理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

74 邪馬台国大和説と銅鏡

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 考古学界では、三角縁神獣鏡に関する次のような説が根強く語られてきました。
 畿内で集中的に出土した三角縁神獣鏡は、卑弥呼が魏から下賜された銅鏡100枚に違いない。したがって邪馬台国は畿内にあったに違いない……と。

 しかし近年、三角縁神獣鏡は下賜された銅鏡100枚ではないことがほぼ確実になってきています。
 それはヤマト王権によって大和地域で作られ、各地に運ばれたものであることに異論の余地がなくなってきているからです。
 代わりに、大和地域で多く出土する画文帯神獣鏡こそが下賜された銅鏡に相当するので、邪馬台国は大和地域に存在したに違いないという議論が始まっています。
 今回は、これらの銅鏡をめぐる議論ついてレビューしてみます。

三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏から下賜された銅鏡100枚ではない!
 三角縁神獣鏡をめぐる議論の中心は、その生産地に関するものです。
 即ち、舶載鏡(シナ製)か国産かということです。
 鏡の原料となっている銅そのものは大陸産である事が概ね確認されています。鏡の銘文に「出同徐洲」(銅は徐洲から出た)などと書かれているものもあります。しかし、製作地・製作者については諸説が存在しました。
 三角縁神獣鏡が舶載鏡であれば下賜された魏の鏡に相当し、近畿圏から多く出土するので邪馬台国も近畿にあったという事になりそうですが、その仮説について近年の評価は否定的になっています。

 主な理由は、
 日本で出土した枚数が、倭人伝に書かれた100枚どころか既に500枚近くに達している。未出土のものや、古物商、個人蔵のものなども入れると、おそらく1000枚を越えるのではないか。

 魏への朝貢は幾度にもわたっており(239~266年で4回以上)、その都度同じものを魏で求めてきた可能性もある。その場合、シナにも同じ鏡が残っていても良さそうなのに、1枚も出土しないのはなぜか?
 それは倭人向けに特別に作らせた鏡だから(特鋳説)。これでは堂々巡り。

 出土がほぼ4世紀の古墳からなので、3世紀の邪馬台国や卑弥呼の時代と100年もずれている。

 埋納時期を3世紀と置けば、卑弥呼が魏からもらった鏡は三角縁神獣鏡ではなく、それは、主に北九州を中心に出土する前漢鏡・後漢鏡だという事になり、邪馬台国九州説に有利となる。

 三角縁神獣鏡には景初3年や正始元年という3世紀を示す銘がある一方で、「景初四年」鏡が出土している。この年号は魏には存在しない(景初は3年で終り)。魏で作った鏡なら年号を知らない訳がない。

 この鏡は実用性に欠け、鏡を装飾品・祭祀品として扱う国産品であって、呉の工人が日本に来て制作したに違いない(森浩一氏)。 

 

 三角縁神獣鏡を下賜された銅鏡100枚とする根拠は、どれも想像と仮説の上に立った議論です。
 三角縁神獣鏡と邪馬台国を結びつけようとする一時の異常な熱気は過ぎ去り、近年は、製作地についても下記のような論調に変わってきています。


三角縁神獣鏡は初期ヤマト王権が日本で製作したもの
 その理由は、
 三角縁神獣鏡は大陸や朝鮮半島から1枚も出土していない。また魏晋朝当時にこれほど大きな神獣鏡は存在しないし、中国の学者による調査でも、三角縁神獣鏡とおぼしき鏡はいまだに発見されていない。

 存在しないはずの景初四年」銘の三角縁神獣鏡が2枚発見されている。これは明らかに、魏年号の改元を知らなかった海外で、即ち日本で製作されたことを示している。
 弥生時代に、既に青銅製品の鋳型や製品は北九州を中心に多く出土している。古墳時代初頭に、三角縁神獣鏡を製作する技術は近畿圏においても確立していたと考えて良い。中国には「三角縁神獣鏡は、日本に渡った呉の鏡職人が日本で製作したもの」と主張する考古学者もいる。

