神武東征はフィクションなので古代史研究の対象外ですが、それでも7、8世紀の政権中央が神武東征の行程をどのように構想していたのか、子細に検討してみればいろいろと面白いことがわかります。
神武東征の出発地は九州北部かも?
日向から難波までの行程について、主として若井敏明氏の論をもとに検討してみます。
『古事記』には、
<日向(ひむか)より発(た)ちて筑紫に幸行(い)でましき。かれ、豊国の宇沙(うさ)に到りましし時、その土人(くにびと)、名は宇沙都比古・宇沙都比売の二人、足一騰宮(あしひとつあがりのみや)を作りて大御饗(おおみあえ)献りき。其地より遷移りまして、筑紫の岡田宮に一年坐しき。またその国より上り幸(い)でまして、阿岐国の多祁里宮に七年坐しき>。
<吉備の高島宮に八年坐しき。かれ、その国より上り幸でましし時、亀の甲に乗りて釣りしつつ打ち羽ふり来る人、速吸門(はやすいのと)に遭ひき>、とあります。
『日本書紀』の方は、全文を記すと長くなるので、要点だけ抜き出すと、
「日向より出立し、速吸之門で椎根津彦(土着の神、倭直らの先祖、珍彦)の先導で菟狭(うさ)に至る。宇沙津彦・宇沙津姫売が足一騰宮を造って饗応した。その後、岡水門(おかのみなと)に至る。1ヵ月半後、安芸国の挨宮(えのみや)に至る>、と記しています。
<和布刈神社から関門海峡を望む>
この行程では2つの疑問が考えられます。
疑問のひとつは、宮崎の美々津から出発して日向灘を北上し、豊予海峡を抜け、宇佐からわざわざ関門海峡を通って岡水門に停泊し、再び関門海峡を戻って瀬戸内海に入るという不合理な動きとなっていることです。
編纂上の何らかの事情で、神武の立ち寄り地として宇佐も岡水門も外せなかったとも考えられます。
その場合、岡水門よりもさらに西の伊都あたりを東征の出発地点にすれば、伊都~岡水門~宇佐~瀬戸内海という自然な行程になりますね。
そこで、神武の出発地は宮崎の美々津ではなく、もともとは伊都の付近だったのではないかと仮定して、その可能性を検討してみます。
神武東征の起点を伊都あたりと仮定すると、そこには天皇家の故地に相応しい先進文化と豊かな稲作文化が存在します。
九州北部地域における天孫降臨神話
『古事記』では、「高千穂のくじふるたけ」に天降ったニニギが、
<此地は韓国(からくに)に向ひ、笠沙の御前に真来通りて、朝日の直さす国、夕日の日照る国なり。かれ、此地はいと吉き地>
と言う場面があります。
この「此地」はどう考えても、東の太平洋に向いている九州南部ではなく、朝鮮半島と向き合う九州北部、例えば伊都国あたりとする方が合理的。
つまり、天孫降臨の地は宮崎県ではなく九州北部の伊都あたりではなかったのか。
天孫降臨の地を九州南部とする通説では、「此地は韓国に向ひ」の韓国は、霧島連峰の韓国岳(からくにだけ)のことで、名の由来は頂上から韓国が見えるからというのですが、当然ながら見えるはずもなく、これは後世の俗説です。
韓国岳の名に関しては、8世紀初頭、隼人懐柔対策の一環で、大和政権が豊前豊後にいた朝鮮系渡来人(秦氏系)を国分一帯に送り込み、そこに大挙定住した彼らが霧島連山を見上げ故国の山を偲んで、8世紀半ば以降につけたのではないかという説があります。
子細にチェックしてみると、天孫降臨の伝承地は九州南部に劣らず、当地域にもたくさん存在します。
平原王墓の東方には高祖山(たかすやま)が聳え、南の王丸山との間には日向峠(ひなたとうげ)があります。つかり平原王墓からみると日の出の太陽が日向峠の方向に見えるようです。
高祖山の2つのピークの南側はクジフル山と呼ばれているらしい。
日向峠の東側には室見川支流の日向川が流れています。
伊都国内に「日向のタカスのクジフルヤマ」という場所があることになり、『古事記』に記される降臨の地、「筑紫(つくし)の日向(ひむか)の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)」を体現しているようです。
