初めての巨大古墳とされる箸墓古墳の存在は、初期ヤマト国の勢力を物語る象徴的な存在です。前方後円墳祭祀は、三方向交通路(第86回ブログ)の要の位置にあった纒向ならではの発明です。
考古学界主流の論調では、弥生時代の畿内や大和盆地には、先進的祭祀を発明し、巨大古墳を造りあげるだけの政治権力や強力な王権は存在しない、とされているようです。そこで、畿外勢力の関与説が登場するわけですね。
しかし筆者は次のように考えます。
紀元後まもなく大和盆地東南部に存在した「ムラ」が統合、発展して、3世紀半ばには「纒向のクニ」となり、4世紀になると自ら巨大古墳を造ることが可能な「ヤマト国」になったと……。
各地から人々の集積が続く中で、纒向の王は、西日本各地に伝わる墳墓の形状・埋葬文化を組み合わせ、主として東海地域から確保した労働力を使って、巨大前方後円墳と新たな祭祀を生み出しました。
これら巨大前方後円墳と新たな祭祀がヤマト国の勢力拡大に寄与したプロセスを確認してみます。
箸墓古墳築造からが古墳時代?
現在の考古学では、3世紀半ばの巨大古墳(箸墓古墳)築造をエポックメイクな事象と捉えて古墳時代の始まりとしています。
しかし、この時代区分は適切だと言えるのでしょうか。
そもそも、箸墓古墳という前方後円墳は無主の地に突然造られたのではなく、纒向には2世紀後半から人びとが集落を形成し、3世紀初めから連綿と小規模方形墓や前方後円墳が造られてきた前史があります(第84回ブログ)。
現在の考古学では、箸墓古墳より前の前方後円墳を「纒向型前方後円墳」と呼んで箸墓以後の古墳と区別していますが、これははっきり言って妙なことです。
考古学では、箸墓より前の纒向古墳群は、前方後円の形をしているものの、前方部が短く未発達なため、特に「纒向型前方後円墳」と呼ぶのが通例で、定型化した前方後円墳が造られる前の「最古の古墳形式」とされているわけです。
筆者は「纒向型前方後円墳」も前方後円墳と呼ぶべきと考えます。両者を区別する必要を感じません。古墳時代の開始時期をエポックメイクな箸墓古墳の築造時期に合わせたいがために、箸墓古墳を特別視するのは不合理です。
そもそも縄文・弥生・古墳という時代区分が不合理なのは明白。その境目はグラデュエーションになっているわけです。
どこまでが弥生墳丘墓でどこからが古墳なのか、どこまでが弥生時代で、どこからが古墳時代なのか、これをうまく切り分けるのはなかなか難しい問題です。
そこへいくと鎌倉、室町、江戸という時代区分はわかりやすいですね。
纒向の前方後円墳(纒向古墳群)
纒向遺跡には20数基の古墳が存在します。
このうち前方後円墳と判別できるものは、箸墓古墳、纒向石塚古墳・矢塚古墳・勝山古墳・東田大塚古墳・ホケノ山古墳の6基で、考古学では、これらを総称して「纒向古墳群」と呼ぶようです。
出土物の調査等から、3世紀前半から半ばにかけて纒向石塚古墳をはじめとする前方後円墳が5基築造された後、3世紀後半まで(最も早い説では西暦240~260年)には大型の箸墓古墳が築造されたとされています。卑弥呼活躍の時期と一致するので、「邪馬台国大和説」が登場するわけです。
しかし、ホケノ山古墳と箸墓古墳の築造を4世紀とする説も存在していて、なかなか厄介な問題です(第84回ブログ)。
年代推定は技術的な誤差が大きく、同じ場所で2~3世紀の遺物と4世紀のものが見つかることが多いので、纒向遺跡で3世紀の遺物が出土したからといって、箸墓古墳自体が3世紀のものとは断定できません。
今の考古学は、時代を遡る方向へバイアスがかかり過ぎているので、筆者は(科学的な姿勢ではありませんが)、4世紀説の方に共鳴するものがあります。もしも箸墓古墳が3世紀末から4世紀初め頃の築造とされるのであれば、箸墓は『記・紀』で実質的な初代大王の位置づけとなっている崇神の墓に比定できそう……。
〇 纒向石塚古墳 3世紀前半 全長93メートル
〇 矢塚古墳 3世紀半ば以前 96メートル
〇 勝山古墳 3世紀半ば以前 100メートル
