理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

86 ヤマト国の発祥(2)地勢上の優位、交通・交易面での優位

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 なぜ大和盆地が、なかでも纒向の地(それに続く続くヤマト国)が広域的な地域関係の中心として大きく飛躍する起点になったのでしょうか。

 地勢面に関しては、次の3項が飛躍の要因になったと考えられます。
1. 広大な平地の存在
2. 海・川・湖を結ぶ多方面交通路の存在
3. 東日本の労働力・軍事力を活用できる絶妙な地政学的位置

大勢を養える広大な平地
 日本列島では、弥生時代になると、縄文海進で海に沈んでいた多くの地域で海退が進みますが、3世紀頃になっても、大勢が住み農耕に適した広い平地は得られず、わずかばかりの平地でさえ湿地に覆われていました。歩いて通ることさえ困難でした(第39回ブログ)。

 そのうえ、平地でないところは海岸線ギリギリまで山林に覆われ、4、5世紀頃になっても踏み分け道ばかり。先進地であったとされる山陽や山陰でさえ、幹線道路はまったくなかったのです。

 現在、比較的大きな平地が展開する広島平野・岡山平野・徳島平野は、おおよそ海抜3~5メートル以下で、3世紀頃の時点では沖積平野が形成されておらず、大半が海の中か、わずかばかりの平地ないしは湿地でした。西日本全体に平野が極めて少なかったのです。

 同じく、河内(大阪)平野の大半も海抜5~10メートル以下で、やはり沖積平野が形成されておらず、そのうえ大きな河内湖が存在していました。その後の土砂の堆積で水域は縮小し、干拓によってほぼ完全に陸地化したのは18世紀初頭のことです。

 山城(京都)盆地は海抜こそ高いが、巨椋池の存在や暴れ川の氾濫による湿地が多くを占めていました。東部は鴨川によって、また西南端付近は桂川の氾濫でしばしば浸水し、巨椋池に至っては昭和10年代中頃まで浅い水域が残されていました。

 それでも、瀬戸内海各地の平野に比べれば、河内平野や山城盆地の広さは一段上回ります。

  これらに対し、下図に示すように大和盆地の広さは際立っています。このことを、国土地理院のデジタル標高地形図を活用して確認してみます。

 山城盆地と大和盆地は、木津の南で100メートル前後の低丘陵、奈良山(平城山とも)によって南北に二分されています。しかし地質学上は「山城・大和地溝」と呼ばれる一連の地形で、東側の比叡・春日山地と西側の生駒・金剛山地に挟まれた低地という特徴から、比較的通行が容易な大和地域と山城地域の間は古代より交易が盛んでした(第82回ブログの最後で言及した)。

 

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<国土地理院のデジタル標高地形図を改変>

 3世紀頃の時点では、多くの部分が水没または湿地だった河内平野と山城盆地(朱色の丸印)に比べても、水没のない大和盆地(右下の紺色丸印)の広さは際立っていました。

 第45回ブログで言及したように、弥生末期の大和盆地には縮小した古奈良湖とそのまわりに湿地が広がっていた可能性がありますが、古奈良湖まわりの広い扇状地に河川が四通八達していたため、かえって農耕に有利でした。

 前回のブログで述べましたが、大和盆地の中西遺跡で、紀元前400年頃としては国内最大規模の水田跡が見つかっています(2019年)。食の面からも大勢が居住できる基盤があったと想定できます。

 現在までに纒向遺跡で水田稲作や農耕の跡が見つかっていませんが、大和盆地という広い範囲で見れば、大勢を養えるインフラは揃っていたとみるべきでしょう。

 

