理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

75 なぜ『記・紀』は近畿の銅鐸に触れないのか?

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 邪馬台国については、九州北部から東遷してきて大和の地に定着したとか、最初から大和の地にあったとも言われています。いずれの場合も大和の旧勢力を倒した後は、新たな祭祀を軸に大和政権につながったと。
 その根拠としてよく取り上げられるのが、3世紀前半に急に消滅した近畿の銅鐸祭祀です。
 銅鐸は、銅剣や銅矛に匹敵する弥生時代の代表的な製作物ですが、『記・紀』などの古文献には全く登場しない謎の青銅器です。なぜでしょうか。
 『記・紀』は、新勢力がもとになった7、8世紀の政権によって編纂されたので、旧勢力のシンボルであった銅鐸に触れていないという見方もあります。
 今回は、この銅鐸消滅の経緯と『記・紀』の中で何ら触れられていない理由を考えてみます。

銅鐸文化圏について
 銅鐸は大きなベルのような形状の青銅器で、祭器の一種であったと考えられています。金属器の銅鐸が発する輝きや響きは、縄文時代にはなかった鮮烈な印象を弥生人に与えたことでしょう。
 弥生時代の人々の最大関心事は、米づくりに代表される生産基盤の安定とムラの存続・維持発展」にあったと考えられます。
 そのためには人々が心をひとつにする必要があり、「共同体の祭祀」として「銅鐸のまつり」が盛んになったと思われます。シャーマン(司祭者)が銅鐸を用いて豊穣と祖霊を崇め、ムラの発展を祈願した様子が目に浮かびます。

 銅鐸は、土器や石器と違い、住居跡からの出土はほとんどなく、また銅剣や銅矛などの青銅品と異なり墓の副葬品としての出土例はほとんどないため、個人の持ち物ではなく、ムラ(村落共同体全体)の所有物であったことは間違いありません。

 青銅は銅・スズ・鉛を主成分とする合金で、原材料は輸入に頼らざるを得なかったとされています。
 青銅合金やその原材料を輸入する場合の対価は、穀物・布・玉・海産物・木材・生口(奴隷)などが考えられ、例えば生口1人で青銅50~60キログラムが入手できたという試算もあります。ちなみに30センチくらいの小型銅鐸なら2キロ前後、日本最大の銅鐸が135センチで46キロだそうです。
 考えようによっては、原材料の調達コストは安かったともいえます。

 

 かつては、出土の分布・偏りからみて、弥生文化の2つの中心は、畿内を中心とする「銅鐸文化圏」九州北部を中心とする「銅矛・銅剣文化圏」とされていました。さらに中国地方を「銅剣文化圏」としてこれを加え、3つの文化圏が政治的にも宗教的にも対立しあっていたとする説もありました。

 これは、遺跡の発掘自体が少なく出土量も少なかったため、銅矛は主に九州北部、銅鐸は近畿から東海地方にかけて出土するという偏りがあったためです。

 しかし、発掘される遺跡の増加に伴い、当然のことながら出土も増え、「銅鐸文化圏」の地域で銅矛・銅剣が、「銅矛文化圏」内で銅鐸が出土することが多くなってきます。
 これまで弥生青銅器がほとんど出土しなかった地域で大量発見される例も相次ぎました。荒神谷遺跡で銅鐸6個・銅鉾16本・銅剣358本、加茂岩倉遺跡で銅鐸39個、柳沢遺跡で銅鐸5個・銅戈8本、最近では淡路島の松帆地区で銅鐸7個が見つかったりしているわけです。

 九州北部で多くの銅鐸とその鋳型が出土したことから、銅鐸文化圏の概念は今や否定されつつあるようです。
 特に、吉野ヶ里遺跡から出土した銅鐸と鋳型が出雲出土の銅鐸と完全に一致したことから、最近ではむしろ九州北部で作られたものが出雲に広まったと考えられるようになってきています。

