理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

76 神武天皇の実在性と建国神話 

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 ヤマト王権誕生に言及する手始めとして、「神武天皇」を取りあげてみます。
 神武は『記・紀』では、「神々の世界」と「人の世界」をつなぐ位置に存在する人物です。
 大東亜戦争敗戦前には、神武は建国の英雄として崇められていたことは誰しもが知るところですよね。しかし戦後、行き過ぎた皇国史観の揺り戻しで、今や神武の実在を信じる研究者は、ほとんどいなくなったのではないでしょうか。
 一方、いまだに神武を登場させる古代史も存在します。
 産経新聞社では、『神武天皇はたしかに存在した』という本まで出版しています。タイトルにビックリして読み進めてみると、実在を証明する内容ではなくて、日本各地に伝わる伝承や行事を取りあげ、現代にまで伝わる建国神話を高らかにうたいあげているわけです。
 はたして神武天皇は実在したのでしょうか。
 筆者は次のように考えています。

 宮崎・鹿児島は天孫降臨、神武生誕、東征出発の地か?
 宮崎・鹿児島両県は、天孫降臨の地であり、神武生誕の地であり、東征の出発地ともされています。
 しかし、実際に両県にある史跡や伝承地、神社を片っ端から回ってみても、立派な碑が建ち、由緒が麗々しく語られる割には、神武の時代(実在ならば1世紀後半から2世紀頃か?)に遡る事実を伝えるものは何もありません。
 筆者は2011年、2012年、2014年の3度、延べ11日間にわたって九州南部を周遊しましたが、どこもパワースポットとして一大観光地になっていましたが、伝承時期は古代に遡りませんでした。

 これらの史跡や伝承地の歴史はかなり新しく、神武が生まれ、成長して日向の地を治め、東征に出発したと想定できる客観的証拠は存在しません。

 かろうじて平安時代の『延喜式神名帳』に式内社として載っているのは、都農神社・都萬神社・江田神社・霧島神社の4社に過ぎません。
 大半の神社の創建は新しく、当地が昔から日本神話の一大聖地だったとはとても思えないのです。 

f:id:SHIGEKISAITO:20210116110200j:plain  <高千穂原と霧島神宮古宮址>

 宮崎県下には311基の古墳から成る西都原古墳群、それを中心にした西都原古代文化圏には800基に及ぶ古墳が存在します。ここに後のヤマト王権と強力に結びつく地域国家があったのは事実ですが、ここをヤマト王権の揺籃地とする説は成り立たちません。西都原古墳群の時期は3~7世紀であって、時代が異なるからです。

f:id:SHIGEKISAITO:20210116110252j:plain  <西都原古墳(鬼の窟古墳と阿蘇山地)>

 

 九州南部には、テーマパークと化した神社群は言うに及ばず、伝承を裏づけるような1、2世紀頃の痕跡はまったく残されていません。天孫降臨、神武生誕、天皇家の祖先揺籃の地というような面影はこれっぽっちもないわけです。
 もしも天皇家の故地が九州南部地域であるならば、なぜ8世紀の大和政権が隼人制圧で大変なエネルギーを注いだのでしょうか。
 筆者は、たとえ神話上の話であっても、天孫降臨や神武の出発地は、宮崎県よりも九州北部の方が合理的と考えるのですが、それは次回のブログで言及しましょう。


歌枕症候群
 天孫降臨から神武東征、大和政権の成立までの経緯を、一部の研究者や歴史作家が、古代史の名のもとにさまざまに描いています。そこに必ずと言っていいほど、宮崎が登場する。痕跡がないにもかかわらず、宮崎にこだわる滑稽さ……。
 物語や神話として楽しむなら何の問題もありません。しかしこれらが日本の古代史として大真面目に論じられるのはいかがなものでしょうか。

 この現象は「歌枕探し」に似ています。
 「歌枕」は『広辞苑』によれば、「歌を詠むときの典拠とすべき枕詞・名所など、古歌に詠みこまれた諸国の名所」とあります。
 平安時代から中世にかけて、「歌枕」とされた名所を特定することが流行しました。一度も行ったことも見たこともない場所を、推理を駆使して探すのだから百家争鳴の感を呈することになります。例えば、「信夫文知摺石」(しのぶもじずりいし)や「小夜の中山」など……。
 現代でも桃太郎伝説、かぐや姫伝説の候補地が全国に数多く存在します。 これとなんら変わりがないのが、古代史の謎解きといえるでしょう。