 大和盆地は、他の地域と比べて平野の規模が違うわけです。大勢を住まわせ食をまかなうことが可能な安定した広さこそが大和盆地のもつ大きなポテンシャルです。

 大和盆地の広さと水源の豊富な扇状地という地形は、農産の隆盛に直結し、ヤマト王権の発祥・成長の大きな原動力になったと思われます。

 先進地である九州北部から来た文化は、山陽、山陰を東に進み、途中の吉備や出雲などに多様で個性的な文化を形成したが、本格的には大和盆地に至って西日本各地の文化が統合されてより高度な文化となって結実します。こう語るのは大山誠一氏です。
 筆者も同意。ただし結実するのは4世紀になってからです。

 海に面しておらず、むしろ後発だった大和盆地が、西日本の先進文化に接触できたのは、次項に記す三方向交通路の存在が大きかったと思います。

 この天然の交通インフラが大和盆地に福音をもたらすのは、3世紀末以降、むしろ4世紀になってからなんですね。

 

三方向交通路の存在
 第45回ブログで言及した「海・川・湖を結ぶ多方面交通路」についてもう少し掘り下げてみます。
 大山誠一氏は「大阪湾と若狭湾と伊勢湾に囲まれ、中央に琵琶湖と大和盆地がある近畿地方の地形には何か神懸かり的なものを感じる」と表現しています。

 このことを直感的に理解できるのは次に示す地形図です。
 古代に、海だった可能性のある平野を青色で示すと、内陸にある大和盆地と山城盆地の平地としての大きさが際立ちます。白線は府県境を、茶色太線は流域界(第45回ブログ)を表します。

 大和盆地は大和川水系の中にあるため、盆地内のどこからでも小河川を下ればそのまま海に出られることもよく分かります。

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<国土地理院のデジタル標高地形図を改変>

 

 地政学的に見ると、日本海から遠く離れた大和の地が大きく発展することは考えにくいのですが、実際は河川や湖の存在が大和地域の急速な発展を可能にしました。

 大和盆地には軟弱地盤が存在するので、前述したように、その部分に古奈良湖があったと推定されています。

 その後、金剛山地と生駒山地に挟まれた大和川の狭窄部(亀の瀬峡谷)で、数十メートルの高さの閉塞土が長い時間をかけて徐々に流失し、湖が干上がって小規模化ないしは湿地となったといいます。
 したがって、弥生末期の大和盆地には、縮小した古奈良湖と湿地が広がっていたはず。山の辺の道はその湿地帯の縁を縫うように走っていたことになります。

 古代の豪族勢力図を見ても、大和盆地の中心部は空白域となっていますね。この地域には豪族が居住していなかったという証拠です。おそらく中心部付近(今の広瀬大社が鎮座するあたり)は活用できる土地ではなかったのでしょう。

 その代わり交通面では、古奈良湖まわりの扇状地に河川が四通八達していたため、盆地内各地から大和川経由で河内湖にアクセスできました。木津川を使う舟運と一部山越え(100メートル前後の奈良山越え)で、巨椋池や琵琶湖までも比較的容易にアクセスできました。
 大和盆地が、標高30~100メートルと海面からさほど高くないことも水運が有効に機能した理由です。

 後発だったヤマト国がこの地で発祥し、やがて先頭に立った理由の一つが、
「丹後~山城~木津川~大和盆地」ルート(「わに」地域経由または奈良山越え)
「河内~大和川~大和盆地」ルート(亀の瀬峡谷越え経由)
を押さえたことによります。

 しかし、3世紀の段階では、この2つのルートは排他的に利用できるほど万全のものではありませんでした。4世紀以降のヤマト国は、このルートの完全掌握に向けて軍事行動を起こし、ヤマト王権へと移行していくのです。

 3世紀より前から機能したのはルート①です。大和盆地への先進的な文化・技術の流入は木津川を経由する近江方面からでした。
 ルート②は、亀の瀬を通過するため難易度がやや高く、それを克服する技術開発に時間がかかりました。
 しかし河内湖と大和盆地の間は、亀の瀬峡谷を通過できれば、同じ大和川水系でつながっているので、鉄製道具が入手でき舟をつくる能力が高まった3世紀末頃からは往来が活発化したと思われます。
 もちろん、大和川の河口からそのまま大和盆地まで漕ぎ上ったわけではなく、勾配のきつくなるところは小舟に換えて曳舟をし、難所はボッカでクリアしたはずです。馬が輸入されてからは「駄載」もおりまぜて……。