もともと「筑紫の日向の高千穂」の原義は「九州の日に向かう、高い峰」のことですから、九州北部の伊都国に該当地があってもなんの問題もないでしょう。
<左から高祖山、日向峠、王丸山(伊都国歴史博物館から東の眺望)>
このように宮崎に劣らず伊都にも天孫降臨の伝承地がたくさん存在するので、どちらが優位ということにもなりません。
いずれも『記・紀』編纂の後からつくられた伝承でしょうが、明治政府・薩摩閥の力に押されて宮崎の方が輝いていると言えそうです。
こうしてみると、九州南部地域よりも九州北部の方が、もともとの天孫降臨・神武東征の地としてますます相応しく思えてきます。
問題は、「日向三代物語」です。
『記・紀』には海幸彦(ホノスソリ、古事記ではホデリ)は、「隼人阿多君の祖」「隼人らの祖」とあるので、物語の舞台は隼人が跋扈した九州南部と考えるしかありませんが......。
実は、「日向三代」の史跡は伊都国にも多く伝わっています。
三雲井原遺跡の中にある細石神社(さざれいし)の祭神はコノハナサクヤヒメとイワナガヒメ、志登神社(しと)の祭神はトヨタマヒメ、高祖神社の祭神は山幸彦のホホデミというように。
しかし、隼人は九州北部には存在しないので、これらは『記・紀』の編纂後につくられた後世の伝承と考えるしかありません。
以上から、次のように考えることもできるのではないか。
降臨・東征出発の場所は九州北部という伝承が6、7世紀頃からあったが、『記・紀』編纂の頃になって、本来の筋書からは必要なかった隼人対策を、日向三代物語として、挟み込んでしまった。
隼人対策のため、「筑紫」を九州全体とみなし、「日向」を日向国と読み替えた結果、九州北部・南部の別があいまいになり、天孫降臨・神武東征の地として合理的な九州北部までもが九州南部に置き換えられてしまった……。
そして後世、ことに明治から戦前にかけて次々と伝承がふくらみ、九州南部の方に降臨・東征ゆかりの地がどんどん造られ充実していったようにも思えます。
明治維新の立役者が薩摩だったことも大きく作用したのではないでしょうか。
しかし真偽のほどは藪の中。所詮、神話の上でのことです。
行程に関する2つ目の疑問は、速吸之門の位置です。
速吸之門はどこか?
速吸之門は、豊予海峡または明石海峡の古称とされていますが、一般的には豊予海峡の方を指すようです。他に吉備の児島湾口の古称も早水の戸と呼ばれていたようです。
豊予海峡は、太平洋と瀬戸内海を結ぶ豊後水道の北部で、大分県の佐賀関半島と愛媛県の佐田岬半島の間の幅13キロの海峡です。一方、明石海峡は淡路島と本州明石の間の幅4キロの海峡で、どちらも潮流の速さは屈指のレベルです。
『日本書紀』では椎根津彦の伝承を宇佐に至る前に記していて、研究者の間ではこちらを正しいとする説が主流ですが、椎根津彦の人物像からその是非を検討してみます。
亀の背中に乗って神武を導いた椎根津彦は、珍彦または宇豆毘古とも呼ばれ、後の大倭氏(倭直氏)の祖とされていますが、その倭直氏は吉備にゆかりのある海人族です。後に倭国造(やまとのくにのみやつこ)として、後世の大倭国(大和国)の中央部にあたる領域を支配しています。
椎根津彦の出自や子孫の勢力範囲を考えれば、瀬戸内海東部にゆかりの海人族の可能性が高いのではないか。
したがって椎根津彦は、神武が日向を出発してすぐの速吸之門(豊予海峡)で出会ったというよりは、神武が吉備の高嶋宮を出発した後、速吸門(明石海峡)で出会い、水先案内や献策などを行った功で椎根津彦を倭国造に任命したと考える方が合理的。
<五色塚古墳頂部から明石海峡(速吸門)・淡路島>
こうしてみると、東征の出発地が九州北部地域で、速吸之門が明石海峡であった方が東征の行程としては合理的でしょう。この場合、宇佐と岡水門の後先が『記・紀』の記述と逆になってしまいますが、日向(伊都)~岡水門~宇佐~安芸と進めるのでスムーズではあります。宇佐と安芸の間には、幸いにも姫島、祝島が存在し、陸地や島を目視しながら航行することが可能です。