 このため近年、「銅鐸文化圏」「銅矛文化圏」という言葉は一部の教科書からも記述が削除されつつあるようです。

 青銅器の分布圏は、「人を介した物質文化の広がり」を示すもので、これをすぐさま製作地や祭祀圏と読み替えてよいかは慎重を要する、と言うのは北島大輔氏です。
 弥生青銅器には原産地・製作地・使用地・埋納地がそれぞれ異なることがよくあるからです。
 今なお、邪馬台国東遷説の証拠に、畿内における銅鐸祭祀の急激な終焉、しかも異常な形での埋納をあげる研究者が多いので、確認してみます。


近畿の銅鐸文化の消滅は外部勢力の侵攻によるものか?
 銅鐸が出土する地域は、近畿地方を中心に広く分布しているが、ほとんどの場合、居住地から離れた場所に意識的に埋められたような状態で発見されます。
 人目につかない谷問の斜面や山腹などに、そのまま埋められた状態で発見されることが多く、弥生時代の住居跡から出土した例もありません。

 古い型式の銅鐸には、長年伝世され磨滅したような状態で埋められたものがある一方、新型式の銅鐸が鋳造後すぐに埋められたような例も見られます。新旧の銅鐸が一緒に埋められている場合もあります。
 銅鐸は祭器とされていますが、他の祭器と一緒に出土することはほとんどありません。わざわざ打壊されてから埋められたとみられる銅鐸もあります。

 そして、近畿の銅鐸は、2、3世紀という弥生文化の最終期に最も盛大となり、しかも、突然、その伝統を絶っているのです。

 こうした出土の特徴から、安本美典氏を含む一部の研究者は、銅鐸祭祀を早急に廃止し、しかも銅鐸を埋めなければならないような事情、すなわち外部勢力による征服があったのではないかとしています。

 銅鐸文化をもつ大和の先住民が、3世紀後半に、九州から来た邪馬台国によって滅ぼされたのではないか。銅鐸に象徴される宗教的・政治的権力が、銅鏡・銅剣によって代表される新たな権力によって滅ぼされたと。
 また、銅鐸文化は畿内を中心に紀元前後数世紀にわたって栄えた文化であり、ヤマト王権が初めから畿内で興ったとすると、畿内の祭器であった銅鐸が、ヤマト王権の祭祀や文化の中に少しも残っていないこと、『記・紀』などの古文献や伝承に何らの痕跡もとどめていないのは理解できないとも言います。


 しかし、銅鏡・銅剣を奉じる九州北部勢力などの外部からの大規模侵攻は、この時代には不可能ということは、当ブログで第58回までの論考の中で強調してきた通りです。
 第25回ブログで言及したことを再掲します。
 「この時代、クニの規模の大集団が瀬戸内沿岸の陸路を通ることは出来ません。海路についても、わずかな量の丸木舟しかありませんし、船団が港(津)が未整備の瀬戸内海を滞留することなくスムーズに回航する図は想像すら出来ません。
 数十年もかけて尺取虫のように少しずつ前進するなら、長距離移動も可能でしょう。でもそれは民族大移動を意味します。
 その場合は、大集団がキャンプするか定住するためのインフラが必要です。生活するための小屋、道具、食を大量に調達する必要があります。
 それは途中で、国またはクニを順次、建国しながら移動することと同じです。

 そして何よりも、それまでして九州北部にあった邪馬台国が、未開の地である大和に移動するニーズはどこにあったというのでしょうか。移動の動機がまったく読めません」。

 この時代、交通インフラを考えれば九州からの大規模侵攻は不可能であって、銅鐸祭祀の中断は近畿内部に変化の要因を求めるべきと考えます。

 弥生時代も後期になると、それまで畿内を中心に生産されていたいくつかの銅鐸製作集団が統合されて、より大きく装飾的な銅鐸が生み出されます。「近畿式銅鐸」と「三遠式銅鐸」の登場です。この頃から畿内中枢では銅鐸祭祀から、いち早く銅鏡など用いた新たな祭祀への移行が始まったようです。


銅鐸文化の急な消滅は近畿に限らない!
 近畿の銅鐸の急激な消滅を、邪馬台国(ないしは神武東征、または崇神の勢力)によって銅鐸文化をもつ先住民が滅ぼされ、銅鏡を祭祀の中心におく新たな統治が始まった証拠と位置づける論調は多くみられます。

