理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

79 神武東征(3)大和への進入ルートについて

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 神武東征物語は虚構とは思うものの、1~2世紀頃に大和へ軍事進攻する場合、どのようなルートが現実的だったのか検討してみます。古代史としてはお遊び程度に過ぎませんが……。

熊野からの大和入りは可能だったのだろうか
 はたして2世紀前半頃に、神武一行が紀伊半島南端部を大迂回して大和に至ることは可能だったのだろうか、まずはこれを検証してみます。

 『日本書紀』によれば、竈山から宇陀の下県に至る途中の地名は、名草邑、佐野、熊野の神邑(みわのむら、天磐盾)、熊野の荒坂の津(丹敷)の順となります。

 これらを現在の地名に比定すると、佐野は新宮市佐野に、神邑の天磐盾は神倉神社のゴトビキ岩に、荒坂の津(丹敷浦)は二木島付近または勝浦の錦浦になるようです。

 しかしこれらの場所が実際に紀伊南端部であったのかの確証はまったくありません。

  例えば神倉神社には、熊野で苦戦した神武に霊剣「布都御魂(ふつのみたま)」をもたらした高倉下(たかくらじ)が祀られていますが、後づけの感があります。
 布都御魂が祀られている石上神宮は物部氏に関係の深い神社ですし、高倉下(アメノカゴヤマと同一神)の子孫は尾張連ともされます。物部氏も尾張氏も熊野には全く関係しません。

 熊野那智大社では、シンボルとなっている八咫烏(やたがらす)が神武の道案内をしたと伝わっていますが、これらが後づけに過ぎないことはこの後で言及します。

 神武が丹敷戸畔(にしきとべ)を討伐したともされる勝浦の錦浦では、熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわやしろ)の境内に神武天皇頓宮跡の碑が建っています。
 この碑は、神武天皇祭の興隆とともに大正時代に建てられた模様。これは、はたしていつからの伝承なのだろうか、その歴史的経緯はまったくもって不明。平安時代からなのか、江戸末期からなのか……。
 何しろ、当地は長い歴史のほとんどが、後述するように、天孫系の名が刻まれない自然神の地であり、神仏習合の霊場(熊野詣の地)であったわけです。

 「神武の実在は、各地に東征の動かしがたい痕跡が脈々と残っていることからも歴然」というエセ古代史が闊歩する格好の事例が、この神武天皇頓宮跡の碑です。
 このような東征記念碑は各地にたくさん建てられているわけですよ。

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<熊野三所大神社(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)>


f:id:SHIGEKISAITO:20210118105419j:plain <熊野三所大神社境内に神武天皇頓宮碑>

 いささか怪しげな比定によって、神武一行は舟で潮岬を回りこみ熊野で上陸し、熊野川を遡上したか紀伊山地を越えて、吉野に進んだことになってしまったのではないか。今やこれが東征物語の通説となっているのです。

 実際、1~2世紀当時、まともに人が通れる熊野北上ルートは存在しなかったし、7、8世紀頃の政権中央は熊野という場所そのものをほとんど知らなかったと思われます。

 熊野川は、両岸に切り立つ崖が続く瀞八丁などがあり、川沿いは大半が歩けなかった。高巻きも困難で、谷筋は危険。舟で漕ぎ上るには流れが速く、船曳きできる川岸の道も少ない。
 紀伊山地を北上する場合は、熊野3600峰といわれる夥しい峻険な山々が深い谷を刻んでいるので、大峰山脈の尾根筋を縦走するしかありません。しかし当時は修験者すら存在せず、原生林が生い茂る人跡未踏の深山だったと思われます。

 『日本書紀』に記される、6月23日の名草邑から8月2日の宇陀までの行程では、正味20日くらいが熊野の深山踏破に当たるのでしょう。雨が特に多いこの時期に、軍用道を啓開しながら170キロもの距離を大勢が進軍できたとはとても思えません。


飛鳥・奈良時代の朝廷は紀伊半島南端部の熊野に関心なし
 『記・紀』が編纂された奈良時代初期、紀伊半島南端部に「熊野」の名は存在しません。
 そもそも熊野は「隈(クマ)」に通じ、丹後・近江・伊予・出雲などに広く存在し、紀伊地方特有の地名ではありません。一般名詞に近いのです。
 熊野は海または河川の近くにあり、背後には山地が控える奥まった幽暗な場所で、常世国に続くという伝承が残っていることが多いようです。

 紀伊西部の御坊、田辺あたりには「いや」「ゆや」と読む熊野の地があり、和歌山市の日前神宮(ひのくまじんぐう)も「日の隅」に通じるので、「熊野」は紀伊半島西部の広域を指していたともいえそうです。