<合理的な東征ルート(ネットより転載)>
しかし今となっては、『記・紀』の編纂者がどういう思いで行程をセッティングしたのか、知る由はありません。
瀬戸内海経由の東征は夢物語
この東征物語は何度読んでもひっかかるところがあります。
日向の地を旅立ち難波に至るまでの瀬戸内海横断の描写があまりにも淡泊なことと、移動手段に関する記述が皆無に等しいことです。
東征に6~7年(『古事記』では16年以上)もかけたのだから、少しは苦労の一端が記されて然るべきでしょう。東征の具体的な描写は畿内に入った後にしか見られません。どうみても不自然ですよね。
2世紀前半頃のクニの規模は数百人から数千人くらいだったと思われます。
神武軍がこれを順次征討して進むには、少なくとも非戦闘員を含め200~300人規模の人員を進軍させなければならない。
丸木舟には武器や食料・水も積載するので、一艘にたかだか5、6人程度しか乗れません。ということは50艘ほどの舟が必要になるが、鉄製工具のない時代にそれだけの舟を製作することはほとんど不可能です。
仮に舟が揃えられたとしても、通行可能な航路は狭く、潮の流れも速いので、細長く連なった大船団航行は偶発的な衝突を引き起こします。
瀬戸内海の途中には50艘もの大船団が停泊できる港もなく、食糧・水の補給も出来ません。
安芸の多祁理宮、吉備の高島宮に長期滞在する場合は、生存のための田畑が必須だが、紀元後間もなくの時期は、縄文海進の名残で農耕適地が極めて少なかったでしょう。
日本の平野のほとんどは、河川が上流から運び出してきた土砂が下流に堆積してできた河成堆積平野です。広島平野・岡山平野も例外ではなく、土砂の堆積で海退が進んだことに加えて、近世に入って海面干拓で平地が拡大した全く新しい人工平野でもあります。
丸木舟船団で瀬戸内海を東進することは、難航路というだけでなく造船能力と兵站の面から見ても、事実上不可能でした。
<瀬戸内海の朝景(対潮楼から仙酔島)>
瀬戸内海を経由する神武東征物語は、7、8世紀頃の知見をもとに書かれたものと考えざるを得ません。
大船団でない前提なら、むしろ潟湖の発達していた山陰を丸木舟による地乗り航行で進み、丹後を経由して大和に入るルートがあり得たと思います。
吉備の地政学的重要性
吉備の高嶋宮に3年間滞在して、舟をそろえ兵・食を蓄えたという記述には注目したいですね。淡白な記述の瀬戸内東進の中で、高嶋宮があったとされる児島については特別扱いで言及しているわけです。
『古事記』の国生み神話でも、吉備の児島は大八島に続き9番目の島として特別視されている。これらは7、8世紀頃の政権が、吉備の児島を交通・産業の要衝地として格別に評価していたということでしょう。
児島の北側にはかつて吉備の穴海と呼ばれる浅い海(現在の岡山平野南部にあたる)があり、吉井川、旭川、高梁川という吉備の三大河川が流れ込んでいました。吉備津神社(備中国一宮)が鎮座するすぐ際まで穴海が入り込んでいたことになります。
児島は瀬戸内の東西をつなぐだけでなく、瀬戸内と内陸部・日本海側を結ぶ交通の要衝地でした。
現在、吉備の穴海は埋め立てられ、児島は陸続きの児島半島となっています。
また、吉備(広島県東部を含む)と伊予の間に連なる芸予諸島、吉備と讃岐の間に連なる備讃諸島は、潮流が渦巻く交通の難所で、瀬戸内海航行の制海権を確保する要所でした。漁業の支配にもつながり、ここを押さえることはまさに権力の源泉でした。
その上、6世紀以降、たたら製鉄では出雲をしのぐ一大生産地となり、造船施設もあり、大切な塩の供給地であったことも、高嶋宮に3年間も滞在したという特別扱いの背景として見て取れます。
ヤマト王権による吉備児島の重要視については、第45回ブログでも取り上げましたが、いずれ当ブログの中で、「吉備国を攻略」として詳しく言及する予定です。
<芸予諸島の島々を繋ぐしまなみ海道(多々羅大橋・生口島>
<吉備国一宮「吉備津神社」(全長400メートルの廻廊はかつて吉備の穴海に面していた)>
河内湖の白肩津