 しかし銅鐸祭祀の急激な消滅は近畿に限りません。
 出雲の銅鐸、銅剣などの大量埋納の例(第65回ブログ)もあります。出雲西部では、1世紀末頃まで青銅器祭祀が続き、その後、間を置かずに四隅突出型墳丘墓による王墓祭祀が始まったようです。

 九州北部で始まった墳墓祭祀を軸とする文化は、大きなタイムラグなく列島各地に伝播しました。弥生後期の日本列島では「多極的流通ネットワーク」が形成されていましたからね。情報・文化・技術はモノの流通と共に比較的短期間のうちに各地に伝播したわけです。
 出雲でも、青銅器を使ってムラのみんなで分かち合うような「まつり」から、四隅突出型墳丘墓などで権力者(王)を崇める「まつり」へと変化したことで、青銅器を必要としない社会がやって来たということでしょう。

 

 近畿で銅鐸を埋納した理由については諸説あり、確定していません。九州北部勢力による近畿旧勢力からの権力奪取を否定する筆者としては、想像の域を出ませんが、北島氏が述べる次のような見解に共感を覚えます。

 銅鐸絵画のモチーフは、当時の現実世界で目にできる身近なものが多い。自然に働きかけた人間や農耕社会を肯定する弥生人みずからの心象風景を表現したものと理解できる。
 一方、九州北部を中心に流入が始まったシナの銅鏡には、想像上の神仙や霊獣・吉祥句などが鋳出されており、不老不死の神仙世界という異次元の世界観に基づく。

 「銅鐸などのまつり」が古墳時代に引き継がれなかった理由は、このような世界観の違いによるものと言えるのでは。

 三品彰英氏は、銅鐸の地的宗儀と銅鏡の天的宗儀という対比で捉えています。
 佐原氏の地中保管説を発展させて、三品彰英氏は、銅鐸は地霊や穀霊の依代(よりしろ)であり、大地に納めておくことが重要視されていたと言います。
 銅鐸を掘り出すことは地霊・穀霊を地上に迎えまつること(地的宗儀)で、まつりが終わると再び大地へ埋め戻していた。やがて古墳時代を迎えると鏡に代表される天の神、日の神のまつり(天的宗儀)にかわり、銅鐸は土中に放置された説明しています。

 銅鐸を祭る当時の列島の信仰的背景とは著しく異なる文化、鏡を祭器とする文化流入によって、それまでのそれぞれの共同体の祭儀に変化が起き、各々のムラで使われていた銅鐸を埋納したというわけです。
 銅鐸を使ってムラのみんなで分かち合うような「まつり」から、銅鏡をシンボルに権力者(王)を崇める「まつり」へと変化したことで、銅鐸を必要としない社会がやって来たということでしょう。

 その際、集落によっては銅鐸を壊す等の行為もあったと思われ、一部の破壊銅鐸の出土はこのような理由によるのでしょう。新しい祭祀を開始するにあたって銅鐸の破壊が行われたのです。

 近年、三角縁神獣鏡の一部に、反射光像の中に背面の文様が浮かび出す魔鏡現象が見られたとする研究結果が発表されましたが、暗闇の中に映し出された神獣の姿は、新たな時代の到来を強烈に印象づけたことでしょう。
 想像をたくましくすれば、3世紀の各地のクニのリーダーたちは、三角縁神獣鏡の怪異現象に歓喜の雄叫びをあげたのではないか。
 銅鐸祭祀の消滅は銅鏡を軸とした古墳祭祀の到来と軌を一にすることは事実でしょう。

 

『記・紀』に銅鐸の記載なし
 『記・紀』に銅鐸の記載はありません。
 「銅鐸」という言葉の文献上の初出は、797年編纂の『続日本紀』に見られます。

 『続日本紀』は、713年、大和で銅鐸が発見された時の状況を、
 <銅鐸を長岡野の地に得て奉る。高さ三尺、口径一尺。その制(形)、常に異にして、音、律呂(楽のきまり)に協(かな)ふ。>
と記しています。

