第60回ブログで確認したように、最近の学説では、日本の水田稲作の開始時期は紀元前10世紀頃まで早まり、水田稲作は列島各地にゆっくりと拡散し、東北北部には紀元前4世紀、関東南部には紀元前3世紀に到達したと考えられています。
大阪湾沿岸、大和盆地、伊勢湾沿岸には紀元前6世紀から紀元前5世紀頃にかけて伝わったようです。
水田稲作の伝播・定着に比例して、河川の流域で集住が進み、「ムラ共同体」が興り、やがて交通の要衝地を核に、大きな「クニ」としてまとまっていきます。
水田稲作の開始は、集住促進に関して大きなインパクトとなった。これは近畿地方についても当てはまります。
しかし「瑞穂の国」と言われるわりにコメは長い間、主食とはならなかった。水稲技術が拙かったためです。
中世までは、むしろ麦や雑穀の畑作がメインであって、芋などの野菜の比重も高かった。日本列島で稲作が本格的に普及するのは17世紀の新田開発後から、そしてコメが主食になるのは明治になってからのことです。
第62回~66回ブログでは、九州北部や山陰におけるムラ共同体やクニの態様について言及したので、今回は近畿地方について確認することにします。
古代のクニとは?
当ブログで定義するクニ(小国)の代表的な形態は、祭祀施設を備えた中核的な大規模環濠集落と、そのまわり広範囲に衛星のように存在する多くのムラから構成される集合体で、人口規模は1000人~数千人と想定されます(第22回ブログ)。
紀元前から存在した環濠集落としては、吉野ケ里(佐賀県)、原の辻(壱岐)、妻木晩田(鳥取県)、池上曽根(大阪府)、唐古鍵(奈良県)、伊勢(滋賀県)、朝日(愛知県)などが代表的ですね。
いずれも小規模の衛星集落をいくつか抱えています。
環濠はなくても、大和盆地東南部の纒向遺跡群や中河内の中田遺跡群などの開放的な集住地域も、この「クニ」の範疇に入ると考えられます。
<主要な環濠集落(ネットから改変転載)>
ちなみに、当ブログでは、古墳時代において、クニがさらに統合された政治勢力を「国(地域国家)」と呼ぶことにしています。出雲国、筑紫国、ヤマト国、葛城国……というように。
ただし、統治の範囲は漠然としており、リーダー(首長)のもとに一元化した支配体制が確立していたわけでもなく、その地域一円にゆるやかに影響力があったというくらいのもので、むしろ、「吉備地域」「出雲地域」のように「地域」を用いた方が実態をよく表していると思います。
したがって、確固とした国境を持つ「律令時代の国」とは意味合いが全く異なります。
畿内における集住化
紀元前後から、先進地域の九州北部や山陰で、ムラが統合されていくつものクニが生まれましたが、近畿地方においても3世紀前半までに次のような推移があったと想定されます。
紀元前1世紀半ば頃、近江・河内・大和などに有力なクニ(小国)が生まれています。
纒向遺跡が出現する直前まで栄えていた有力なクニの遺跡として、近江守山市の下之郷遺跡・伊勢遺跡、尾張の朝日遺跡、大阪府和泉市・泉大津市に跨る池上曾根遺跡、奈良県田原本町の唐古鍵遺跡、それに天理市の岩室平等坊遺跡があります。
いずれも大きな環濠集落ですが、遅くとも3世紀前半までには相次いで解体し、その際に環濠も埋められています。
その直後に銅鐸も一斉に姿を消すことから、この間に祭祀や文化に関して大きな変革があったと考えられます。
唐古鍵遺跡などは銅鐸の主要な製造地だったとみられています。銅鐸祭祀に代わり、剣や玉、銅鏡を祭祀とする文化が、近畿地方を支配するようになっていったわけです(第75回ブログ)。
環濠集落の消滅に前後して纒向や中河内に環濠のない大集落が生まれます。
3世紀後半(実は4世紀か?)になると、纒向遺跡で巨大な前方後円墳(箸墓古墳)が出現します。
以下、3世紀前半頃までの近畿地方の主要遺跡を概括してみます。
近畿地方(大和盆地以外)の主要な遺跡
主要な遺跡を列挙しますが、当然、この他にもまだ発見されていない多くの大規模集落が存在したことは想定できます。それらが顕在化して新たな発見につながれば、古代史の捉え方も大きく変わってくると思われます。