 神武東征のルートや天孫降臨の候補地はたくさんありますが、いずれもわずかな関係性をつなぎ合わせ、あとは大胆な推理で埋め合わせて涙ぐましい努力で作りあげられたもの。
 後世になってから、さまざまな関係者が、『記・紀』に記された地名・神名・事象を、推論で現実の世界に嵌め込んだため、多くの候補地や物語が存在することになるわけです。我田引水の賜物!
 ひとえに、古代から連綿と伝わってきた確かな故地が存在しないからですよね。
 これはもう歌枕症候群と言ってもよいのではないでしょうか。


神武東征の非現実性
 神武東征の非現実性については、すでに第2回、第12回、第25回ブログで言及してきましたが、あらためて振り返ってみたいと思います。

 『日本書紀』には、日向の地でシオツチノオジが即位前の神武に向かって、次のように言及する場面があります。
 <東(ひがしのかた)に美(よ)き地(くに)有り。青山(あおやま)四周(よもにめぐ)れり。其の中に亦、天磐船に乗りて飛び降る者有り>、
<その飛び降るといふ者は、是饒速日と謂ふか。何ぞ就(ゆ)きて都つくらざむ>。

 しかし2世紀前半の時期、九州の地からはるか離れた大和の確かな状況がわかるはずがないから、これは当然、後世の創作と考えられます。
 交易からもたらされる断片情報だけで、政治勢力が理想の地を求めて本拠を遷すことなど出来ようはずがありません。
 はるか東の、しかも海から離れ山に囲まれた大和盆地の正確な情報を入手することは、体系的な文字のなかった時代には考えられません。
 なぜ大和盆地が選ばれたかと言えば、天皇家の先祖が代々治めてきた地であったからでしょう。
 シオツチノオジの説話は元ネタのない創作で、あくまでも「神話の上での話」と解釈しましょう。

 神武東征物語で語られた経由地をたどってみると、丸木舟の船団から成る東征軍は、日向の美々津から船出し、豊後水道を北上、土着勢力の抵抗もないまま、宇佐を経て筑紫の岡水門に至ります。

 瀬戸内海に入り、安芸に7年間(『書紀』では3ヶ月)、吉備に8年間(『書紀』では3年)滞在しますが、長きにわたり滞在した割にその描写はきわめて淡白で、証拠となる場所は不明です。

 熊野上陸後は、ファンタジックな行軍や神武の活躍場面が皆無であることなど、いかにも作り話という感が強いですね。

 何よりも肝心なことは、弥生時代の2世紀頃に、瀬戸内を経由する神武東征は、理系的視点から考えられません。これは古代史検討の際のOB杭です。
 第57回ブログで「神武東征や邪馬台国の東遷、神功の難波への凱旋など、クニ単位の大集団の移動や相当規模の軍船による瀬戸内海横断はあり得ない」と述べた通りです。

 

神武は実在した人物か神話上の英雄か
 前項で述べたように、神武東征という、軍隊を伴う政治勢力の「東征」は明らかに考えられないことです。
 では、神武本人は皇室の祖先として実在したのか、それとも後世の創作なのでしょうか。

 神武らしき人物が絶対に存在しなかったという証明もまた難しいのは事実です。
 軍隊が征討しながら東進するイメージを持つ「東征」については、理系的視点から否定しました。
 しかし、もともと『古事記』に「東征」という言葉はなく、少人数で日向を旅立ったようにも見えます。
 『日本書紀』には、
 <天皇、親(みずか)ら諸(もろもろ)の皇子・舟師を師いて東(ひんがし)を征(う)ちたまふ>
とありますが、やはり大軍を率いたイメージはありません。
 東征軍のイメージが出るのは吉備から先です。

 実は、「神武東征」という言葉は、14世紀の『神皇正統記』を契機に広まったようです。
 そこには、
 <筑紫日向の宮崎の宮におはしましけるが、兄の神達をよび皇子群臣に勅して、東征のことあり。(中略)天皇舟檝(しゅうしゅう)をととのへ、甲兵をあつめて、大日本洲にむかい給。みちのついでの國々をたいらげ>
と記されています。
 文言の「舟檝」は船と舵、「甲兵」は武器と軍隊を意味するので、完璧な東征軍が日向の地から進軍を開始したといえるでしょう。

