理系脳で紐解く日本の古代史

既存の古代史に挑戦!技術と交通インフラを軸に紀元前2世紀頃から6世紀頃までの古代史を再考する!

89 ヤマト国の発祥(5)優秀な王・厚い豪族層・軍事力の優越

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ヤマト国の本格的勢力拡大は4世紀後半以降
 大和朝廷が、古墳時代の初期(3世紀~4世紀前半)に日本列島の広域を支配していたという通説は成立しないし、大和地域が当初から突出していたわけでもありません。
 河川や山などの障壁を突破できる交通路が貧弱だったため、大和盆地の中で発祥したヤマト国は、軍略に訴えて短期間のうちに、しかも広域に勢力を拡大することは不可能でした。

 近畿中部に位置する大和地域が、近江や丹後などの鉄製品製造の先進地から鉄鋌(てってい)や鉄製品を調達して、大きく飛躍するのは4世紀以降でしょう。これについては、考古遺物の存在から、同盟関係を築いた大和盆地北部の豪族の役割を無視できません。
 日本列島の統一は、製鉄技術の進歩や交通インフラの整備に比例して、7世紀頃にかけてゆっくり進んだというのが古代史の正しい理解です。

飛躍をリードした優れた大王(王)の存在
 いかなる国でも企業でも、勢力が強大になるには優れた王や創業主の存在があります。また王や創業主を支える戦略スタッフ層の存在も大切です。
 2世紀まで後進地域だった大和地域が、3世紀後半からスタートダッシュし、4世紀半ば以降、他の地域を尻目に突出していくのは、多くの偶然が作用したからにほかなりません。

 第85回~88回ブログで述べてきた、大勢を食住をまかなえる広い平野、交通・交易上の地勢的利点、前方後円墳祭祀の発明、産業政策の4項目は、言うなれば勢力拡大の「舞台装置」になりますが、舞台装置を余すことなく活用して演じてみせたのは纒向の優れた王のリーダーシップでしょう。エビデンスはないのですが……。
 それが誰であるのか、個人名を特定することはできませんが、行政の仕組みが確立していなかった古代においては、リーダーの資質こそがもっとも大切であって、纒向では3世紀前半からカリスマ的な王が連続して輩出したと想定できます。
 そして3~4世代を経た3世紀後半になって纒向大集落の形成や箸墓古墳の築造(実は4世紀?)となって結実したと考えます。

 もともと、大和盆地には紀元前後から、大和川支流の交通要衝地に、中小のムラが存在していたと考えられます。高市、葛城、十市、磯城、山辺、曾布、磐余などのムラです。
 このうち、纒向のムラが出現した3世紀初頭には、唐古鍵から移動したカリスマ的な王がリードする形で、大和盆地東南部の大和川支流沿いに集住していた中小豪族層(磐余・三輪・田原本・柳本など)が次第に一体化して地域連合体が結成されていったと考えます。
 そうした中で、3世紀後半になって富(人口・財力・技術力)を蓄積した地域連合体は「纒向のクニ」となります(第22回・24回ブログ)。
 『記・紀』では崇神あたりまでがその時期に該当しますが、その真偽については何とも言えません。

 その後も、直系か別系統かは別として、纒向の王は3世紀末にはヤマト国の王として、さらに4世紀後半にかけてはヤマト王権の大王として政治支配力を強めていきます。これを可能にしたのは、ヤマト国が盆地内の分厚い豪族層と賢明な同盟関係を結んだことにあります。

 特に、纒向のある「おおやまと」地域の北に接していた「ふる」地域とは、ほとんど一体的な関係にあったと想定できます。考古資料や『記・紀』の記述などから、ヤマト王権と物部氏の緊密な関係(軍事力・祭祀など)が認められるからです。


 大勢を養える広大な大和盆地には、豊沃で流通の便に優れた淀川流域の平野と、瀬戸内航路の要である河内の沿岸を結び付けられる物流ネットワーク上の大きなポテンシャルがありますが、その物流の要衝地に展開した分厚い豪族層(後の物部、大伴、和珥、葛城氏などの前身集団)の存在は無視できません。 
 大和一円は野心的で優秀な豪族層がひしめく梁山泊だったと言えそうです(第18回ブログ)。

 この王を支える大和盆地内、ないし近傍の豪族層は、4世紀になると王権を支える傍ら、互いに勢力を誇示しあい、それぞれが独自に朝鮮と通交するなどして、切磋琢磨しました。
 これら「纒向のムラ」ないしは「ヤマト国」「ヤマト王権」と豪族層との合従連衡については、次回以降のブログで言及します。


卓越した軍事力
 ヤマト国の軍事力については、質の面では西日本の武器技術を、量的には主として東日本の人材を活用することで列島随一となります。東日本の人びとは、縄文時代の狩猟文化から続く勇猛果敢な資質がベースにあります。個の戦闘能力も高かったが、チームとしての闘い方もうまかったのではないでしょうか。

