理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

85 ヤマト国の発祥(1)無主の地に忽然と出現?

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 第70回から75回のブログで、邪馬台国がヤマト国に連続しないことを確認しました。よって纒向集落はヤマト国(ヤマト王権の初期状態)の前段階のクニの姿と位置づけられそうです。
 考古遺跡・遺物の存在から、(仮に崇神が3世紀末に実在したとすれば)崇神以前のムラやクニの姿をおぼろげながらもイメージすることは可能と思われます。
 ではヤマト国は、いったいどのようにしてつくられたのでしょうか。

纒向誕生に関する諸説
 3世紀初めまでは無主の地だった(?)纒向に、突如として280メートル近い巨大な箸墓古墳(前方後円墳)が出現したのは驚異であるとされています。

 あまりにも桁外れの出来事なので、次のようにいろいろな説が登場します。これら諸説については、今までのブログでも言及してきました。

 代表的な説は、政治連合説(第18回ブログ)や邪馬台国東遷説(第70回ブログ)。倭国大乱後の平和都市説や祭祀都市説、見えざる鉄器説なども……。
 そして、3世紀半ばの箸墓古墳の出現をもって「古墳時代の始まり」とするのは今や考古学界における有力説となっています。

 しかし、どの説も外的要因がドラマチックすぎて、纒向が誕生した説明としては今一歩の感が拭えません。直感的に無理筋と感じてしまうのです。

 交通インフラが未整備で、情報の授受もままならない大和盆地の中に、遠隔地の政治権力が介在する形で、短期間のうちに新たな大集落が誕生し、しかも巨大古墳が築造されたとはとても考えられません。

 古代の歴史の歩みはもっと緩やかだったのではないか……。

 筆者は、纒向集落の誕生とヤマト国への発展は、文化・宗教・技術などの外的要因が作用したこともなくはないが、3世紀半ば頃までに大陸文化の影響がほとんど見られないことなどから、一次的には大和盆地内部にその要因を求めるべきと考えます。
 それは纒向の特異性です。

纒向の特異性
 纒向は、巷間語られているように本当に無主の地だったのか、その纒向で巨大前方後円墳が築造できたのはなぜなのかの2点を紐解いてみたいと思います。
 筆者は、3世紀末に大和盆地、とりわけ纒向の地でヤマト国が発祥し、その後、4世紀にかけて勢力を拡大できたことについて、次のような6つの特異な要因が関係したと考えています。

〇 「纒向前史」が存在
〇 地勢的優位交通・交易面での優位
〇 先進的祭祀の発明、巨大古墳の築造力
〇 優れた産業政策交換経済
〇 カリスマ的な王と優れた豪族層の存在
〇 際立つ軍事力と先行者利得

 この後、数回のブログで順次、掘り下げていきます。
 まず一つ目。

 

纒向の地には「2世紀半ばからの前史」があった!
 纒向遺跡に関する通説は次のようなものですね。
 3世紀に突如として、東西2キロ、南北1.5キロ(3㎢=300万㎡)に及ぶ巨大集落が誕生したのは、大和盆地の中の人々だけでは不可能で、各地の豪族が連合して造りあげた、ないしは各豪族が協議して王を共立した、あるいは吉備からの大勢の移住による……。
 しかし、纒向はそれまで本当に無主の地だったのでしょうか。

 実際、纒向には紀元前から人が住み始めていましたが、1~2世紀にはムラの規模の集落すらなかったので、それまでは「無主の地」だったと言ってもよいでしょう(第66回ブログ)。
 しかし、2世紀後半頃からムラが出来、3世紀後半に向けて徐々に成長してきた長い前史があるのです。3世紀半ばになるまで決して無主の地だったわけではありません。

 筆者が考えるのは、初瀬川下流に存在した唐古鍵遺跡の人々が環濠から出て、上流の纒向に移動し、新たな集落(ムラ)を構えたという仮説です。両遺跡から出土した遺物の傾向にも共通点が見られます。
 唐古鍵が統治した衛星集落(第82回ブログ)からは、ほんの3~4キロ上流が纒向の地です。そこに、近隣の坪井大福の集落からの人の流入、尾張・伊勢方面からの人の流入が重なり、規模が拡大したと考えます。
 巷間いわれる吉備からの大量流入などはとても考えにくいです。

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 <坂靖氏の著作から改変転載>

 

