理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

72 倭国大乱の実像

 f:id:SHIGEKISAITO:20201201160852j:plain

 「倭国大乱」はどの程度の規模だったのだろうか。これについては諸説あり、見解が分かれています。
 九州の吉野ヶ里遺跡をはじめ複数の弥生遺跡からは、矢じりが刺さったままの人骨や首から上が無い人骨の入った甕棺が発掘されており、山陰の青谷上寺地遺跡でも刀傷のある人骨などが発掘されています。
 それらの傷がクニ同士の戦闘を示しているのか定かではありませんが、人を殺傷する行為そのものは起きていたことがわかります。
 この殺傷痕を根拠に倭国大乱について、九州北部地域内の局地戦闘とする説だけでなく、出雲と畿内のあいだの戦闘、あるいは九州北部から畿内山陰山陽にかけての広域戦闘だったとするなど、いくつかの説があります。

 現在の有力説では、瀬戸内海地域の高地性集落遺跡(山頂等に営まれた城塞的な集落の遺跡)も根拠にあげて、九州北部から畿内までを含む西日本広域戦闘だと言うのですが、真相やいかに? 

 「大乱」の証拠は?
 倭国大乱をめぐる論争で筆者が疑問を感じるのは、倭国がどの範囲を指しているのか明確でないまま、議論が交わされていることです。
 倭国が、さも畿内から九州までを含む広域を指すものだという大前提をおいて、古代史が組み立てられてしまうことです。

 第24回ブログで言及した通り『魏志倭人伝』には、
 <其の国、本亦、男子を以て王と為す。住まること七、八十年にして倭国乱れ、相攻伐すること年を歴たり。乃ち共に一女子を立てて王と為せり>
とあるだけで、「大乱」という言葉は見当たらず、「広域」を意味する言葉もありません。

 筆者は、弥生時代後期に古代シナがイメージした「倭国」は、九州北部、せいぜい九州中部から北の限られた地域を指していると考えます。


 第66回ブログで、青谷上寺地遺跡の殺傷痕のある人骨の存在に触れましたが、これが本当に広域戦争の証拠だと言い切れますか。
 仲間内の制裁か、何らかの宗教的な処断か、隣接する出雲や丹後地域との確執の結果、地域ブロック内の戦闘が発生したのか、まったく分からない中で、九州から畿内までを含む西日本広域戦争があった証拠だというのは言いすぎでしょう。
 
 鳥取県教育委員会によれば、殺傷痕を伴う人骨について、「男性ばかりでなく女性の骨もありました。さらに、10歳程度の子供まで犠牲になっていることがわかりました」 と。
 非戦闘員が含まれているので、例えば、近傍の略奪集団によるものと考えることも可能なのではないでしょうか。


人・モノの大量移動を伴う広域戦闘
 倭国大乱が起こった原因を、鉄の入手をめぐって、九州北部地域と吉備・近畿連合との争いとし、それに勝利した吉備・近畿諸国が鉄を確保して生産力が増加し、古墳時代の政治勢力の中心となったという説は根強いですね。
 しかし、この説の致命的な欠陥は、倭国大乱後の3世紀になっても、近畿に鉄器が増えたという証拠がないのです。依然として圧倒的に九州北部地域の方が多い。
 いやそれはただ単に出土していないだけであって、必ず鉄器の普及はあったはずだという「見えざる鉄器」説が多くの研究者の間で支持されてきましたが、当ブログは声を大にして、これに異議を唱えたい(すでに第24回ブログで言及しました)。

 鉄は大量にあったのに、その後のリサイクルでなくなってしまったとか、埋蔵中に腐ってなくなってしまったという理由が挙げられているが、いずれも科学的根拠はありません。

 倭国が乱れるという事象は『魏志倭人伝』で知るのみです。
 同書が書かれた背景に思いを巡らせば、当時の邪馬台国は四海の果てに存在する、すなわち九州にあると考えれば、畿内まで含む西日本広域の大乱など、『魏志倭人伝』を著した陳寿(ちんじゅ)にとって思いもよらない事象だったでしょう。

 当時の日本列島は、人々が各地の産品や商品を求めて集まったり滞在したりする拠点が同時多発的に発生(第63回、64回、65回ブログ)し、多極的ネットワークが形成されていました。
 したがって交易は活発に行われていたと思われますが、交通インフラが貧弱なため、大規模な人とモノの移動を伴う広域での戦争は起きるはずはありません。
 有力説とは異なりますが、倭国大乱は九州北部での局地的な争いであったと考えます。


古代における戦争の実態
 弥生時代の遺跡からは戦争を示す考古資料はあまり出土していません。
 出土するのは集落ないしはその付近に限られています。このことから、集落付近で攻撃・防御を行なう小競り合い程度の戦闘が各地域内で行われたと推定できます。環濠集落の存在がそれを窺がわせます。

 戦闘による死者は、多い場合でもせいぜい数十人程度であったと思われます。
 弥生時代においては、広域を巻き込む戦闘はほとんどありません。クニやムラの相互の距離は離れていて、広域で見ればとんでもないくらいスカスカです。交通インフラが貧弱な時期には遠隔地同士の互いの衝突はきわめて起こりにくい。それぞれの拠点から遠く離れて相まみえる野戦は少なかった考えられるのです。

