭人伝』の方位を南から東に読みかえれば、瀬戸内海や日本海経由でちょうど大和の地に行き着くというのが大和説の成立根拠。しかし、南を東に読みかえるなど、我田引水の最たるもので言語道断。
〇 箸墓古墳は「炭素14年代測定法」によれば、3世紀半ばと想定できるので、卑弥呼の死亡時期とほぼ一致。したがって箸墓古墳は卑弥呼の墓の可能性が高いとする。
これも乱暴な話で、たまたま時期が一致しただけに過ぎないのでは。
しかも、「炭素14年代測定法」には数十年の測定誤差が考えられ、もっとも古い時期を採れば3世紀半ばになるというだけの軽薄で強引な解釈。
箸墓古墳の年代を3世紀末から4世紀前半とみる妥当性は、今でも完全には否定されていないのです。
〇 1402年作成の『混一彊理歴代国都之図』(こんいつきょうりれきだいこくとのず)は九州西部を北に、本州を南に描いています。この中世シナの方位観・地理観が3世紀のシナにまで遡るとして、邪馬台国は大和地域であるとする説。
しかし、すでに唐や宋の時代には日本列島は南北ではなく東西に広がるという方位観が存在するので、この説を大和説の証拠とするのは無理。
第一、 半島と対馬、壱岐、九州の間の距離が異常に間延びしており、『混一彊理歴代国都之図』そのものの正確さに疑問あり。
〇 『魏志倭人伝』に描かれた宮室・楼観・城柵の証拠が見つからないのが、大和説にとっては致命的。
纒向遺跡で見つかった一直線に整然と並ぶ大型建物が卑弥呼の宮室だというが、見つかったのは柱穴だけなので、その上にどんな建物があったのか不明というのが科学的な態度。
素直に考えれば、そこから装飾品も生活遺物も出土しない以上、その建物は宮室の跡ではなく、むしろ纒向に集中した人々の食料を備蓄する倉庫とみなすほうが自然な解釈、と主張するのは原田実氏です。
纒向は河川で外界と繋がり、防御施設がないオープン集落なので、邪馬台国ではなくまったく新しい集落の位置づけとしたほうが合理的でしょう。
〇 箸墓古墳後円部の直径150メートルが、『魏志倭人伝』に記載された径百余歩にほぼ一致するので、初めての巨大前方後円墳とされる箸墓こそが初代女王の卑弥呼の墓に違いないとする主張。しかし、後円部しか『魏志倭人伝』の記述と一致しないので、いいとこ取りの最たるもの。
しかも、百余歩が何メートルに相当するのか、これには異論が存在します。
当時、朝鮮半島南部を中心とするシナ周辺で使われた「西晋朝短里」を使えば、『魏志倭人伝』の百歩は直径20~25メートルほどに過ぎず、箸墓古墳にはるかに及ばず、むしろ伊都国の平原遺跡の墳丘墓に近い規模と考えられるのです(短里では1里は70メートルくらいに相当する)。
〇 『魏志倭人伝』に記述があり、弥生時代のものと思われる鉄鏃、鏡、絹、勾玉などの出土が、纒向のある奈良県よりも福岡県の方が圧倒的に多いという事実。
安本美典氏は、「ベイズの確率論」を使って計算すれば、邪馬台国が福岡県にある確率が99.9%になるという。
〇 『魏志倭人伝』には、海に囲まれた九州としか思えない情報(黥面文身など)が網羅されている。そこから大きく離れ、ましてや内陸の盆地にある大和が登場する余地は全くない。
〇 ホケノ山古墳などから三角縁神獣鏡とともに画文帯神獣鏡が集中して出土することが、邪馬台国の存在を裏づけているとされるが、ホケノ山古墳自体が4世紀築造の可能性がある。三角縁神獣鏡も含めて、奈良県からは卑弥呼の時代の鏡が1面も出土していないと言えるのかも。
〇 第17回のブログで言及したが……、次々と出土したベニバナの花粉、日本最古の木製の仮面、大量の桃の種などが卑弥呼や邪馬台国の存在を裏書きするという説。
『魏志倭人伝』には、卑弥呼が魏の皇帝に赤と青の織物「絳青縑(あかあおのかとり)」を献上した記事があり、「絳」は「あか」と読むのでベニバナに結びつけたようだが、実際は、「絳」は「茜」で染めたもので、ベニバナとは無関係。
日本最古の木製の仮面は、巫女が祭りの際にかぶる面とみなして、卑弥呼に連想づけ。しかし本当にお面だったのかどうか。壁飾りなどの可能性もあるのに、無理やりこじつけてしまう軽はずみ。
3000個もの桃の種は炭素14年代法で135~230年のものとされ、卑弥呼の時代に一致。桃は不老長寿や神仙思想と結びつくから、シャーマンと考えられる卑弥呼につながるというのは一種の連想ゲームに過ぎない。桃だけで見れば倉敷や岡山などでも多数出土しています。何も纒向に特有のものではありません。