 一方、『記・紀』の伝えるところは、親族プラスアルファで、日向という地から出発したことが匂わされているだけです。

  実際のところ、神武のような人物が実在し、何らかの理由で、日向(筆者は九州北部とした方が合理的と思う)で食いつめ、ファミリーで放浪の旅に出立し、丸木舟で奇跡的に大和に行きついた可能性まで完全否定はできないでしょう。
 そういう先祖からの伝承が大和政権の中にあったとしても何ら不思議ではありませんね。
 手漕ぎの丸木舟で瀬戸内海を横断できる可能性が極めて小さかったとしても、数艘の舟であれば、潮待ち繰り返しうまく潮流に乗れば、決して不可能ではない。その稀有な成功例が神武ファミリーだったという可能性まで否定はできないのです。

 しかし、その場合の神武は、天皇家の祖ではあっても、国を開いた「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」という英雄のレベルでなかったことだけは間違いないですね。

 そもそも大和政権は、その初期は大和盆地の小勢力だった(いずれ触れることになります)のであって、「神武東征」と叫んでみても、建国などとは程遠く、九州からやって来た小集団ないしはファミリーが、最初に大和盆地の一角に住み着いたという程度のことにすぎないのです。
 結論として、「東征」という史実はありません。

 

 6~8世紀には今の天皇家の土台が固まってきた時期ですね。
 その頃の大和政権内で、祖先が九州の方からやって来たという代々伝わる祖先伝承があったとしても不思議ではありません。
 6、7世紀頃には、多くの古代豪族(物部氏、賀茂氏、鴨氏、紀氏など)の間で西から東へ移動する祖先伝承、さらには祖先の降臨が語られています。大和政権もこれらの集団と同じように九州を出自とする伝承を持っていたということに過ぎません(第12回ブログ)。
 それが大和政権に固有のものとして後世に作られたものなら、同じような出自伝承を他の豪族が持っているはずがありませんし、またそのような伝承を形成することが許されたとはとても思えないわけです。
 こういう祖先伝承は当たりまえのように流布していたが、『記・紀』に記されたことから、天皇家だけの「降臨・東征」が突出して後世に伝わったものと思われます。

 

皇国史観で現代によみがえった神武
 
前述したように、『記・紀』のなかでは「東征」という言葉は使われておらず、東征という歴史はなかったのだと思います。
 名もなき個人の放浪の旅ならともかく、東征となると各地に伝承が残るはずです。しかし、各地に軍事的衝突の証拠や裏づけを示す考古資料がまったく残っていません。
 肝心の宮崎の地ですら、神武の実在を示す考古資料は皆無です。

 各地に伝わる伝承は『記・紀』の記述をもとにして、後から作られたがあります。 

 今に伝わる文献や民間神話も、『記・紀』の記事や『神皇正統記』などをもとにした後づけのものばかりです。

 昭和初期に全国で「紀元2600年事業」という聖跡づくりが精力的に進められました。これは、近代になって再評価された神武を建国の英雄として明確に位置づける国家的大事業でした。

 船出の地とされる宮崎県日向市美々津は、近代になってから比定されたもので、その後、日本海軍発祥の地とされました。

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<神武天皇御船出の地とされる立磐神社(美々津)>

 

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<日本海軍発祥記念碑に飾られた「おきよ丸」
 

 宇佐の「足一騰宮(あしひとつあがりのみや)」は、宇佐神宮境内や宇佐市内に存在しますが、いつからの伝承なのかはっきりしません。
 筑紫の岡水門に至っては所在が不明。遠賀郡に神武天皇社がありますが、創建の歴史は新しいです。

 瀬戸内海に入ると、安芸の多祁里宮(『書記』では挨宮)を広島県府中町の多家(たけ)神社に比定しています。何と根拠は多祁里宮(たけりのみや)との音韻一致。
 しかし多家神社は平安時代の『延喜式神名帳」では「おほいえ」と呼称され、地主神である安芸津彦命を祀っていたという事実があります。

 吉備の高嶋宮は比定地がいくつも存在しますが、いずれも名前の一致から(歌枕症候群です)選ばれただけです。最有力地は児島湾の中の小島に鎮座する高島神社とされますが、皇紀2600年事業で指定されたに過ぎません。

 以上はほんの一例ですが、戦前、『古事記』は我が国の歴史を示す聖典として扱われ、神武以下の歴代天皇は実在し、そこに記載された神話・伝説も歴史的事実として認識されていたわけです。
 神武東征についても、高千穂宮から白橿原宮までの経路上の多くの場所を無理やり(?)推測で聖跡指定したのです。