 三角縁神獣鏡は、ほぼ4~5世紀以降の古墳から出土しており、初期ヤマト王権時代の日本製と考えるのが妥当である。黒塚古墳も考古学的には4世紀後半から末の築造とする説が大勢で、卑弥呼が死去した247~248年とは100年以上の差がある。

 黒塚古墳においても、棺内の死者の頭部分に画文帯神獣鏡1枚(後漢鏡)が大切そうに添えられ、三角縁神獣鏡は棺の外に、一段低い評価のごとく並べられている。そういう扱いもあって三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡ではないとの見解を打ち出す研究者も多い。森浩一氏も、他の発掘現場で同様の思いを持ったと述べている。

 三角縁神獣鏡は、ヤマト王権の4~5世紀の時代に、シナとのかかわりの中で製作されたものと考えたい。大和盆地東南部から中部にかけての地域には、鏡作神社(磯城郡三宅町石見)、鏡作伊多神社(磯城郡田原本町保津)、鏡作麻気神社(磯城郡田原本町小坂)、 鏡作伊多神社(磯城郡田原本町宮古)、鏡作坐天照御魂神社(磯城郡田原本町八尾)などが鎮座しており、これらの場所は明らかに鏡を作った集団が居住していた所の名残りと考えられ、 三角縁神獣鏡はヤマト王権時代に、これらの場所で製作されたものと判断できる。

 以上をまとめてみれば、三角縁神獣鏡は、卑弥呼が魏からもらってきた鏡ではなく、日本で製作された鏡であると言えそうです。


画文帯神獣鏡が、卑弥呼が受け取った100枚にあたるのか
 三角縁神獣鏡では大和説が不利になってきたので、最近は画文帯神獣鏡を卑弥呼の鏡とみなす考古学者が増えています。
 画文帯神獣鏡は圧倒的に近畿地方とその周辺に分布が集中しています。2世紀後半から3世紀にかけて、近畿の勢力が中心になって精力的に入手した鏡であることは間違いないでしょう。
 中でもホケノ山古墳から出土した画文帯神獣鏡は、精緻な文様を具えた優品です。
 三角縁神獣鏡が33面出土した黒塚古墳やホケノ山古墳などの調査を指揮した橿原考古学研究所の研究者は、「三角縁神獣鏡にはひび割れ痕跡がたくさんあるなど技術水準が低いが、ホケノ山古墳の画文帯神獣鏡については非常に良い作りで、文様の鋳上がりも素晴らしい。画文帯神獣鏡は銅鏡100枚の候補の鏡のひとつと考えられる」と主張しています。

 しかし、森下章司氏によれば、画文帯神獣鏡の製作年代は、2世紀前半にシナの四川で生産が始まり、2世紀後半に徐州や江南に伝播し隆盛期を迎えますが、3世紀の初めにはほとんどの生産系統は姿を消し、全体が三国時代の鏡へと転換していくようです。
 卑弥呼の朝貢時期(西暦239年)まで生産が続いていたとは考えにくいというのです。
 したがって長い時間をかけて、何らかの流通経路で朝鮮半島や九州北部から畿内へ伝世されてきたと考えざるを得ません。

 
 大和説論者の急先鋒とされる福永伸哉氏の『邪馬台国から大和政権へ』を読んだ感想ですが、三角縁神獣鏡が邪馬台国時代のものだとする一世を風靡した学説(なんとしてでも邪馬台国畿内説を成立させたい勢力が奉じた)が今や成立しなくなり、画文帯神獣鏡が多数出土する大和地域を邪馬台国の存在と結びつけたい意向が見えみえです。
 しかし、これだけをもって邪馬台国が大和地域にあったと断定するのは勇み足ではないか。
 福永氏は、例えば「邪馬台国の人口は、魏志に7万余戸と記されているので、およそ35万人にのぼる。筑後と肥前の全体まで含めてもこれだけの人口は考えられないので邪馬台国九州説は不成立」と発言したりして、九州説を否定するためなら何でもありというような暴論、上から目線の強弁が目立ちます(1月のBSプレミアム「邪馬台国サミット2021」)。