〇 纒向遺跡は東海・吉備をはじめ広域由来の土器が出土(と言っても全体の15%を超える程度。うち伊勢・東海からの土器が約半分を占めている)しており、このような交易を成立させる権力主体は、各地の豪族が連合して共立した卑弥呼王権に違いない。
しかし、第64回で言及した西新町遺跡や第66回の青谷上寺地遺跡など、広域から集まった遺物が出土する例は、纒向遺跡に限りません。当時は多極的流通ネットワークが出来上がっていたのですから。したがって単に大勢の人々が纒向に集まったという証拠に過ぎません。
大和説にとって何よりも不都合な事実は、九州北部からの土器や大陸との交流を示す遺物の出土が少ないこと。このことは、シナとも通交し九州北部を傘下におく邪馬台国の所在地が纒向ではないことのかなり有力な材料ではないでしょうか。
〇 そして、ヤマト国の誕生(磐余のムラや三輪山三代)から大和政権の7、8世紀までの歴史を綴った『記・紀』に、邪馬台国と卑弥呼に関する言及が何らないことは、大和説にとって致命的でしょう(本件、稿を改めて言及するかも?)。
大和説に懐疑的なコメントを列挙しましたが、こうしてみると大和説で挙げられた論拠は、何ら邪馬台国の存在を合理的に裏づけるものではなく、ほとんど唯一の根拠は、『魏志倭人伝』の「南へ向かう」という記述は「東へ向かう」の誤記というものですね。他に大和説を明確に裏づける科学的な根拠はほとんど存在しないのが現状です。
こうなると、今の考古学で大勢を占める「狗奴国濃尾平野説」も成立しません。
北條芳隆氏は「証明を抜きにして、仮説だけがどんどん上積みされており、マスコミもそれをそのまま報じている」と言います。
森浩一氏も「考古学だけでは歴史にせまれない」としています。
大和説が成立しない理由がことごとく九州説不成立の理由にならないのが面白い……。
一方、纒向遺跡はいまだ想定面積全体の5%しか発掘されていない。大きなポテンシャルを残した纒向で、今後何が飛び出してくるのかという楽しみがあるのも事実です。
決定打に欠けるが素直に考えれば九州説
一方の「九州説」はどうでしょうか。大和説で不利な理由は、逆に九州説が成り立ち得る理由になります。
強調したいことは、『魏志倭人伝』の文化・風土・習俗などの記述を素直に解釈すれば九州説しか考えられないということです。
九州説で不利なのは、考古学的証拠が具体的に見つかっていないことだけです。
『魏志倭人伝』の距離計算を素直に追うと九州におさまらない。このデメリットを回避する多くの理屈が用意されているが、あまり意味がないのでここで言及することはやめにします。矛盾だらけの距離・方角を丹念に追ってみても、永遠に邪馬台国の位置は特定できないと思うからです。
九州説に可能性があると考える論拠は下記の通り。いずれも『魏志倭人伝』の記述を素直に受け入れたものばかりです。
〇 大陸に近いのが最大の根拠。ここを飛ばして邪馬台国は畿内にありというのはまったくもって不自然。
〇 吉野ヶ里は東京ドーム11個分で5400人が住んでいたと推定され、『魏志倭人伝』に記された楼観・城柵・王宮が確認できる集落です。この近傍に邪馬台国があったと考えるのはかなり合理的。
吉野ケ里と似たような環濠集落が未発見で埋もれている可能性を考えても良いでしょう。
〇 吉野ヶ里遺跡の楼観は中核的な集落のステータスシンボルだが、この時代に、これだけの巨大な建物を作る技術は近畿にはなかった。
柱が下に沈まないように下に礎盤(そばん)を敷き、また柱が動かないように横木や根がらみを設けている。久留米でも福岡でも見られます。
近畿で出てくるのは5世紀からで、4世紀に遡る可能性はあっても、弥生時代にはありません。そうしたことからみても、魏志倭人伝の世界は九州北部だととらえた方がいいのではないか。
〇 鯨面文身は、海が近傍にある九州北部にピッタリの文化習俗。
〇 『魏志倭人伝』に記された九州北部の遺物は、大和盆地に比べて圧倒的に豪華で豊富。
鍬先・鋤先などの鉄器の出土、鏃・鉄刀・鉄剣・矛・戈などの武器の大量出土、絹織物と裁縫技術の存在、弥生後期の硯と砥石、木の板に墨書した文字を削り落とす削刀(さくとう)の出土(吉野ヶ里)、ガラス勾玉や銅鏡の大量出土。
九州説でなにひとつ不都合なことはありません。決定的な証拠(考古学的発見)がないだけです。それに対して、大和説の論拠は不都合なことだらけなのに、大和説の研究者たちは意に介しませんね。この不思議!