 その後も、「纒向のムラ」は発展して、3世紀後半には「纒向のクニ」として1.0㎢の大きさになり、4世紀になるとさらに拡大し3.0㎢の大きさになったわけです。
 むしろ、纒向の最盛期は4世紀と言うべきでしょう。
 こうなると、もはや纒向のクニではなく、上図の「おおやまと」地域を基盤としながらも、大和盆地のほぼ全域に影響力を行使するヤマト国と呼んだ方が適切です。

 纒向が有名な遺跡として取り上げられるのは、箸墓古墳の存在(最も早い説では3世紀半ばの築造)にありますが、それよりもはるか前(2世紀後半)から積み上げてきた前史が存在するわけです。
 纒向は、それまでの「無主の地」に、3世紀後半になって各地の豪族が連合して王権を造りあげ、人びとが短期間に大挙移住して出来上がった大集落ではなかった!

 筆者は、纒向は外から技術的・文化的な影響は受けたものの、発祥・成長の主たる要因は大和盆地や纒向自体が持つ内発的なものだったと考えます。

 

 第70回ブログでも言及したように、纒向遺跡は唐古鍵遺跡の4倍の規模があり、邪馬台国大和説の有力な候補地として大変な注目を浴びているわけです。
 しかし、邪馬台国時代の3世紀初めから半ば(草創期の纒向遺跡)の時点では集落範囲はかなり狭く、意外にも、河内平野や九州北部に存在した同時期の多くの弥生遺跡にも及ばなかったのです。
 その後、4世紀に3倍の規模になり、名実ともに古墳時代の象徴的な遺跡に成長したことをきちんと受け止めたいと思います。

 第60回ブログの最後で、藤尾慎一郎氏が大和盆地で前方後円墳が造られた理由の一つに、「(3世紀半ばにはすでに)祭祀・政治の中心だった邪馬台国の所在地だったから」と述べていることに失望した、と記しました。
 3世紀当時の纒向は無主の地から抜け出したばかりで、とても日本列島の「祭祀・政治の中心」とは考えられないくらい小さな規模だったのです。

 九州北部地域
   須玖岡本遺跡 1.5㎢
   比恵那珂遺跡 1.4㎢
   三雲井原遺跡 0.7㎢
   吉野ケ里遺跡 0.4㎢

 河内湖南・和泉地域
   中田遺跡群  3.5㎢
   加美久宝寺遺跡群 1.2㎢ 
   池上曽根遺跡 0.25㎢

 東海地域
   伊勢遺跡 0.3㎢
   朝日遺跡 0.8~1.0㎢

 大和盆地
   唐古鍵遺跡  0.25㎢
   纒向遺跡(3世紀半ば)1.0㎢
   纒向遺跡(4世紀)3.0㎢

 

環濠集落の解体と纒向遺跡の出現
 大和盆地における集住は、紀元前から始まっています。規模は十数人から数十人、数家族がまとまる規模で、生命維持に必須の「水辺の地」に人が移り住むところから始まったと考えられます。大和川の支流沿いの微高地です。

 やがて集落同士の接触というプロセスを通して、有能なリーダーを抱える集落はより大きくなり、紀元前後にはムラが生まれました。ムラ(小規模集落)の規模は数十人から数百人というところでしょう(以上第23回ブログ)。

 紀元前後の大和盆地には、数々のムラが存在しましたが、その中から優位に立ち成長した集団が、唐古鍵・岩室平等坊・坪井大福などのクニ(環濠集落)を形成しました。環濠は近接地域との戦乱や外敵に対する備えのためのものでしたね。他にも小さなクニ・ムラがたくさん生まれています。

 これらのうち紀元1~2世紀頃の唐古鍵は大和盆地における最先進集落でした。
 纒向にも人は住んでいましたが、やがて唐古鍵からあふれた人が初瀬川を遡って住みつき、2世紀半ば頃からムラの規模の集住が始まったと想定できます(第82回ブログ)。

 これらの環濠集落群は3世紀初めから半ば頃までにはほとんど解体ないしは衰亡し、まるで入れ替わるように、3世紀前半には纒向に開放的な集落が誕生したことが考古学的にわかっています。

 第82回ブログで言及しましたが、クニが狭い時に防衛機能として有効だった環濠集落は、クニの規模が大きくなるにつれ環濠では囲いきれず、一般民衆とは分離した方形区画の中に王の居館が造られるようになります。河川や水路などを巧みに利用して防衛・交通・交易にも配慮しつつ、広いクニの統治に適した開放的な集住の姿に進化します。これが纒向大集落の姿です。

 