 大東亜戦争の最中に、考古学研究が実証の方に向かうのではなく、神武聖跡の調査に没頭したという悲しむべき歴史!
 しかし、一旦聖跡と認定されてしまうと、それが消されることはありません。町おこしになるからです。

 神武天皇陵ですら、幕末に神武田(じぶでん)という丘を改造したものです。当然ながらそこに神武は埋葬されていません。そしてその隣接地には、神武を祭神とする橿原神宮が明治新政府によって急ごしらえで創建されたのです。

f:id:SHIGEKISAITO:20210116142827j:plain <橿原神宮の外拝殿と畝傍山>

 今、振りかえれば、国威発揚のために国家をあげて相当なインチキをやったことになります。司馬遼太郎も自著の中で、一つの伝説を、国家をあげて30年宣伝すれば古色を帯びる、という趣旨のことばを述べています。
 では、建国神話は「すべて」葬り去って良いということになるのでしょうか。


建国神話
 今回のブログは「神武東征」を対象としましたが、天地開闢から神武即位までの物語は建国神話ともいうべきもので、神武東征はその最終段に位置づけられるものです。そこで、建国神話そのものについて確認しておきましょう。

 神話は、物事の始まりを神がつくり出した、或いは神が決めたと語る物語です。実際にあったかどうかを問うものではなく、それを信じる人が真実として語るもので、心のよりどころにもなります。人さまざまです。
 神話は史実か否かを論じる対象ではありません(第11回ブログ)。

 建国神話は悠久の歴史、薫り高い文化を紡いできた貴重な遺産です。
 学校教育でも、石器・土器・鉄器・稲作・古墳などの無機的な事象を教えるのと同程度かそれ以上の比重で教えるべきではないでしょうか。

 キリスト教圏に伝わるギリシャ神話やキリスト教でも、成り立ちは似たようなものでしょう。キリストの生誕や数々の奇跡、また数多く存在する聖跡が、いかに荒唐無稽と思われようとも、キリスト教圏においては日々の生活や国家的な行事の底流となって根づいています。
 日本神話も、ギリシャ神話やキリスト教の神話に劣らず、否、むしろそれに勝る国家創生物語といえます。
 独自の文化や伝統を持ち、祖国への自負と誇りを持つ国民がいることが、国家として成り立つ最低要件といえます。

 神武の存在自体が実証されない現代の状況下で、建国記念の日に関する加地伸行氏による次の言葉を噛みしめてみたい。

 <建国神話は、天皇を中心にし戦前に戻ろうとするものであり、主権在民の今日からは許されないことである、というふうに、左翼陣営のアジ演説に引っ張り込んで、そこから大合唱する。これはいつか来た戦争への道となる。反対、反対と>。
 <なぜ建国記念の日などというものが求められるようになったのか、と言えば、それは近・現代国家が要求したからである。すなわち、近・現代の国家は、国民国家の意識と制度とを持たなければ生き残れない。そこで、その意識を高めるために、自国の歴史に基づいて建国の理由づけをしてきた>。
 <アメリカのような、せいぜい二百年余の歴史というような新しい国家なら独立宣言の日がはっきりしているので、直ちに建国の記念の日を決められる。しかし、日本のように古い歴史を有する国の場合、建国の日など新しく考えざるをえなかった。となれば、自国の最古の公的歴史書『古事記』や『日本書紀』に基づいて、誇りをもって定めるまでである。その日が事実かどうかというようなことは、国民国家にとって本質的な問題ではないのである>。

 実際、「記紀神話」は、さまざまな形で現代の私たちの生活や心の中に溶けこんでいます。各地で連綿として続いている神祭りや神事、また文学や美術、音楽などにも……。
 実際は、明治以降からの新たな慣習・作法・解釈が多いとは言え、日本人として神聖な気持ちになるのはそれらを体感する時なんですね。

 2015年11月、東京藝術大学の奏楽堂で、北原白秋詩、信時潔作曲のカンタータ『海道東征』を鑑賞しました。掛け値なしに感動しました。この曲は日本人であれば誰もが、心底素晴らしいと思うのでは。
 美しい旋律とたおやかなやまと言葉で歌われる神話は、心に響くものがあります。
 そこには、史実であるかどうかという些末な感情などまったく生じる余地がありません。時間感覚を超えたはるか昔に、神武東征があって日本ができたのだと妙に納得してしまうんですね。


参考文献
『令和の論語と算盤』加地伸行
『なぜ、神武東遷は九州から出発するのか』工藤浩
『神武天皇はたしかに存在した』産経新聞取材班