瀬戸内海を東進し速吸門(明石海峡)を抜け、河内湖にとりついた神武一行は、河内湖東岸の白肩津(しらかたのつ、日下の蓼津とも)でトミのナガスネヒコとの戦闘で敗退します。一方、『日本書紀』では生駒山を越えようとして孔舎衛坂(くえさか)の戦いで敗退したと記しています。
ナガスネヒコは河内の土豪のようでもあり、生駒山で待ち構えていたので大和盆地の土豪のようでもあります。
この後、内陸奥深くに進攻した神武一行は、大和の鳥見(とみ、外山)でナガスネヒコ(『古事記』ではトミビコ)と2度目の戦闘をおこない、これに勝利して大和平定を実現するわけです。
以上からは、ナガスネヒコ(トミビコとも)は、大和盆地と河内の双方に拠点があった先住の豪族と考えられますが、これは根拠のない創作なのか、それとも何らかの古代の現実を反映しているのでしょうか。
次回のブログで言及することにします。
神武東征の真偽について、蛇足のようですが、長浜浩明氏や小名木善行氏の著作を読んでの感想を記します。
長浜氏は、『日本書紀』には、東征軍が難波から流れを遡上し白肩之津へ上陸したと具体的に描かれており、このことが、縄文晩期~弥生中期における大阪湾の地質学的状態「河内潟の時代(約3000年前~2000年前)」の景観と一致する一方、水深が浅くなる「河内湖の時代」では漕ぎ上れない可能性があるので、神武東征が「河内潟の時代」にあったことは間違いない、としています。
小名木氏にしても、書紀が編纂された時には河内平野は既に陸地化していたので、その記述は過去の実際の地形に基づいて書かれたものに違いなく、河内湖から奥深く進軍する神武東征は史実に違いないと言います。
しかし、下図に示すように白肩之津は6~7世紀になってもしっかりと存在しているんですね。『記・紀』の編纂者たちは、土砂の堆積と治水事業で弥生時代よりは小さくなった草香江の存在と草香津(白肩之津)の地を百も承知でした。
生駒山西麓の「津」に神武が上陸したという『記・紀』の記述は、リアリティをもって受け止められていたわけです。
詳しい進軍描写は、6~7世紀頃の景観をもとに記されたので、はるか昔の神武東征を証明することにはなりません。
それに、弥生時代の河内の具体的な景観や航行の実態が、文字という伝承手段がない中で『記・紀』の編纂者たちに伝わるはずがありません。
<6~7世紀頃の河内湖(日下雅義氏の著作から改変して転載)>
上図を掲載したついでですが、この先の古代史で重要となる「住吉津」「難波津」「難波堀江」が、また上町台地の先端には「難波宮」が記されています。
「住吉津」はすでに5世紀頃から存在したが、「難波津」は「難波の堀江」の開削と連動した継続的な工事により、6世紀までには完成していたと思われます。
「大仙陵古墳(仁徳天皇陵古墳)」が、当時、大阪湾(難波乃海)の海辺にあった様も見てとれます。
「住吉大社」の反橋のかかる神池は、古代のラグーン(潟湖)の名残で、ラグーンから独立した池に変わったのは14世紀半ば以降のことです。
次のような5世紀以降の広域図もあります。参考まで。
<5世紀以降の大阪平野(水都大阪より)>
大阪平野の変遷は下図が分かり易いと思います。これまた参考まで。
<東大阪市のサイトより転載>
縄文時代は大阪湾が湾入した「河内湾」の時代、紀元前3000年~前2000年は上町台地にふさがれた「河内潟」、紀元後5世紀頃は大阪湾と切り離された「河内湖(草香江)」となり、現在は埋め立てられて広大な「大阪平野」となっているわけです。
ただし実際は、大和川は河内湾、河内潟、河内湖に注いでおり、流路の付け替え工事が行われる江戸時代より前までは複雑な地形に沿って多くの河川に分かれて、旧淀川に注いでいました。大和川が付け替えられた300年前にも、河内湖は小さな新開池や深野池として残っていました。
参考文献
『神話から読み直す古代天皇史』若井敏明
『平野が語る日本史』日下雅義
『古代日本「謎」の時代を解き明かす』長浜浩明
『よみがえる古代の港』石村智
他多数