下記の遺跡がいずれも交通の要衝地に立地していることは重要なポイントです。
1. 琵琶湖南岸地域
近畿地方で中心となる川は淀川ですが、3、4世紀頃までの淀川は暴れ川で、周囲に集落ができるような環境ではなく、当時の水運の要は琵琶湖でした。
琵琶湖南岸の守山市一帯では、紀元前5~前3世紀には服部遺跡で広大な水田跡が、紀元前2~前1世紀には下之郷遺跡で大環濠集落跡が認められ、その後、紀元1世紀に突如として巨大な伊勢遺跡が出現します。
下之郷遺跡(しものごういせき・滋賀県守山市)
琵琶湖南岸の野洲川扇状地端部に位置する近江地域で最大規模の巨大環濠集落。
最も外側の濠を含めると広さは約0.25㎢に達し、多くの掘立柱建物や壁立式建物があった模様。その中心部には、溝によって区画された方形区画があり、独立棟持柱をもつ高床建物が確認される。
これらから、複数のムラ(小集落)が統合されて形成された「クニ」の存在がうかがえます。
伊勢遺跡(滋賀県守山市伊勢町)
琵琶湖南岸の野洲川が形成する微高地に位置する。
縄文時代からから室町時代までの複合遺跡で、特に紀元後の1世紀後半~2世紀末における国内最大級の大型建物群で知られる。
面積は約0.3㎢で、吉野ヶ里遺跡、唐古鍵遺跡などと並んで国内最大級。
近畿地方では、紀元前の巨大環濠集落が解体して小さな集落に分散していくが、伊勢遺跡は紀元後に巨大化するのが特徴的。
中央部に、二重柵方形区画の中に、整然と並ぶ建物群(政治・祭祀施設か)や、その東に楼観が認められているほか、方形区画を取り囲むように円周状に並ぶ独立棟持柱付建物群(祭殿か)や竪穴建物(首長居館か)が発見されている。
大型建物は計13棟を数え、その様相から近江南部地域における政治・祭祀の中心地と想定され、弥生時代における近江の中核的なクニと言える。
このため、「邪馬台国近江説」も提唱されるが、卑弥呼の時代とはズレがあります。
<守山弥生遺跡研究会の資料から転載>
また同時期には伊勢遺跡の南西1.2キロメートルの下鈎遺跡で金属器生産跡が、3世紀には下長遺跡において伊勢遺跡衰退後の首長居館跡と推定される遺構が認められており、野洲川流域に散在する多くの「ムラ」が統合されて「クニ」へと発展する様がうかがえる。
稲部遺跡(滋賀県彦根市)
2016年、彦根市で大規模な鉄器工房跡が発見された。2世紀以降の遺跡で、最盛期は3世紀半ば頃と想定される。
大型建物跡や鍛冶工房跡23棟が発見されている。北陸、岐阜、静岡、大和、鳥取など各地の土器も出土していて、3世紀の物流の中心でもあった。
琵琶湖南岸は、琵琶湖を経由した日本海側との交易、陸路による伊勢湾沿岸との交易の要衝地で、しかも東日本と西日本とをつなぐ交通の要の位置になります。
この地に伊勢遺跡・稲部遺跡などの鉄と交易で栄えたクニが存在したのは地勢・地形からみて十分に頷けることです。
2. 淡路・播磨地域
大中遺跡(おおなかいせき・兵庫県加古郡播磨町)
紀元後から3世紀頃までの播磨における代表的な大規模集落跡で、70軒以上の竪穴住居跡が発掘されている。
五斗長垣内遺跡(ごっさかいといせき・兵庫県淡路市黒谷)
淡路島の西側海岸線から3キロの丘陵地にあり、広さは東西500メートル、南北100メートルで、紀元後1世紀頃のおよそ100年間にわたり存在した。
鉄器製造施設跡が23棟も見つかり、うち12棟から鉄を加工した炉跡の遺構が確認された。遺物の鉄器として、鏃、鉄片、切断された鉄細片など75点が出土した。また石槌や鉄床石、砥石など、鉄を加工するための石製工具も数多く出土した。
1棟の中に10基の鍛冶炉がある建物も発見され、これまで発見された弥生時代の鉄器製造遺跡としては最大規模。
住居は少なく、鉄器製作に特化した特異な遺跡といえる(第29回ブログ)。
2017年、五斗長垣内遺跡から北東方向6キロに位置する舟木遺跡でも、炉の跡や、鍛冶に使われたと思われる砥石や鉄片などの鉄製品60点が出土。大型竪穴住居跡4棟も発見された。面積は40ヘクタールもあるため、今後の発掘調査が楽しみ。