〇 東田大塚古墳 3世紀半ば以前 96メートル
〇 ホケノ山古墳 3世紀半ば(4世紀前半説あり)90メートル
〇 箸墓古墳 3世紀後半(4世紀前半~4世紀半ば説あり)278メートル
確かに最初の5基は90~100メートル級であるのに、箸墓古墳が急に280メートル級の規模になるのは驚異で、大和盆地内の勢力だけでは築造が不可能と思われることから、ここに連合政権説などが生まれる素地があるわけです。しかし「技術の進歩」はこのように不連続にステップアップしていくものなのですよ。
巨大古墳は、相当程度の動員能力と経済力がなければ築造できません。
規模が桁外れに大きいのは事実ですが、大きさに惑わされて、もっと底流にある大きな動きを見失ってはいけません。規模の大きさは単に大和地域における富(マンパワー・財力)の蓄積の結果です(第23回ブログ)。
前方後円墳築造技術の進歩
箸墓古墳は桁外れの大きさといいますが、「桁外れ」のステップアップは古代史においても何度も起きています。
〇 山陰地方(5倍化)
紀元前1世紀頃に一辺10メートルほどの小型四隅突出型墳丘墓が三次盆地で誕生。以後、10数メートル級が続くが、紀元後2世紀後半に西谷3号墓で、一辺55メートルと突然巨大化。
〇 大和盆地(5倍化⇒ 2.5倍化)
従来の一辺20メートルほどの方形墓に対し、紀元3世紀前半に全長100メートル前後の前方後円墳が誕生。以後100メートル級が続き、紀元3世紀後半(実は4世紀?)に全長278メートルの箸墓古墳が誕生して2.5倍化。以後、200メートル超の巨大古墳が続く。
〇 河内地方(2倍化)
200メートル級が続いた後、4世紀後半から5世紀に、400メートル超の巨大古墳が出現。
箸墓古墳の特異さは、その巨大さだけでなく、各地の墳墓形状や祭祀に見られる様々な特性がミックスされて成立していることです。このことが、「纒向のクニ」が西日本各地の豪族による連合政権だとか、西から東遷してきた勢力が主体となって造りあげたという根拠にもなっているわけです。
箸墓古墳の特徴は次のようなものです。
墳墓の形状については、大和盆地内の纒向型古墳から進化したとも考えられますが、讃岐・阿波地方には箸墓古墳と同一設計の古墳がほぼ同じ時期に築造されていて、互いに影響関係にあったことも推察できます。
墳丘表面を葺石で覆う方式は出雲など山陰地方の四隅突出型古墳の影響が見られます。
さらに墳丘上には、吉備で多く見られる特殊器台・特殊壺と呼ばれる特徴的な土器が飾られていた可能性もあります(ただし発見は1点のみ?)。
古墳内部は不明ですが、同時期の纒向古墳群の調査から類推すると、鏡・玉・武器などの威信財副葬や、棺への水銀朱の塗布などは九州北部からの影響が見られます。
しかし、今まで当ブログで度々言及してきたように、これらは政治勢力が直接関与した結果ではなく(すなわち九州北部・吉備・讃岐・阿波などの王たちが関与して造りあげたものではなく)、交易などを通した伝播の結果に過ぎません。
交通インフラが不完全で情報授受もままならない状況下では、政治権力が直接的に遠隔地同士で連合を組むという行動は考えられません。
紀元後の大和盆地には多数の中小規模の集落が存在しましたが、いずれも独自の墳墓形式が確立しておらず、何でもありの融通無碍な状態で、そのことがかえって、西日本各地の墳墓形式や祭祀形式を融合して取り入れるのに寄与した側面があったと考えます。
今回のブログのタイトルは「先進的祭祀の発明」としましたが、箸墓古墳は、ヤマト国が全くのゼロからある日突然、造りあげたわけではなく、交易などを通じて入手した各地の墳墓の情報や、築造技術のキーマンの確保によって、小規模方形墓や纒向型前方後円墳の築造という過程を経て、徐々につくりあげてきたものなのです。
実は筆者も、箸墓古墳が3世紀半ばの築造では、技術は不連続にステップアップするものといくら叫んでみても、少々無理があると今まで感じていました。