 飛鳥・奈良時代の中央に知られていた紀伊半島の地域は、西からは有田・御坊・田辺・白浜のあたりまで、東からは伊勢までであった。紀伊南端部の熊野は人の存在もわずかで、人馬不通の異界の地でした。
 (とは言っても、那智勝浦に4世紀後半の下里古墳が存在するのが謎ですが、これは、第40回ブログで述べたように「太平洋側では黒潮の流れが速いため、推進力の大きい準構造船が登場するまで遠距離交易は困難だったが、熊野には小舟の避難・補給に好都合な潟湖やリアス式海岸は存在するので、黒潮本流を直接的に受けない沿岸航行が可能」ということ、すなわち海を利用する生業・交易は可能だったということかも)。

 7、8世紀に、単に熊野といえば出雲地方の熊野を意味し、紀伊南端部の熊野が中央の人びとに有名になるのは神仏習合後の平安時代になってからです。

 この頃の天皇の行幸先を『日本書紀』『続日本紀』から読み取ると、658年に斉明天皇の牟婁の湯(むろ、白浜)行幸、692年に持統天皇の伊勢行幸、701年に文武天皇の牟婁の湯(白浜)と続き、紀伊南端部の熊野に行幸した事実はありません。

 熊野の神々の初見(806年の文書)は、766年に熊野牟須美神、速玉神が俸禄を与えられた時ですが、二神とも、もとは熊野地方の自然神で中央には無名の神々でした。ましてや熊野三山を神武東征の由緒に結びつけるのは後世の所業で、乱暴に言えば町おこしに過ぎないのでは。

 10~12世紀になって熊野の神々の格付けが高まった。これは平安末期以降、浄土信仰の広がりとともに、神仏習合の熊野信仰が盛んになったから。
 907年に宇多天皇により初めての熊野詣が行われ、以後大和朝廷の熊野詣が盛んになるが、そのルートは、京都から紀州街道で和歌山に入り、田辺から熊野に至る中辺路でした。

 以上から言えることは、『記・紀』編纂時にイメージされた熊野は名草・海南・御坊・白浜・田辺あたりの熊野(いや・ゆや)であって、そのような前提で、茅渟の海(大阪湾)から宇陀(吉野川河尻)に至る物語が描かれたのではないかとも思われます。

 強引な地名の比定によって今では、大和入りは紀伊半島南端部の熊野から宇陀への北上ルートが通説になってしまったようです。しかし8世紀前後の人びとにとっては、このルートは考えることすら覚束なかったのでは。
 


現実味のある紀ノ川ルート 
 これに対し、茅渟の海(大阪湾)から宇陀(吉野川河尻)までのルートとして、「紀ノ川ルート」であれば、紀元1~2世紀頃でも進軍が可能だったかもしれません。
 熊野北上ルートは7、8世紀になっても存在しなかったが、紀ノ川ルートの方は、その数世紀も昔から和歌山と宇陀方面をむすぶ貴重なルートとして活用されていたわけですから。

 

f:id:SHIGEKISAITO:20210118105454j:plain <紀ノ川「万葉の里公園」>

 このルートは、名草邑を含む紀伊西部の熊野(ゆや・いや・隅)からそのまま紀ノ川を上ることになるので、東征ルートの解釈として合理的で、大変魅力的です。 

 
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<『古事記』による神武東征ルート(若井敏明氏の著作から転載)>

 

 佐野、神邑、荒坂はどこにでもありそうな地名なので横に置くとして、その先の丹敷については、「にしき」と読まずに「にふ」と読んだら、面白い筋書が可能となります。
 「敷」は訓読みでは「し」ですが、5、6世紀に江南から伝わった呉音では「ふ」と読めます(ちなみに日本には漢音よりも呉音の先に伝わっています)。

 紀ノ川中流から吉野川の流域には「丹生」のつく地名が多く存在する。
 丹生都比売神社丹生川上神社などの有名古社もある。
 この「丹生」は「にゅう」または「にう」と読むが、古語の読みは「にふ」なので、「丹敷」は「丹生」のことかも……。
 すなわち神武一行が丹敷戸畔を誅した際、熊(荒々しい霊力を持った神)の毒気で気を失う場所は、丹生の地とも考えられるのです。

 
f:id:SHIGEKISAITO:20210118105544j:plain <紀伊国一宮「丹生都比売神社」>


 丹生は赤い土のことで辰砂(Hgsからなる鉱物)を含みます。
 古代、辰砂は水銀や神聖な赤色顔料、防腐剤、鎮静・催眠薬の原料として珍重されていました。これを砕いて粉末にしたものを坩堝で熱すると水銀蒸気と亜硫酸ガスが発生する。その水銀蒸気を集めて冷却すれば水銀が得られます。