このように淡路島には大規模な鉄器工房があり、原料の輸入と鉄製品の輸出が盛んに行なわれたものと考えられます。というのも、古代の淡路島は瀬戸内海物流ルートの要衝地だったからです。
まず、瀬戸内海東部の中心に位置し河内地域や阿波地域に近接しています。
また中国山地は標高の低い切れ目が何か所かあるため、日本海から陸路で播磨、淡路島に至ることが比較的容易でした。例えば、丹波から氷上(ひかみ)を経由すれば山越えせずに丹波と播磨が往来可能ですし、豊岡から円山川を遡上し山越えして加古川を下れば播磨です。
鉄の材料が朝鮮半島南部から出雲、丹波、播磨を経由して淡路島に運ばれ、鉄製品は河内、近江などへ運ばれたものと考えられます。
理由は不明ですが、淡路島の鉄器供給基地は短期間で廃絶し、その役割は近江などへ移ります。
彦根市の稲部遺跡は、2世紀から4世紀の大規模な鉄器工房を含む集落跡で、最も栄えた時代は、3世紀半ば頃です。
3.尾張地域
現在の濃尾平野は、古代には存在せず、大垣や岐阜市から南は伊勢湾が海退したあとの湿地帯で、木曽三川や庄内川は常に河道が変わる暴れ川のデルタとなっていて、何本もの川を東西に横切るのは困難でした。中洲だった清州・津島や、台地になっていた名古屋・熱田の一帯に古代の集落が展開しています。
朝日遺跡
清須市・名古屋市にまたがり、庄内川西岸に展開する東海地方最大級の環濠集落で、範囲は東西1.4キロ、南北0.8キロ。推定面積は0.8~1.0㎢にも及び、日本の弥生中期遺跡としては最大級。
最盛期の人口は約1000人であったと推定される。
方形周溝墓跡も発見されており、古墳時代への過渡期の状況もうかがえる。
環濠集落外縁の埋葬施設からガラス小玉が出土し、壺棺には高坏を蓋にするものがあり、日本海側地域との共通性が認められる。銅鏃や鉄器(斧)が出土し、また青銅器が作られた可能性も高い。
西日本から近江経由で伊勢湾沿岸に伝わり培われた尾張の文化は、尾張に定着したのち、東海・東山、さらには北陸道に伝わるような動きが見られます。
東日本全体の起点となった尾張の役割は特筆すべきです。
4.丹後地域
大風呂南墳墓群や赤坂今井墳墓などの弥生時代の典型的な遺跡が存在しますが、いずれ丹後王国について掘り下げるときに言及します。
5.河内・和泉・淀川下流地域
東奈良遺跡 (大阪府茨木市)
大規模環濠を持つ弥生時代の拠点集落。
東奈良遺跡には、二重の環濠の内部に高床式倉庫など大型建物や多数の住居があり、外部には広大な墓域もあった。
発見された工房跡から、銅鐸の鋳型が35点も出土しており、ほかにも銅戈(どうか)・勾玉などの鋳型が発掘されている。ここの鋳型で生産された銅鐸が、近畿一円から四国でも発見されている。
この集落(クニ)は、唐古鍵遺跡と並ぶ日本最大級の銅鐸工場、銅製品工場であり、各地に銅鐸を供給できるほど重要な位置にあったと想定できる。
池島・福万寺遺跡(いけしま・ふくまんじいせき、東大阪市・八尾市)
弥生時代の水田遺構など、農耕に伴う広大な遺構、古墳時代の住居跡などが発掘されているほか、土器を中心とする各時代の遺物が見つかっている。
水田に水を引き込む為の灌漑施設、水田管理に伴なう祭祀、生産域と居住域の構成など、沖積地における弥生時代の農耕を物語る遺跡として、日本国内はもちろん、海外からも注目される遺跡です。
中田遺跡群(大阪市平野区、八尾市)
3世紀前半までの纒向遺跡の範囲は1㎢で比較的大型といえますが、大和川が河内湖に流入するあたりの中河内一帯には、これにまさる大規模集落遺跡が存在しました。
ひとつは、萱振遺跡・東郷遺跡・小阪合遺跡・中田遺跡などで、一括して中田遺跡群と呼ばれます。
また、すぐ西側には、加美・久宝寺遺跡群があり、大規模集落と墓域が隣接して展開しています。
いずれも環濠はなく、交易に適した開放的な大集落遺跡で、弥生時代後期から人々が住みはじめ、古墳時代には大集落に発展しています。
河内湖南岸一帯は、吉備以東の瀬戸内海・播磨・山陰との通交にきわめて有利。
中田遺跡や東郷遺跡の特徴の一つに、古墳時代前期の頃に吉備から運ばれた土器が7割と多量に出土していることがあげられます。これは河内と吉備との緊密な関係を物語る貴重な資料となっています。