筆者は、(大和説が成立しないという消去法ではありますが)九州説を採ります。しかし邪馬台国が九州北部の具体的にどこにあったのかについては、筑後平野・熊本平野・宇佐など諸説あり、そこまではしみじみしていません。
邪馬台国東遷説
邪馬台国の所在地が九州であることは是認するが、3世紀前半に大和の地に東遷し、後のヤマト王権の発祥に連続するという東遷説があります。
弥生時代の畿内の祭器とされる銅鐸が、まるで捨てられたように一挙に姿を消し、反対に九州北部の鏡・玉・剣がヤマト王権のシンボルになっていく。これは九州北部の支配者だった邪馬台国が銅鐸文化をもつ大和の先住者を滅ぼしたことを物語るのではないか。
また、弥生後期に巨大な集住がなく、大陸系の遺物がほとんど出土しない纒向の地に、突如として巨大古墳が築造されるのは、別の地域から大勢力がやって来たとしか考えられず、それは大陸と交易を行なっていた九州北部にあった邪馬台国に違いない。
したがって九州北部にあった邪馬台国が東遷したに違いない、と……。
しかし今のところ、技術や文化が九州から東へ伝わったことは事実でしょうが、一つの王権が移動してそこに国を建てたという状況は、考古学資料による限り、求め難いのです。第25回ブログで言及したように、いったい卑弥呼王権はどうやって移動したのでしょうか。
数人から数十人なら苦難の末に大和の地にたどり着くことも出来たでしょうが、国単位あるいはクニ単位の大集団が600~700kmもの長距離を移動することはあり得なかったと思います。
その時代、大集団が瀬戸内沿岸の陸路を通ることは出来ません。船はわずかな量の丸木舟しかありません。港(津)が未整備の瀬戸内海を滞留することなくスムーズに回航する図は想像すら出来ません。
数十年もかけて尺取虫のように少しずつ前進するなら、長距離移動も可能でしょう。それは民族大移動を意味します。その場合は、大集団がキャンプするか定住するためのインフラが必要です。生活するための小屋、道具、食を大量に調達する必要があります。
それは途中で、国またはクニを順次、建国しながら移動することを意味します。
第一、九州北部にあった邪馬台国が、未開の地である大和に移動するニーズはどこにあったというのでしょうか。移動の動機が読めません。
以上、長々と述べましたが、作家の足立倫行氏は「考古学主導による現代の日本古代史の方向性は本当にこのままでいのだろうか」と述懐しています。筆者もまったく同感です。
さて、『魏志倭人伝』に記載の距離・方角をいくら辿っても、これぞ邪馬台国といえる場所にはたどり着けない。なぜでしょうか。
この謎解きをするには、倭人伝が含まれている『魏志東夷伝』全体の「序」に書かれた当時のシナの地理観・世界観・天下観を検討してみる必要があります。
次回、言及します。
参考文献
『誤りと偽りの考古学・纒向』安本美典
『つくられる古代史』原田実
『現代語訳 魏志倭人伝』松尾光
他、きわめて多くの文献を参考にした。
追記
まさに投稿直前!
録画しておいたNHKのBSプレミアム「邪馬台国サミット2021」(元旦夜放送)を視聴しました。
その感想ですが、すでに投稿の体裁が出来上がっているので追記の形で記しておきます。
大和説(番組内では畿内説と呼称)論者と九州説論者の発言に目新しいものはなく、自説をぶつけ合うだけの放談会的な内容。特に大和説論者の方に、旧来の考え方にしがみついているだけの頑迷な感じを受けた。福永伸哉氏の発言などは暴論とも思える内容。こういう展開になることはほぼ読めていたけど……。
唯一、グッドポイントと思ったのは本郷和人氏の以下のような発言です。
「そんな早い時期に日本の広域を従える中央集権国家ができたとは考えにくい。列島各地にさまざまな王権があったと考えるのが自然。邪馬台国はどこにあったかの前に、古い日本はどういう形の国だったのかの確認が重要」。
そこから、広域統治を可能にするインフラや技術のレベルに論議が及ぶと良かったのですが、大和説論者からコメントはなく完全無視、素通りでした。
3世紀半ばの中央集権国家があり得ないとすれば、邪馬台国大和説は成立しないのに……。
古代史を俯瞰する際、もっとも大切な視点と思われるのに、議論は深まりませんでした。
残念!!