 問題は画文帯神獣鏡についても、魏における出土がほとんどないことです。これでは銅鏡100枚の候補にはなりにくいですね。

 加えて、脚光を浴びるホケノ山古墳や箸墓古墳が本当に3世紀半ばの古墳であったかについては数々の疑義が呈されています。
 画文帯神獣鏡は伝世鏡として4世紀のホケノ山古墳に副葬された可能性だってあり得ます。
 ホケノ山古墳が4世紀の古墳であれば、画文帯神獣鏡は、邪馬台国とは全く異なる初期ヤマト国が、楽浪郡から得た伝世品を獲得して副葬した可能性が大きくなるわけです。移動できるモノは年代の決め手にはなりにくい……。

 安本美典氏によれば、ホケノ山古墳の築造年代を卑弥呼の時代にもっていく考古学者が少なくないが、実際の築造年代は、卑弥呼の時代よりも100年ほど新しい4世紀のものであると。
 実際に奈良県立橿原考古学研究所編の『ホケノ山古墳の研究』によれば、現在の放射性炭素による年代測定では4世紀を主とする年代がでているようです。
 ホケノ山古墳が4世紀のものとすれば、それよりも時代が新しいとみられる箸墓古墳も「卑弥呼の墓」などではなく、4世紀の築造となってしまいます。

 


画文帯神獣鏡の入手ルートについて
 下賜された銅鏡か否かに関係なく、相次ぎ発見された画文帯神獣は3世紀の東アジアの交流を考える重要な資料になるという見解もあります。
 専門家は「卑弥呼の時代の大陸との交流は魏に限らない。通説より拡大して捉えるべきだ」と提唱しているわけです。研究成果次第では、邪馬台国・卑弥呼の“定説”を塗り替える可能性もありますが……。

 卑弥呼の生きた3世紀は魏・呉・蜀の「三国志」の時代にあたり、鏡はシナ全土で作られていました。当然、北部の魏だけでなく南部の揚子江流域でも多くの鏡が製作されていました。
 呉などの南部で製作された画文帯神獣鏡についても、朝鮮半島を経由して運ばれた可能性が否定できないというのですが、しかし、魏と呉は224年以降、断交状態です。その場合は陸路によるルートは難しく、日本に到るまでの中間地域が不明です。海を使った直接ルートがあったのではないかと言われても少々無理に感じます。
 画文帯神獣鏡の入手ルートについては、分からないことが多すぎるのが現状です。

 

銅鏡は邪馬台国大和説を裏づける決定打にはならない
 あくまで、現時点までの考古学的成果からの判断ではありますが、邪馬台国大和説の根拠に、三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡の出土を持ちだすのは無理と言えそうです。
 学問的にも様々な見解があり、原産地や流通経路に関して様々な見方がありますから。

 なによりも、卑弥呼が存在した弥生期に大和地域では海外と交易した考古学的痕跡が見つかっていない
 そして、畿内に存在した邪馬台国が初期ヤマト王権につながったという仮説は科学的な根拠が乏しく、多分に情緒的判断に負うところが大きいと言わざるを得ないのが現状です。

 しつこいようですが、第70回ブログで言及した卑弥呼の墓を再度取り上げます。
 邪馬台国大和説を主張する考古学者は、大和説の象徴ともいうべき箸墓古墳(直径150メートル)を卑弥呼の墓としていますが、帯方郡の太守(長官)クラスの墳墓でも一辺30メートル程度なのです。規模の差が大きすぎますよ。
 朝貢していた卑弥呼の墓が大型前方後円墳とは断定できないので、「箸墓古墳」の存在が大和説の根拠になるとは思えません。
 「西晋朝短里」を使って換算すれば、卑弥呼の墓の径百余歩は25メートルほどに落ち着き、2~4世紀の古代朝鮮の王陵や帯方郡・楽浪郡の長官陵とのバランスからみて妥当に思えます……。

 

 考古学の科学的成果を横におき、片や『倭人伝』の数値・距離・方角を曲解したままでは、邪馬台国大和説の立証には程遠いと思います。 


参考文献
「銅鏡からみた邪馬台国時代の倭と中国」『纒向発見と邪馬台国の全貌』森下章司
『現代語訳 魏志倭人伝』松尾光