大和側下流の河内は、第80回ブログで述べたように物部氏の先祖筋の勢力範囲でもあったようで、ここに立地した物部氏が、ヤマト王権の版図拡大に関して重要な役割を担ったことについて、いずれ言及したいと思います。
池上・曽根遺跡(大阪府和泉市・泉大津市)
南北450メートル、東西280メートルの範囲に広がり、総面積0.13㎢に達する弥生時代の代表的な環濠集落遺跡。
環濠で囲まれた居住区が約25万㎡。環濠集落西方一帯は水田があったと推定されている。遺跡内と周辺には方形周溝墓が20基ほど見つかっているが、王墓といえるような卓越した規模の墳墓は存在しない。
長さ20メートルの高床式大型建物跡が出土。
この建物の柱の1本を年輪年代測定法で調査の結果、紀元前52年に伐採されたことが判明。
他に、竪穴住居や鉄製品工房の跡、土間床の平地建物や、主な遺物としてヒスイの勾玉、朱塗りの高坏、銅鐸の破片などが見つかっている。
大和盆地のクニ・ムラ
2、3世紀の大和盆地には、纒向以外にもたくさんのクニ・ムラが出現しています。その多くが、周囲が山で囲まれた盆地ゆえか、九州北部や朝鮮半島からの影響がほとんどなかったのが注目すべき特色です。
寺沢薫氏の著作に掲載された下図は2~3世紀の大和盆地の集住をイメージするのに便利です。
大和盆地では、水系ごとに分けると23ぐらいのグループ、つまり共同体に分けることができ、これらが「クニ」に統合され、その後さらに3つくらいの、拠点集落を中核とした「大きなクニ」に編成されていったものと考えられます。
九州北部地域と異なり、幸いにも戦争という試練をあまり受けなかったので、この統合はきわめて緩くルーズだったと思われます。つまり九州北部のような政治的な統合というよりも経済的な統合の色彩が強いものでした。
<寺沢薫氏の著作から転載>
大和盆地の東南部と南西部に集中する大規模集落
大和盆地内には拠点集落と呼ばれる弥生大集落が各所に存在しますが、その位置は、大きく2か所に集中しています。
ひとつは、初瀬川沿いで東方地域への経路に近い盆地東南部に広がり、唐古鍵、平等坊岩室、多、中曽司(なかぞし)、四分(しぶ)、坪井大福、芝などの諸遺跡です。遅れて纒向の地に大集落が生まれます。
纏向は、東国と大和をつなぐ大動脈の大和側の玄関口にあたります。
もうひとつは盆地南西部で、曽我川沿いに新沢一(にいざわかず)遺跡、葛城・紀伊に通じる方面に鴨都波(かもつば)遺跡が存在します。
これらに対し、中河内に接する盆地西部地域や、南山城(みなみやましろ)に至る盆地北部には大規模な拠点集落は見られません。
唐古鍵遺跡
唐古鍵遺跡は紀元前5~前4世紀にはじまり、およそ700年間続いています。3世紀前半になるとここは急速に衰退。ほぼ同時期に纒向遺跡が出現します。
地理的には大阪湾から河内湖、大和川を遡った支流の初瀬川と寺川に挟まれた微高地に位置します。両側の河川から水を引き込むことが可能で、水田稲作の絶好地といえます。
唐古鍵遺跡の変遷を概括してみると、紀元前5~前4世紀頃に微高地を選んで人が集住し始めます。北部・西部・南部の3か所に初期のムラが形成されました。
紀元前1世紀頃には、ムラの周囲に溝がめぐらされ、それぞれが環濠集落の形になり、西部では大型建物が建設されます。
紀元前1世紀頃には、3ヶ所のムラが統合されて大環濠が全体を囲みます。大環濠の周りを幾重にも溝が取り囲み、紀元後の最盛期には南北770メートル、東西690メートルという大規模な拠点集落になります。
出土した外来土器の内訳を見ると、吉備・瀬戸内が約20点、九州北部が1点、近江が約40点、伊賀・尾張が約20点、伊勢湾沿岸地域が60点を超えているようです。西日本よりも東方志向だったことが顕著にあらわれています。
また、鉄製品の出土は4点にすぎず、西日本各地とは好対照です。
大和地域全体でも弥生遺跡からの鉄製品の出土は総数10点余りしか確認できず、隣接する河内など大阪府下で総数が120点を超えているのと対照的です。大陸産青銅器も同様な傾向にあります。