 繰り返しになりますが、筆者は「倭国大乱」の実体は、九州北部地域ブロック内での局地的な争いであったと考えます。

 やがて3世紀以降になると、交通インフラの充実や武器の進歩により、拠点を離れ、大勢の兵を率いて広い場所でぶつかる会戦・野戦が主体となっていきます。

 クニが狭い時に防衛機能として有効だった環濠集落は、戦闘や合従連衡を通じてクニの規模が大きくなるにつれ、意味をなくし消滅していった……。

 一体化して大きくなったクニでは、支配者(王)は拠点となっていた環濠集落から出て、一般民衆とは完全に分離した平地や台地に、方形の堀・土塁・柵に囲まれた豪族居館(住居・倉・物見櫓)を造ります。
 豪族居館自体は個人のための建物なので、環濠集落と比べると、その規模は非常に小さいものの、交通や防御のために河川などを巧みに利用していました。
 それまでの環濠集落に比べれば交通・交易に適した開放的な集住の姿と言えます。
 こうして、環濠集落をめぐる攻撃・防御は減少し、会戦・野戦が主体となっていったわけです。

 会戦・野戦であっても、古代の戦争はシンボルとなる大将の首取り型の戦闘でした。大将が殺されると総崩れとなって勝負がつくので、意外にも死者は少なかったと考えられます。
 異民族ではないという意識もあるのだろうか、皆殺しにしようという発想はなかったから、数百人規模の衝突でも死者は多くても数十人程度だったのではないか。
 死者は勝者によってまとめられ、遺跡とは異なる場所に穴を掘って埋められてしまった......。
 拠点集落のある場所で戦闘が行われなかったので、死傷者に関係する考古資料の出土はほとんどないというわけです。

 

倭国大乱の実像
 第63回ブログで、歴史学者の武光誠氏による見立て(伊都国連合 vs 邪馬台国連合)を紹介しましたが、今回は同じく若井敏明氏の考察も含めて倭国大乱がどういうものだったのか、その実像に迫ってみます。
 
 『魏志倭人伝』などのシナの文献から読み取り、再現してみれば下記のようになりそうです。

 紀元57年、奴国から後漢へ朝貢。この頃の博多沿岸地域にはいくつかの小国が並立していて、その中のひとつである奴国が朝貢したということ。
 <其の国、本亦、男子を以て王と為す。住(とど)まること七、八十年にして倭国乱れ>とあるので、男子の王は、紀元107年に生口160人を献じた倭国王の帥升を指している。
 帥升は、この時期、盟主的位置にあった伊都国王だった可能性が高く、奴国が朝貢した半世紀後には、博多湾沿岸地域に政治的なまとまりが進んだとみなせる。
 その後、70~80年間は平穏だった。
 倭国大乱の時期は2世紀半ばから後半
 有明海沿岸や筑後平野の勢力が、伊都国連合に服さず、乱が発生。この時期、吉野ヶ里の勢力はすでに衰退していた。
 乱の後、卑弥呼が筑後平野に都を定めた。

 倭国大乱を九州北部地域内の争いとみなす若井敏明氏は、次のように主張します。

 <『魏志倭人伝』では、投馬国から邪馬台国までを水行十日・陸行一月という日数を除外すれば、里数・方角そして女王国の南に狗奴国があり、東にまた別の倭種がいるという地理観にいたるまで、九州説で説明がつく>。

 <畿内大和説は日程をいかそうとしてそれ以外の大多数の情報に修正をほどこそうという説だが、日程がそれほどの情報とは思えない>。

 <『記・紀』などの日本側史料では、大和政権が九州北部を制圧したのは神功皇后の時代、つまり4世紀の後半であり、それ以前に畿内の勢力が九州北部に進出した兆候は認められない。
 ここで、記紀を用いることについては反発があるかも知れないが、九州北部をみずからの支配下に置いた時期について、大和政権の後身である律令国家自身の主張を、よほどの反証でもないかぎりは尊重すべきと思う。
 つまり、内外の史料を通覧してみれば、そのほとんどが「邪馬台国は九州にあり、大和政権と併存していた」という見解を支持しているのであって、唯一その反証が『魏志』の日程記事なのである。
 もちろん、ひとつでも反証があれば九州説の保証はできない、と大和説の論者はいうだろうが、たったひとつしか有利な情報がなく、他はことごとく反証である大和説はなおさら成立の余地は少ない言わざるをえない>
として、邪馬台国九州説に立って倭国大乱を論じているわけです。
 筆者も大賛成です。

 ここからは筆者の想定です。
 玄界灘沿岸地域(筑前)と筑後平野は、大きくは脊振山地で隔てられているように見えますが、実は那珂川を遡上し、太宰府、筑紫野を経由し、筑後川を下れば有明海まで達する比較的往来の容易なルートが存在しました。
 この距離で、この交通インフラがあれば、そこそこの人とモノの移動を伴なう戦闘も可能です。
 争いのきっかけとして、有明海・筑後平野側の勢力が、先進文化・文物の入手に適した博多湾岸を確保するための確執であったことは十分に考えられます。
 こうして両勢力による九州北部ブロックでの争いが発生したのです。
 このような、地域ブロック内での争いは、この時期、日本列島の各地で発生していたことでしょう。

 

参考文献
『弥生時代の歴史』藤尾慎一郎
『倭国大乱』若井敏明