 地質学のうえで検証すると、紀ノ川はちょうど中央構造線上を流れています。中央構造線は南アルプスから伊勢湾、吉野、紀ノ川、淡路島南部、徳島の吉野川へと続きますが、この線上は鉱物資源が豊富で、古代から鉄や水銀が採取されています。

 紀ノ川上流域には水銀鉱床が分布していたのです。
 神武一行が毒気で気を失うのは、高温の地熱で気化した水銀蒸気か亜硫酸ガスに晒された場面と考えてはどうでしょうか。いささか遊びが過ぎるでしょうか。

 『日本書紀』に記された「荒坂の津 亦の名、丹敷浦」は海に面しているようにも思えますが「津」「浦」の地名は海岸沿いだけでなく、河川や湖沼の水際が船溜まりになっているような場所にも使われます。

 したがって、丹敷(にふ)の地が紀ノ川の上中流域であっても問題ないでしょう。
 海辺でなく熊野山中であるならば、『古事記』にあるように、いかにも熊野山に住む熊(荒々しい霊力を持った神)が登場しそうな場所となります。

 そもそも、すべての誤りの元は「丹敷」に「にしき」と仮名を振ったことにあったのではないか。二木島、錦浦の入り込む余地はまったくないのでは。

 その先は、高倉下から授けられた霊剣「布都御魂(ふつのみたま)」で覚醒した神武一行が、ヤタガラスの先導で吉野川の河尻に至ります。
 紀ノ川を上ってから河尻に至るのは大きな矛盾ですが、紀ノ川の上流(吉野川)に支流が流れ込んだあたりを第二河口として「河尻」と呼んだ可能性がないとはいえません。
 確かなことは、そこは阿陀の鵜養部(うかいべ)の祖先がいた場所で、今の五條市の阿田に相当するということです。

 『古事記』では、吉野川の河尻のあと、井氷鹿(いひか)と呼ばれた吉野首(よしののおびと)の祖、さらに国巣(くず)の祖と遭遇してから宇陀の穿(うかち)に達します。
 西から東へと一方向に進むスムーズな行程なので、紀ノ川ルートを遡る東征物語なら極めて合理的で現実的に思えます。いかがでしょうか?

 さらに、紀ノ川ルートを決定的にすることを述べます。
 紀伊半島南端部から熊野に至る山中には、高倉下(たかくらじ)や道臣命(みちのおみのみこと)、ヤタガラスの存在を感じさせるものは皆無です。
 人もまばらな異界の地であれば、そこに拠を定める古代豪族がいるはずもありません。
 それに対し紀の川周辺には道臣命やヤタガラスの子孫と思われる古代豪族の痕跡が見られるのです。次項で掘り下げてみます。


紀ノ川の周辺を本拠とする古代豪族
 神話では、道臣命は大伴氏の祖とされ、ヤタガラスのあとを追って大和へ進む神武一行を先導したとされています。
 天孫降臨の時に先導したアメノオシヒの子孫が道臣命で、天つ神系の氏族です。来目部(くめべ)などの軍事的部民を率いていたことから、物部氏と共にヤマト王権の軍事を管掌していたと考えられています。

 大伴氏は摂津から和泉の大鳥地方、紀ノ川下流地域、そして大和の磯城・十市にも拠点があったので、道案内役として最適なキャストだったといえます。
 神武即位の地が橿原とされたのも、壬申の乱での大伴氏の功績によるところが大きいという研究もあります(いずれ言及予定)。
 大伴氏は5世紀、須恵器生産などでヤマト王権を支える豪族としても活躍しました(氏の成立は6世紀以降とされるので、正確には大伴氏の先祖筋、または大伴勢力というべきか?)。

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<畿内の氏族分布(菱田哲郎氏の著作を改変して転載)>

 

 次に、紀ノ川上流の丹生の地で霊剣「布都魂」(ふつのみたま)を授けたとされる高倉下ですが、葛城山の東麓にある葛城高尾張邑(たかおはりむら)に縁がありそう。高倉下の子孫とされる尾張氏の本貫地は諸説あるが、大和での拠点は高尾張にあったとされています。
 一方、高倉下や尾張氏は、紀伊半島南端部の二木島や錦浦あたりに、これっぽっちもゆかりがないのです。

 最後にヤタガラスの本拠地について検討してみます。
 『古語拾遺(こごしゅうい)』では、神武一行を先導したヤタガラスはカモタケツヌミの化身であるとし、京都にある上賀茂・下鴨神社を奉斎する賀茂氏の祖と伝えています。