紀元前後から、集落内で銅鐸・小型の銅鏡・銅鏃などの青銅器生産が行われています。
このほか木製品や石製品などの手工業や農業生産も盛んだったと想定されます。
人口の増加に伴って新たな生産地・生活空間・墓地を求めるようになり、環濠集落内で暮らしていた人々が分村して多くの衛星集落が生まれます。
田原本町の保津宮古遺跡を含め、衛星集落を含めた「唐古鍵のクニ」は周辺2キロの範囲に及びます。
<唐古鍵のクニの統治範囲(坂靖氏の著作から改変転載)>
3世紀初頭には大環濠がなくなり、ムラの規模が縮小します。
相前後して、衛星集落から初瀬川沿いにわずか数キロ上流の纏向にも人々が移動し始めたと思われます。水運を考えれば、唐古鍵の人々が纒向へ移動したと考えるのは自然でしょう。何しろほんの数キロですから。
纒向遺跡(奈良県桜井市の三輪山の北西麓一帯)
東西2キロ、南北1.5キロほどの広範囲で、以上述べたような弥生大集落が衰退する3世紀になって出現した集落遺跡(纒向のクニ)で、150~160年間ほど栄えたのち、340年頃に突如として衰退します。
唐古鍵遺跡と同様に、多くの外来系土器が出土し、ほぼ半分を占めるのが東海系ですが、以下、北陸・山陰系が20%弱、河内系が10%、残りが吉備、関東、近江、瀬戸内西部などとなっています。弥生時代の唐古鍵と異なるのは北陸・山陰など日本海沿岸地域の土器が目立つことです。
交易の中心は東方地域と考えられますが、出雲地域などの日本海側と大和との関係が生じたことも表しています。
大和盆地東南部の各集落は、吉備地域などの西方との活発な交流がみられる中河内の遺跡群とは対照的です。
大和盆地東南部一帯には箸墓古墳などの6つの古墳が分布し、前方後円墳発祥の地とする研究者もいます。
ここを邪馬台国の中心地に比定する研究者が多いのにはガッカリ。白石太一郎氏、都出比呂志氏、福永伸哉氏らは、邪馬台国が纒向にあると主張している代表的な考古学者です。
同説の支持者には寺澤薫氏や柳田康雄氏もいますが、それぞれ微妙に纒向大集落の成り立ちの考え方が異なるようです。
纒向遺跡では環濠の跡が見つかっていないので、外敵からの攻撃を心配する必要がなかったということになります。
纒向遺跡の時代は弥生末期で、本来なら水田が存在するはずですが、現在までのところ水田跡が見つかっておらず、大集落で農耕が行われていなかったことになり、古代遺跡としてはきわめて異例です。
手工業や交易で専業者を生みだし、社会的な分業の萌芽が見られますが、まだ組織だっておらず分散して存在していたに過ぎません。
陸続として古墳が築造された期間は規模の大きい集住が認められるが、それも恒久的ではなく4世紀半ばには衰退してしまいます。
注目を集める割には謎の多い集落です。
纒向大集落については、次回以降のブログで詳述します。
大和盆地内で集約される3つの大きなクニ
大和盆地のなかでは、多くのムラがクニに統合され、それらのクニがさらに大きな3つのグループにまとまっていきます。
3つの大きなクニの合従連衡については、纒向のクニからヤマト国へと成長する3世紀末から4世紀のかけての論考の中で言及する予定です。
繰り返しになりますが、今回のブログで筆者がもっとも強調したい部分は、3世紀半ば頃までの大和盆地東南部は、先進地域である西方との関係が濃密とは言えず、邪馬台国大和説を支持する多くの研究者が描くような先進地域ではなかったのではないかということです。中河内や近江が、吉備や日本海側と濃密に関係していたのと対照的です。尾張はその近江からの影響を色濃く受けていました。
同じ大和盆地でも、奈良山に近接する北部(わに地域・さき地域)は、木津川などを経由する南山城・近江方面とそれなりの通交があったと思われます(次回以降に詳述予定)。
参考文献
『古墳解読』武光誠
『ヤマト王権の古代学』坂靖
『埋葬からみた古墳時代』清家章
『王権はいかにして誕生したか』寺沢薫
『ヤマト王権誕生の礎となったムラ 唐古・鍵遺跡』新泉社
『血脈の日本古代史』足立倫行
他、ネット情報など多数