 弥生時代の鏡・剣・玉などの祭祀具がその後も宝器・祭具として尊崇されたのに対し、銅鐸は早くその伝統が失われ、本来の用途が忘却されて奇異な出土物として観念されていたようです。
 平安時代になると、インドのアショカ王が各地に建てた宝塔と結びつけ、銅鐸をアショカ王の塔鐸とする考えすら生まれています。

 このような事例からは、当時の大和の人々には、銅鐸の記憶や知識がまったくなく、大型の異様な楽器として怪しんだ様子が見て取れます。『記・紀』の編纂が始まった7世紀には銅鐸のことはすっかり忘れ去られていたといえるのではないでしょうか。

 長い間、不明だったヒスイの原産地解明もそれと似ていますね。
 第50回ブログで言及しました。
「実は、奈良時代以降、一転して需要がなくなったため国内産地が不明となり、現代の研究者たちは、ヒスイの原石は日本では産出されず海外から持ち込まれたものと考えていたようです。長いあいだ原産地は謎でしたが、1939年に姫川上流の小滝川ヒスイ峡で原石が確認され、原産地問題は解決しました。偶然の発見だったようです。」と。

 祭祀の考え方が、『記・紀』編纂の7、8世紀には変質してしまったということですね。銅鐸はすでに過去のものとなっていて7、8世紀の王権には伝承もされず忘却の彼方へと消え去ってしまったわけです。

 5世紀、あれだけのエネルギーを注ぎ込んで築造した巨大前方後円墳についての言及が『記・紀』にまったくないのも、祭祀の考え方の変質によるものと思われますが、これについてはいずれ言及する予定です。

 

 以上で、邪馬台国関連の論考はひとまず終わりますが、最後に『魏志倭人伝』で評価すべきことを確認しておきます。

 

『魏志倭人伝』の記述から学べること
 『魏志』で
評価できることは、当時の景観・ヒメヒコ制の政治体制・一夫多妻制・風習・風俗・物産・社会制度などを私たちに知らせてくれたことです。
 研究者の間でも、これらの描写は正鵠を得ているとされており、この面からも、邪馬台国がまったくの架空の存在だったとまではいえないでしょう。

 また、『魏志』の記述からは、当時の朝鮮半島南部は九州北部に比べてかなり遅れていた地域だったことがうかがえます。
 九州北部は「その風俗は淫らならず」とされたのに対し、半島南部は「ただ囚徒・奴婢の相聚(あいあつ)まれるがごとし」と評されています。

 ついでですが、ここで「古代朝鮮優位説」の是非について言及しておきます。
 当時は、巷間伝えられるような、「先進的な朝鮮半島から後進的な日本列島への一方通行」という構図ではなく、双方向に文化・技術の伝播があったと思われます。
 交易であるから必ず何らかの反対給付があり、言うなればツーペイの関係だったはずです。実際、半島南部の加耶では九州北部地域の遺物がたくさん出土しています。

 4世紀までの朝鮮半島には国家と呼べるものはなかったので、「古代朝鮮優位説」は成り立ちません。日本列島もクニや地域国家が割拠していたのだから、あいこです。

 半島には、シナによって楽浪郡など4郡が置かれていたので、加耶などの小国群は先進国家シナの影響を受けていたうえ、漢人技術者の移住も多かったようです。最盛期の楽浪郡には数十万人の人口があり、シナの最新文化が持ち込まれていたといいます。

 日本は、朝鮮半島最南端部の小国群からというよりは、シナの植民地を通して高度な技術や文物を享受できたというわけです。
 例えば鉄の産地は半島南部であったが、それを鍛造して精密な鉄製品に加工する技術はむしろ日本の方が進んでいたのです。

 

 当ブログでは、「邪馬台国は九州北部にあった豪族の一集団にすぎず、大和地域の発展とは無関係」という立場で今後の論考を進めていきます。

 

参考文献
「青銅器のまつりとは何か」『考古学講義』北島大輔
『現代語訳 魏志倭人伝』松尾光
他多数