4世紀前半くらいの築造であれば、大和盆地に鉄や先進技術が伝わり、専門職の人材も育ち、技術の蓄積が始まってからの経過時間も長いので、「巨大古墳の築造は技術の進歩の結果!」と高らかに叫ぶことができるわけです。
そういう意味でも第84回ブログで言及した「箸墓古墳の築造は4世紀の可能性あり」という論考は、筆者が構想する古代史にとって大変に重要で魅力的です。
箸墓古墳の築造と古墳造営キャンプ
纏向遺跡は、4世紀には3㎢まで拡大し、当時としては桁外れに広大な集落でした(第84回ブログ)。
この広大な場所に最大で7~8千人が居住したのではないかとされています。祭祀都市だったのではないかという説も提示されていますが、祭祀のためだけにこれだけの規模が必要なのでしょうか。
いずれ「5世紀のヤマト王権」に言及するときに詳しく触れることになりますが、大仙陵古墳は、当時の技術で直接労働力3千人を16年間にわたって投入し完成させたと試算されています。
この集団に食住を提供する「後備え」まで含めれば5~6千人となります。
古墳は大規模になるほど、多量の労働力が必要になります。
単純計算では、墳長が2倍になれば土量は8倍、3倍になれば27倍、10倍になれば1000倍が必要になります。
大仙陵古墳(墳長486メートル)に比べて箸墓古墳(墳長278メートル)の築造に要する土量は約5分の1に相当します。土量と労働力は、その時の築造工法などによって変わるため必ずしも比例しませんが、それでも大仙陵古墳が16年間にわたって5~6千人を要したのであれば、箸墓古墳は同じ人工(にんく)を投入すれば3~4年で築造できたということになります。半分の人工であれば6~8年かかる勘定です。
また3世紀の纒向型前方後円墳(墳長90~100メートル)であれば、箸墓古墳の25~30分の1で済むので、築造期間が8年なら70人程度ということになるでしょう。4年なら140人程度と見積もれます。
これに対し、箸墓古墳を築造するための労働者は、家族ないしはサービス部隊(後備え)を含めると、顔ぶれは入れ替わるものの、8年間にわたり、常時3千人近くの古墳築造関係者が居住していたのではないでしょうか。纒向型前方後円墳に比べると確かにスケールの違いが歴然です。
纒向を含む「おおやまと地域」では、箸墓古墳をはじめとして数十年の間に大規模前方後円墳が陸続として築造されています。
電車通勤というわけにいかない3世紀にあっては、数十年間にわたって3千人くらいの築造関係者が築造現場の近くに居住したと思われます。彼らはどこにどうやって生活していたのでしょうか。
おそらく、若狭徹氏のいう「平地建物」のようなものが沢山存在していたに違いありません。
であれば、纒向の想定面積の相当部分がこれら築造関係者で占められてしまいますね。彼らの宿営地としての集落が一定期間、存在したことは十分に考えられます。
指導層や交易従事者の住居、特産品の生産や農耕地の他は、林立する古墳と古墳築造労働者だらけのクニだったのかもしれません。纒向を「古墳造営キャンプ」と呼んだ研究者は酒井龍一氏のようですが、けだし名言。
集落遺跡から見つかる大量の土器片や石器などのありふれた日常品が「古墳造営キャンプ」の存在を暗示しますが、住まいを含め一般民衆の生活実態はほとんどわかっていないというのが現実です。
巨大古墳の築造と前方後円墳祭祀の発明が、西日本からの技術・文化を取り込み、それらを融合させることにより従来技術の延長線上で達成できたこと、そして築造のための労働力は、大和盆地内の地場の人々に加えて東日本のサポートが大きかったことは前回のブログで述べました。
「西の文化・技術」と「東の労働力」の上に巨大古墳が完成したと考えられます。
第85回ブログで述べたように、まさに広義の富(人口・財力・技術力)を蓄積した地域連合体(大和盆地東南部の中小豪族層を中核とした初期ヤマト国)が箸墓古墳を築造したと言えましょう。
ここで、前方後円墳祭祀が発明されるまでの歴史を確認してみましょう。
弥生墳丘墓から前方後円墳へ