 そのカモタケツヌミ(賀茂神)が山城に鎮座するようになった経緯は、『山城国風土記』逸文に詳しく見られます。
 「大和の葛城山の神が、山城の岡田の賀茂に至り、さらに木津川に沿って北上し、高野川と賀茂川の合流点に達し、久我の国の北山の基に鎮まった」。
 久我の国の北山の基は今の久我神社で、上賀茂神社の地に当たる。したがってヤタガラスはもともと葛城山の神であった。
 しかし葛城は、荒ぶる国つ神を祀る鴨族の本拠地で、アジスキタカヒコネを祀る高鴨神社でも有名。葛城由来の神が、カモタケツヌミとアジスキタカヒコネの二柱存在することになる。

 これについては次の二説が存在します。
 ひとつは、山城の賀茂氏と葛城の鴨氏はもともと同系氏族だったが、後に葛城の一派が山城に移行したという説。
 一方、宇陀に八咫烏神社(やたがらす)があることから、吉野川流域の宇陀(紀ノ川の上流部)を本貫の地とする賀茂氏と葛城の鴨氏は、別々の存在だったという説もあります。

 しかしヤタガラスの本貫地が葛城であろうと宇陀であろうと、どのみち丹生の地に近い。神武一行が覚醒した丹生付近からの道案内はまさにヤタガラスが適役だったと言えそうです。
 蛇足になるが、葛城氏はヤマト王権に妻を出してきた雄族だが、葛城の鴨氏や宇陀の賀茂氏は祭祀氏族にすぎません。

 こうしてみると、筆者は今まで、熊野以降の行軍の無理さ加減を指摘してきたが、大和への進入物語に関する『記・紀』編纂者の認識は、はなから紀ノ川ルートだったのではないのか。後世の研究者が『記・紀』の解釈を間違えたとは考えられないでしょうか。

 そして、神倉神社のゴトビキ岩、熊野三所神社などが神武東征ゆかりの地とされてしまった。さらに花窟神社(はなのいわや)などのイザナキ・イザナミ神話が重なり、「記紀神話」の地として祭り上げられた熊野地方は、神仏習合の熊野三山とあわせ、今や第一級の観光地になっているのではないでしょうか。


神武東征物語の背後に、紀氏と王権の良好な関係あり
 紀ノ川下流域に力のあった紀氏とヤマト王権の関係についても確認してみます。
 名草地方の伝承では、古代、名草を中心とする紀ノ川下流域を支配していた土豪は、名草戸畔(なぐさとべ)と呼ばれる女性だった。統治形態は3世紀頃まで見られるヒメヒコ制

 名草戸畔のあと、紀ノ川南岸下流域には紀氏がすわった。
 紀氏一族のうち北岸勢力は、紀ノ川河口部から沿岸にかけて海部(あまべ)をかかえ、強力な海上交通能力を保有していた。朝鮮半島の交易窓口としてヤマト王権とも連携し、大伴氏とも結びつき勢力を拡大した。

 その後、大伴金村が任那4県割譲問題で失脚すると、今度は南岸勢力が紀ノ川河口を掌握し、一円の農地も支配したうえでヤマト王権に接近した。そして、それまで紀氏全体の土着の神(名草上下溝口農耕神)を祀っていた日前宮(ひのくまのみや)に皇祖神祭祀を取り入れた。

 6世紀のヤマト王権は屯倉(みやけ)や国造の設置を通して、紀ノ川流域一帯に勢力のあった紀氏一族に介入した。紀ノ川南岸勢力は、紀国造になる道を選択し、8~9世紀には紀直(きのあたい)として名草を中心とする地域に特化してヤマト王権と濃密な関係を築いていった。

 702年に、五十猛(いそたける)を始めとする三神が日前宮から各地へ遷され、今の日前神宮の原形が出来上がった。名草郡は八神郡の一つとして勢力を拡大したが、この動きに一線を画した北岸勢力は平群(へぐり)に移住して紀臣(きのおみ)となった。   

 ヤマト王権は海上交通の要衝地として紀直を重用した。600基以上の古墳群からなる岩橋千塚古墳群(いわせせんづか)は、紀直一族の墳墓で当時の隆盛がうかがわれます。

 こうして日前神宮で皇祖神が祀られ王権との深い関係を築いた紀伊が、7、8世紀につくられた神武東征物語に、神話の舞台として登場するようになったものと思われます。
 ちなみに紀氏は、紀伊半島南部地域や熊野の山中にはゆかりがなく、まったく関与しません。

 『記・紀』における大和進入ルートは、紀の川ルートをイメージして編纂されたのに、後世の人々が紀伊半島を大回りし熊野の山中を北上するという誠に困難なルートと解釈し、今やそれが定着してしまったのかもしれません。
 以上、「3世紀までの古代史」から逸脱?した「頭の体操」でした。

 

参考文献
『神武東征の原像」宝賀寿男
『神話から読み直す古代天皇史』若井敏明