理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

71 古代シナ人の世界観

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 前回、邪馬台国の所在地の謎を解明するには、『魏志倭人伝』が書かれた当時のシナの地理観・世界観・天下観を確認してみる必要性に触れました。
 筆者は、邪馬台国の所在地を検討する場合は、これから述べる内容を一丁目一番地として、すべての研究者が共有すべきではないかとさえ思っています。

 

『東夷伝』執筆当時の古代シナ人の世界観
 古代シナの世界観について、仁藤敦史氏と吉松大志氏の論考を参考にしながら纏めてみます。
 仁藤氏は邪馬台国の位置は、倭人伝が含まれている『魏志東夷伝』全体の「序」に書かれた当時のシナの地理観・世界観・天下観を前提に考える必要があるといいます。

 『山海経(さんがいきょう)』によると、古代シナでは本土の四方を海が取り巻いていると考え、シナ本土(九州)は方3000里とされ、その周囲の夷荻が住む四海の範囲について「天地の東西は28000里、南北は26000里」とされていました。
 魏蜀呉の三国時代には本土が方万里に広がったので、四海の東西は7000里を加えた35000里となります。すると皇帝の所在する中心から本土の東限は5000里、四海の東限は17500里で、これは本土の東限からはちょうど12500里ということになります。

 『後漢書』によれば、都(洛陽)から5000里の位置に本土の外交窓口である帯方郡が置かれていたので、そこから東に12500里という四海の東端に邪馬台国が位置づけられたことになります。では四海の外側はというと、四荒と呼ばれる支配の及ばない没交渉・化外の地とされます。

 古代シナには、九州(王朝が実効支配した冀・兗・青・徐・揚・荊・予・梁・雍の9つの州)・四海(王朝の支配が間接的に及ぶ東夷・西戎・南蛮・北狄で、皇帝の徳を慕ってやってくる朝貢国)・四荒(侏儒国・裸国・黒歯国などの没交渉で野蛮な異民族の地)という政治的な地域概念が存在したわけです。

 まさに『魏志倭人伝』の帯方郡から伊都国までが10500余里、帯方郡から邪馬台国までが12000余里という記述にほぼ一致します。
 つまり、都から見た邪馬台国は、方万里・四海東西35000里という当時のシナ王朝の世界観に規定されたもので、遠く東海のはずれにある辺境の地とされたのです。


 帯方郡から邪馬台国までの12000余里は実際の距離ではなく、途中に水行・陸行の表現を加えることで、四海のはずれを示す記号的数値となっていて、魏王朝の間接的な支配が及ぶ限界の地という意味があるようです。
 不弥国から邪馬台国までの残りがわずか1300里なのに、そこから先は里程ではなく、突然、水行・陸行という言葉に変わるのはそういうことでしょう。
 12000余里は観念的な数値だったということですね。
 ということは、不弥国から邪馬台国までが1300里だから、邪馬台国九州説が成立するという理屈にも無理があることになりますね。

 邪馬台国所在地論争では、方位と距離が重要な手がかりとされてきましたが、このような古代シナの世界観を背景に『魏志倭人伝』が記述されていたとすると、その距離・方角を前提として邪馬台国や諸国の所在地を議論することはなんら意味のないことになります。

 ちなみに、女王国の後に記されている侏儒国・裸国・黒歯国は、古代シナの古地理書『山海経』などを参考に作文された伝説的な国々であり、実録的要素はありません。
 黒歯国はインドネシアか南米か、小人の国とされる侏儒国はどこにあるか、などといくら詮索してもまったく意味のないことです。
 『魏志倭人伝』だけに頼り過ぎるのは邪馬台国の本質を見誤ることになります。

 常識的に考えれば、2~3世紀の時点では、朝鮮半島や朝鮮半島と通交関係があった九州北部までが四海の果てで、大和の地や東日本は四荒の地だったように思います。
 このことは、第61回ブログで言及した「倭人」の定義を含めて、弥生時代後期から古墳時代初期の古代史を俯瞰する場合に、大前提としたいですね。
 「邪馬台国大和説」は、たとえ論拠があいまいでも、古墳時代に最先進地域となる大和の地に邪馬台国を嵌め込み、その後のヤマト王権につなげたいという、現代の不純な動機が見え見えです。
 纏向の地は、『記・紀』で三輪山三代(崇神・垂仁・景行)の拠点として言及されていることを素直に受け入れる方が自然ではないでしょうか。そうならない理由は邪馬台国や卑弥呼の方が、訴求力があるからでしょう。

 邪馬台国の場所を特定できるのは、結局、確実と思われる遺跡の発見しかないでしょう。そういう意味で、今後の考古学が「学問的に正しい判断」のもとに発展することを願うばかりです。

 

参考文献
「邪馬台国から古墳の時代へ」『古代史講義』吉松大志
『卑弥呼の「共立」と魏王朝・公孫氏政権』仁藤敦史
『現代語訳 魏志倭人伝』松尾光