纒向ではなぜ急速に集住が進んだのか?
 古代のクニのリーダーにとって、最優先課題はリーダー自身が主導して河川から集落内に水を引き込み、土地開発を行なって農耕を行なえるようにすること、そして高い農業生産力を背景にしてクニの基盤を整えることです。
 いうなれば、出発点は水利であって、纒向は最高の生産適地でした。これこそが纒向が急発展できた原動力だと思います。

 第82回ブログでは「水田稲作の開始は集住に関して大きなインパクトとなったが、コメは瑞穂の国というわりには長い間、日本列島で主食とはならなかった。水稲技術が拙かったため」と述べましたが、大和盆地は古代における水田稲作の適地でした。

 纒向周辺の大和盆地東南部(東部山地の西側斜面)には、いたるところに扇状地、緩斜地があるため、高度で手間のかかる水路を造作しなくても重力灌漑・地表灌漑が可能でした。大規模な土木工事の必要がないという、農耕や水稲にきわめて有利な条件が整っていました。鉄器がなくても木器や石器だけで水路の引き込み工事ができたのです(第23回ブログ)。

 纒向は、環濠集落として発展した唐古鍵よりも、さらに水辺の地としての利点が活かせる立地です。

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 <国土地理院のデジタル標高地形図を改変>

 紫の丸印がほぼ平らな平地に存在する唐古鍵です。赤の丸印が纒向遺跡で、東部山地西側の緩斜面に立地しています。三輪山・巻向山・穴師山などから出た流れが巻向川に合流し、その扇状地末端に遺跡が形成されているわけです。

 纒向遺跡の大きさは、下図において黒色破線で囲んだ部分が4世紀の最盛期の範囲、朱色破線で囲んだ部分が3世紀前半の範囲です。

 また、弥生時代の河川の流れは、あちこちの発掘調査でかなり判明しており、現在の川の流れや川幅とはかなり異なっています。古代の纒向は扇状地ゆえ、今は消滅して存在しない河道(かどう)が何本も走っていたことがわかっています。

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 <坂靖氏の著作から改変して転載>

 上図に示す薄灰色の幾条もの筋が、扇状地の上を網の目のように走っていた古代の河道にあたります。最盛期には河道に沿って、草川・太田北・巻野内・太田・箸中・茅原の6つのムラ(小規模集落)が存在したようです。

 河道はおおむね東から西へと流れていますが、その河道を横切る人工的な大溝も発掘されています。纒向は水の都だったと言えますね。
 巻向川から下れば初瀬川、さらに大和川に続き河内湖から大阪湾に至ります。
 このような農耕適地交通の要衝地という要素が、急速な集住を実現できた一要因と考えます。

 このような河川・古代の河道と大溝の存在が、纒向集落内のムラ一体化だけでなく、やがて大和盆地東南部の中小豪族層(纒向・三輪・田原本・磐余・柳本など)が一体化して地域連合体を結成することを促進したと思われます。
 そうした中で、富(人口・財力・技術力)を蓄積した地域連合体の力で箸墓古墳築造が実現したと考えます(それにしても3世紀半ばはリードタイムが短すぎ?)。

 

纒向は農耕適地のはずだが?
 農耕に絶好の立地にある纒向遺跡は、本来なら水田があってもよいはずなのに、少なくとも現在までのところ、水田跡や農耕地の痕跡が出土していません。土木工事や古墳築造に必要な鋤などは多く出土しているが、農具である鍬の出土量が極めて少ないのです。田畑の畝や溝を整えるには鍬が必要です。

 纒向遺跡では農業が行われていなかったのでしょうか。
 筆者は第23回ブログで、纒向が非農業区画だった可能性もあるのかもと指摘しました。
 仮に纒向自体に農耕地がなくても、纒向近傍の扇状地・緩斜地には水稲適地がたくさん存在したので、纒向が大量の人口を抱えることを可能にしたと考えたわけです。
 しかし、纒向遺跡はまだ想定面積の5%しか発掘されていないといいますから、今後、水田跡が大量に見つかるかもしれませんね。楽しみ!