 一方、淀川水系中流部は大変な暴れ川だったため、多くの人口が住めるようになるのは、鉄器が普及し治水が進む4世紀後半以降です。

 少々遅れるが6世紀までには③「若狭~琵琶湖~淀川~河内」一帯もヤマト王権の支配下に入ります。 

 これらの海・川・湖を結ぶ三方向交通路(①②③)がヤマト王権発展の原動力になったと言えましょう。

 ヤマト国がヤマト王権として版図を拡大していく過程で、最初にアプローチした地域は、木津川から近江・山城、続いて山城盆地経由の丹後と推定します。

 その後、瀬戸内海東部から河川や川沿いの道を利用して伯耆、出雲方面と通交したと考えます。瀬戸内海と日本海を結ぶ「南北ルート」(第45回ブログ)の利用です。

 いずれも、先進的な文化の吸収、文物の入手に有利な「海に出る」ことが狙いです。ヤマト国は、みずからと言うよりは、同盟関係にあった豪族(物部、和珥の前身集団など)を使い、貪欲に朝鮮半島と通交したと思われます。

 吉備に介入して瀬戸内海航行を掌握するのは5世紀後半から6世紀になる頃です。

 

東日本の労働力と軍事力を活用
 日本列島は、飛騨山脈から白山山地・伊吹山地・鈴鹿山地・紀伊山地と続く大きな壁によって、東日本と西日本に分割されています。
 この壁の存在により、西から来た先進文化が東に進むには時間がかかり、縄文時代には人口も多く豊かな地であった東日本は、弥生時代の1000年のあいだに後進地域と化してしまいます。
 東日本は西の文化を渇望するという広い意味での服属関係が生まれてしまったわけです。

 この大きな壁にも谷間や峠という隙間のような箇所、例えば関ケ原のような交通の要衝がいくつか存在します。大和盆地との関係では、伊勢湾沿岸から名張を経由して初瀬川を下れば纒向に達するわけで、纒向は東西日本の接点の位置にありました(以上、大山誠一氏の著作より)。

 

 歴史的に見れば4世紀頃までの大和盆地は「三方向交通路①②」で先進文化・技術を取り入れたが、東日本からは先進文化の取入れはありませんでした。
 しかし、伊勢湾沿岸方面と纒向の間は、④「伊勢湾沿岸~伊賀名張~初瀬川~纒向」ルートで比較的容易に通行できました。
 このルートは、ヤマト王権にとって東日本からの労働力・軍事力の調達ルートであったと考えられます。
 纒向大集落に7000~8000人もの大勢が居住していたのは、農耕・手工業従事者、交易従事者、各地からの滞在者に加えて、古墳築造従事者が多数存在したからとされています。
 その労働力供給リソースは東日本の豊富な人口に負うところが大きかったのではないでしょうか。

 纒向遺跡で出土した土器の15%超が広域由来とされていますが、そのうち伊勢・東海からの土器だけで約半分を占めています(第18回ブログ)。これは東海地域との間を往来するだけでなく、相当数が定住した証拠と考えられます(その証拠は見つかっていませんが)。

 西日本からは先進文化・技術を取り入れ、東日本からは労働力を確保した、その結果誕生した象徴が箸墓古墳といえるのではないでしょうか。

 もちろん、縄文時代の狩猟をベースとした闘争本能に優れた軍事力も入手でき、4世紀以降に強大なヤマト王権が成立する大きな要因になったと思われます。

 

参考文献
『平野が語る日本史』日下雅義
『天孫降臨の夢』大山誠一
『古代日本誕生の謎』武光誠
『よみがえる古代の港』石村智
他多数