日本独自の前方後円墳がなぜ生まれたのか、研究者の間でもいろいろな見解があるようです。世界のどの民族にも精霊信仰という初期的段階があったが、文明が高度化するにつれ祖霊信仰が生まれたようです。
日本でも、紀元前後から3世紀にかけては祖霊信仰の祭場と弥生墳丘墓が存在します。
2世紀から3世紀前半にかけての墳丘墓や祭祀形態は地域独自色が強く、吉備の楯築墳丘墓や、山陰から北陸にかけての四隅突出型墳丘墓などが特徴的です。
弥生墳丘墓はもっぱら一族の指導者たち(複数)を祀る宗教的な意味合いで、祖霊信仰そのものといえます。やがて古墳時代を迎えることになります。
一般的に、古墳は墳丘墓と異なり、基本的にはリーダー1人(単数)のための墳丘墓と定義されるようです。しかし実際には、近親者の追葬など、複数の埋葬が行われた古墳も多く存在します。
そもそも地域国家の首長は、なぜ古墳を造ったのでしょうか。
古墳が現われたのは、それまでの純粋な祭祀が変質し、亡き首長の葬送儀礼を行なう際に、巨大古墳を築いて力を誇示し、一族の威信を広く誇示したものといえるでしょう。
魂を鎮め邪鬼を払うために副葬された鏡や刀剣も、同様に威信を誇示するものでした。古墳は、首長が神に等しい存在として祀られる首長霊祭祀とセットで広く受け入れられていき、大きな祭場は次第に姿を消していきます。
そして、首長霊祭祀の象徴が前方後円墳による祭祀と言うことになるわけです。
せっかくなので、弥生時代の祭祀が高度化し、纒向で発明された古墳が4、5世紀にかけて全国に広まり、そして7世紀の薄葬礼を経て終焉を迎えるまでの推移を概括してみましょう。
進化考古学
進化考古学を提唱する松木武彦氏は、人が作り出した遺跡・遺物から人間の心の移り変わりを読み解こうと試みています。警察の捜査に例えれば、考古学は「鑑識」、進化考古学は「プロファイリング」だと。
氏の論をかいつまんで記せば下記の通りですが、きわめて明快で説得力があると思います。
物理的な機能ではなく、心に働きかけることを目的としてつくり整えられた構造物を「モニュメント」というが、集団の絆が強く個人がさほど傑出していない時代は、縄文時代の環状列石のように、円を基本とし造形も素朴なモニュメントだった。
その後、集団の規模が大きくなり、首長の権威や、そのベースとなる宗教的な威信を演出する役割が高まると、モニュメントはより大きく高さを増し、視覚的効果を狙って美的表現を盛り込んだものになっていった。
巨大古墳は、それまでの弥生墳丘墓と区別され、エジプトやマヤのピラミッド、ギリシャ神殿などと同様に、まさに美的モニュメントの範疇に入ります。
一方、美的モニュメントたる巨大古墳は、築造やまつりに直接参加し、実際に目にすることのできる限られた人数と空間に対してしか、その威信を表示することができません。日常的な行き来のない遠隔地にまで威信の内容や支配の論理をゆき渡らせるには限界があるわけです。
ところが文字が出現すると、首長の威信のベースとなる思想や複雑な身分制度を、多くの人々に論理的情報として共有させ、広い範囲に正しく伝え、世代を超えて蓄積、拡充していくことが可能になります。
こうして事態は一変し、巨大古墳の必要性は薄れていったとされています。
6、7世紀以降は、制度や法典、神話や歴史書などの文字に根ざした、言葉による「知」が文化の中での比重を高めます。
古墳は、それと歩調を合わせるように小型になり、埋葬空間内部の装飾に凝り、限られた人々を対象とした内向きのメッセージとして働くように変質し、やがて現代の「墓」に近いものになっていったようです。
参考文献
『王権はいかにして誕生したか』寺沢薫
『古代国家はいつ成立したか』都出比呂志
『前方後円墳の世界』広瀬和雄
『古代日本誕生の謎』武光誠
『弥生時代の歴史』藤尾慎一郎
『古墳解読』武光誠
『血脈の日本古代史』足立倫行
『倭人伝、古事記の正体』足立倫行
『東国から読み解く古墳時代』若狭徹
『古代日本海文明交流圏』小林道徳
『鏡から古墳時代社会を考える』辻田淳一郎
『よみがえる古代 大建設時代』大林組プロジェクトチーム編著
『考古学講義』北條芳隆
他