 古墳築造には多くの経費、資材、労働力、技術、時間が投入されました。
 築造作業は木製の鋤・鍬・天秤棒などを用いた人海戦術でしたが、測量技術や労務管理能力には目を見張るものがあり、集団で人を動かす軍事的能力の高さ通じるものがあります。
 古墳築造に従事した多人数の集団は、有事には武器を持たせて戦闘集団に変えることが可能です。
 言い換えれば、次々と巨大古墳を築いた大和盆地の勢力は、潜在的な軍事力を恒常的に確保し掌握していたとも言えます。
 しかし、交通インフラや技術のレベルから考えて、3世紀後半や4世紀前半の時期に、長い行軍ができる大規模な戦闘組織や、それを支える兵站(物資補給)の体制が整っていたとみるのは困難です。
 つまり、この時期には近隣地域との小規模な戦闘、すなわち小競り合い程度の戦いであったということになります。

 4世紀半ば頃から、交通インフラの進化(特に陸路の啓開)に比例するように、ヤマト国は大和盆地の外へ打って出ます。
 陸路が人為的に開削され造成されていくのは、鉄製工具が出回り、渡来の造成技術がもたらされる5世紀頃からです。
 5世紀の道路建設は、鋤などの木製作業具の先端に鉄製のU字刃を取り付けるだけで、工事の効率が飛躍的に高まりました(鉄製U字刃は当然、農耕の効率化にも寄与)。軟弱地盤の箇所は、土の入れ替えや路面に砂を入れたりして、崩れにくくぬかるみにくい道路としました(第26回ブログ)。

 この時期のヤマト王権は、古墳築造で調達した労働力と培った組織運用力を軍事に振り向けたと考えられます。その証拠はあまり残されていませんが……。

 武力衝突の舞台が防御施設などであればまだしも、構築物をともなわない場所で展開された武力衝突については、その存在を推定しうるような遺構・遺物の出土は、5世紀以前ではきわめて稀です。
 戦争の個別事例について、その展開過程を直接的に明らかにしようとする研究はほとんどありません。ただし、文献史料に記録が残る戦争についてはこの限りではなく、例えば倭国大乱をめぐる議論は活発におこなわれてきました。
 しかし、考古資料からは、倭国大乱が想定されるような大規模な武力衝突の直接的な痕跡は当該時期に認めがたいとの指摘がなされています。

 3世紀の大和盆地ならびに周辺においても大規模な軍事衝突の証拠は認められませんが、『記・紀』の記述から想定できるのは、物部氏・大伴氏(の先祖筋)の軍事的役割が大きかったということでしょうか……。

 しかし、大伴氏の軍事に関する伝承が多いのは、6世紀以降に、軍事・武力でヤマト王権に深く関わったためとも思われます。
 大伴氏の当初の本拠地は、畝傍山周辺一帯でした。第81回ブログで述べたように、「橿原宮は大伴氏の先祖の土地であり、四条古墳群も大伴氏の先祖の墓と認識されていた」可能性があります。
 ただし、この一帯には6世紀半ば以降、蘇我氏が勢力を伸張させたため、大伴氏はこののち本拠地を磯城・十市地域に移したようです。

 

 武器・武具の進歩・拡充は、鉄製品の調達や鍛冶工房の展開と密接に関係しています。
 しかし古墳の副葬に目立つ刀剣と甲冑は武力の水準を表していません。扱いにくく実戦向きではないため、儀器であったと考える方が理屈に合います。それらがたくさん副葬されていても、その古墳の被葬者が強力な軍隊を保有していたことを意味するわけではありません。

 3~4世紀の戦闘の主力武器は打刀(うちがたな)ではなく、弓・矢であって、一斉に矢を射かけて剣でとどめをさす矢合戦が戦いの普遍的な姿だったと考えられます。
 武具としては、甲冑ではなくを考えるべきでしょう(古代の武器については機会があればいずれ詳述する予定です)。
 矢合戦で重要な鏃は、石器・青銅器から鉄器に、形状も小型から大型に進化します。

 ヤマト国は、比較的早期に、矢合戦に必要とされる武力集団の動員力・展開力で各地域の集団をリードしたと思われます。
 主要な武器である鉄鏃の調達は近江あたりから可能ですし、古墳築造で培った組織運用力で大勢の兵士を自在に動かせたと想定できます。

 

 軍事力で秀でたヤマト王権が名実ともに安定していくのは、6世紀の継体から欽明にかけてのことです。この後のブログはそれを追いかけていくことになります。
 とりあえず次回からは「3~4世紀のヤマト国」として、初期ヤマト王権が大和盆地から次第に版図を拡大していく様記・紀』の記事なども引き合いにしながら確認していきたいと思います。
 そこでは、既存の豪族層との合従連衡ないしは支配について、また王権が単一勢力ではなく並立していた可能性などについても言及します。


参考文献
『倭王の軍団』西川寿勝・田中晋作
『兵器と戦術の日本史』金子常規