 現に、同じ大和盆地内にある御所市の中西遺跡で、紀元前500~前400年の水田跡(約3500㎡)が見つかっています。隣接する秋津遺跡を含めて、これまでに確認した同時期の水田跡は約4万3000㎡に及び、紀元前400年頃の水田としては国内最大級の遺跡です。周辺の地形を考慮すると水田の広がりは10万㎡を超える可能性があるといいます。

 1区画あたりの水田跡は平均9㎡ほどで、幅の狭い畔で区画されています。緩斜面を利用して水が畔を越えて水田全域に行き渡るような灌漑施設をそなえているようです。同時に多数の竪穴住居跡や独立棟持柱建物跡も出土しています。

 中西遺跡から北東にわずか15キロの位置が纒向ですから、王権が発祥する前の纒向に大きな集住が存在したことは、食の面からは不思議ではありません。

 農耕の痕跡が見つからないのと同様に不思議なのは、纒向には最盛期に7000~8000人が居住したと言われますが、その痕跡が見つかっていないことです。

 

重要な遺構・遺物が出土する一方、一般民衆の住居が見つからない謎
 纒向遺跡からの出土物を確認してみます。
 矢板で護岸した幅5メートル、深さ1メートルの直線的な巨大水路(大溝)が2本見つかっています。
 護岸工事は、直径15センチの柱に四角いホゾ穴をあけ、貫(ぬき)を通すという高度な工法が採用されています(第26回ブログ)。両溝の総延長は推定2600メートルにおよび、巻向川を経由して大和川に通じており、遠く外海へと結ばれています。4世紀に勢力を拡大するヤマト王権にとって、交通交易面での大きな支えになったものと思われます。
 これら2本の大溝に加え、排水・下水施設のようなインフラも備え、整然と区画された機能をもった遺跡が、弥生時代末期に出現したのは、確かに大きな謎でもあります。 

 纒向遺跡から出土した土器844個のうち、123個(15%)が東海・山陰・北陸・瀬戸内・河内・近江・南関東などから搬入されたもので、他に朝鮮半島の韓式土器も出土しています。第18回ブログでも言及しましたが、これらのうち伊勢・東海からの土器が半分を占めていて圧倒しています。この事実は重要ですよ! 

 銅鐸の破片や祭祀用と思われる土坑が2基見つかり、碧玉製勾玉・石釧・管玉・ガラス小玉などの他、弧文円板や鳥形の埴輪や木製品など祭祀用具が多く出土しています。宗教都市と言われる所以です。

 纒向遺跡は大集落遺跡といいながら、ムラを構成する住居跡や倉庫跡は発見されておらず、遺跡を囲む環濠もありません。纒向遺跡の推定居住地は、後述する主要古墳を中心として、広く散らばっていますが、実際に人が住んだ痕跡ほとんど発見されていません。住居もまばらで防御も必要ない平和都市だというのでしょうか。

 纒向遺跡の中心部で一直線に整然と並ぶ大型建物跡が出土しています。建てられた時期は3世紀後半以降の可能性が高く、王宮だったとも卑弥呼の宮室だともいわれますが、何しろ見つかったのは柱穴だけ……これだけではなんとも。

 掘立柱の高床式住居と竪穴住居の跡が若干出土していますが、一般民衆の住居跡は見つかっていません。
 これは、地面(床)を掘り下げない平地建物(平地式住居)が大量につくられたせいではないでしょうか。
 平地建物では竪穴住居のような大きな竪穴を作らないため、柱や屋根材が見つからなければ地面には炉跡と柱穴跡くらいしか痕跡が残りません。このため、一般には竪穴住居より見つかりにくいものと考えられます。

 竪穴住居は寒い気候での生活に有利だという説明をすることが多いのですが、実際には現在知られている以上に平地建物も存在し、竪穴住居と使い分けられていた可能性もあります。

 つまり、7000~8000人が居住した最盛期には、竪穴式住居ではなく、少数の高床式や大多数の平地建物で居住域が構成されていた可能性が考えられます。いずれ言及しますが、多数の古墳を築造するために、遺跡内に大勢が居住していたことは確実ですからね。

 一方、大陸文化の影響を伝える豪華な品物や青銅器などがほとんど出土しないことは纒向遺跡の大きな特徴です。3世紀の時点では、シナや朝鮮半島との交流がほとんどなかったことを示していると思われます。これも重要な事実ですよ。

 纒向遺跡には、地上では確認できない埋没古墳、農耕跡、住居跡が、まだ地中に多数埋蔵されている可能性がありますね。今後が楽しみです。

 忽然と出現(?)したかに思える巨大な箸墓古墳の築造にも触れたいのですが、この後のブログに回します。 

 次回は、大量の人口を抱えることを可能にした纒向の地理的優位、交通面での優位について言及します。

 

 

参考文献
『古墳解読』武光誠
『ヤマト王権の考古学』坂靖
『日本の古代史 発掘・研究最前線』瀧音能之監修
『古代日本誕生の謎』武光誠
『考古学から見た邪馬台国大和説』関川尚功
他多数